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「感情的な女性」について

もちろんみな全員そういう人々だとは言わないが、やたらと議論をふっかけたがる男性や彼らに同調する女性の中には、さも女性に感情的(ズバリ「ヒステリック」)で自分との議論が成立しない、自分が上から目線で説教して説き伏せることのできる存在であってほしいと願う人がそこそこいると思う。

例えば、インターネットの論壇で一部男性や同調する女性(「名誉男性」)に藁人形のように釘を打たれる「フェミニスト」ないし「女」という存在。彼女らは往々にしてそもそも論理的思考が成立しないか他者には通用しない自前の論理で議論に応戦し、「論理的かつ冷静な」(つもりの)攻撃者側に論破される存在として定義される。実際そういうフェミニストや女性もいるのだが、攻撃者側が藁人形として持ち出して陰口を叩くときはこうした性格が一般化されている。数年前までの日本語圏のインターネットでは(今でも一部ではそうだろうが)このフェミニストや女に加え、主に韓国人・朝鮮人や中国人をはじめとする(白人以外の)外国人や障害者、被差別部落出身者らもそういうふうに扱われて嘲笑の対象になっていた。
続いて、相手の男性とまだ「知的な」(=論理的な)議論はできるが、議論が煮詰まってくると感情的になって、先の女性のようにヒステリックになる女性。こうした女性の中にはいわゆる「名誉男性」もいるが、上から目線な男性によるお説教、いわゆるマンスプレイニングの恰好のターゲットになりやすい。もしくは、権威ある男性のウグイス嬢的アジテータ役か。また、その手の男性に同調しやすいタイプの女性は、彼らのそばでニコニコしながら座って話を聴くだけのお飾りあるいは「バーのママ」「お酌する女」「オヤジ転がし」(cf. https://togetter.com/li/752261)のような存在、ないしワイドショーのコメンテーターか雛壇芸人のような存在になっている。なおこの手の女性については、ミシェル・ウエルベックの小説に出てくるヒロイン(典型的なのは『プラットフォーム』のヴァレリーや『服従』のミリアム)を想像してほしい。

こういう女性観が問題になるのは何も女性自身のエンパワーメントの場だけではない。左派も右派も社会の上位層も下位層も、男女問わず大多数が「女はそういうものだから」で片付けてきたから、女性は何らかの議論に参加する、意見を表明するたびに揶揄や嘲笑に見舞われてしまうのである。ゆえにかフェミニズムという思想も、フェミニスト以外にはウーマンリブの時代でさえも、ブラジャーを燃やす女たちや中ピ連のようなクレイジーな行動の原因としてしか扱われてこなかった。
またこの女性観ゆえにか、(日本に限って言えば)女性がイデオロギー問わず政治活動に参入すると奇抜な衣服や振る舞いばかりが注目され(特に左派やリベラルは)「女のくせに政治に首を突っ込む頭のおかしな人」として扱われる。しかも実際の政治家だけでなくとも、右派左派問わず政治論壇に上がる女性には、先程の「ヒステリックでそもそも男との議論が成立しない女」か「ある程度男との知的な会話はできるが、議論が白熱すると感情が露呈してくる女」という役割が求められる。これが露悪的になると、かつて昭和の新左翼の男たちが中山千夏氏を「才女ブス」「オ◯ペット」と呼んだり、活動に加わる他の女性を「公◯◯所」(いわゆる今でいう◯◯器)と侮蔑したりしたような現象が発生する。(余談だが、令和の時代に三浦瑠麗氏を持ち上げている男性、特に彼女より年上の人々には、きっと彼女のことをその文脈で「右向きの中山千夏」というような扱いをしているとしか思えない人が…)

こういった「女は感情的(かつ扱いに困る男より劣ったよう)な存在」(ないしその裏返しか前提としての「男は論理的(故に女より優れているよう)な存在」)という前提が崩れ去らない限り、(実際にどこまで論理的な女性がいるかは知らないが)女性が男性と同じ土俵で戦うということは難しいと思う。かなり無理なまとめ方ではあるが。
最後に好きな引用でも置いて終わるか。

私は女がバカであることは否定していない。しかし、全知全能の神は男と釣り合うように女を作られたのである。- ジョージ・エリオット

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