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すべては表裏一体である

人生のなかで気づいたひとつ。

言葉(物事)は表裏一体であるということ。


小中学校は、地域が決めた公立学校に行き、
高校へ進学するときに、はじめて自らに選択肢が否応なく与えられ、学校を選び受験を経験した。

行きたい高校を自分で探して、見学へ行って、
志望校へ行くために勉強をして、最終的に偏差値がマッチする高校を選んで受験する。

入学試験では、共通学力テストと面接があった。
友達と面接の指南者を見ながら練習した。

わたしは比較的 面接が得意だったと思う。


他にも気づきのきっかけは色々あったけど、面接練習をしているとよく思う。

「言葉なんて、伝え方次第」
「物事は良い面と悪い面が必ずある」


わたしは、飽き性だからずっと同じことをするのはあまり好きじゃない。
でもそれは、"好奇心旺盛で、色んな新しいことに挑戦していくことが好き"と言い換えられる。


ちょっと話は逸れるが、
【「好き」の反対は「嫌い」じゃなくて「無関心」】
聞いたことがある人も多いだろう。

初めて聞いたときは、たしかになぁーと思った。
嫌いな人の悪口を言えるということは、その相手に興味があって(相手から無理やり興味を持たされることもあるが)はじめて成り立つのだから。


だからわたしは、だれかを"嫌いでいる"ことができる人もすごいと思うし、
嫌なことは頭の隅に丸めてポイして、気にしない!その人に対して無関心でいることも悪いことだとは思わない。


そうして考えてみると、
この世に悪も闇も存在しないことがわかる。
きっとそうみえているだけで、闇にしか見えない人はSOSを発信しているから。

だからわたしは闇に囚われることなく本質を、表側だけじゃなく裏側がどうなっているのか考える。


光があるところには影ができる

あたりまえだけど、つい忘れがちなこと。


こうして言葉に書いて、あなたに伝えられるようになったのはもちろん中学生時代ではない。

当時はそんなふうに思うことは決してなかった。
合わない人、嫌いな人、嫌いな先生たくさんいたし、嫌なことに触れる機会がたくさんあって辛かった。


でも今思えば、いじわるな友達ももしかしたら家で問題を抱えていたかもしれないし、
高圧的な先生はずっとそんな人たちに囲まれて育ったのかもしれない。


この「表裏一体」の真実に気づいたもう一つの体験。

大学の必須講義「英語」先生ごとにテーマがあって、わたしのクラスは"子どもの問題"について

日本の子どもの貧困についてだったり、外国の子どもの教育事情だったり、様々な視点から勉強できた。


そのなかでも特に印象に刻まれたクラスは、
子ども兵(child soldiers)についてだった。

いくつかのニュースを探したり読んだりして、グループディベートをすることになった。


ディベートのテーマは「子ども兵は有罪か無罪か」

ここでディスカッションではなくディベートをしたことが私にとって大きな意味を持つこととなった。

犬が好きか?猫が好き?のテーマだった場合
ディスカッションは、あなたが好きな方を選んで討論すること。
ディベートは、あなたの意思に関係なく、犬か猫に振り分けられ討論すること。


私は無罪だと思っていたけど、「有罪が正」とするチームに加えられたから、
有罪にすることこそが正しいとエビデンス(証明資料)を持ってメリットを訴える必要があった。


英語のディベートでは、「you are wrong! (あなたは間違ってる)」と言えることが大切だったから。


わたしのチームは、有罪にして禁固刑にすることがその子どもの為にもなるという論法で挑んだ。

正しい教育をする大切さ、戦時場所からいきなり平和なところへ子どもを移しても、その子が順応することは難しいと、論破することはできた。


でも今でもなにも知らない子どもに背負わせる「罪」を考えると有罪にすべきか無罪にすべきか、どちらが正しいかわからない。

もちろん、どちらにしてもどういう環境が与えられるかが全てだとも思う。



良いだけということも悪いだけということも存在しない。

平和がいい。でも平和であることで生まれるデメリットだってあるのだ。


何事も表裏一体である。
強い光で見えない真実が影のなかにあることをこれからも忘れないでありたい。








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