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サタンに騙されない(2)

私に部屋を無償で貸してくださっている老夫婦。この老夫婦は、ミッショナリーとして働くボランティアワーカーに、一つの独立したフラットを提供している。

2023年8月15日から、私は現在のフラットに住んでいる。とても快適で、申し分のない素晴らしい部屋。部屋の窓からはカンタべりー大聖堂が見える。


さて、私たちFI(Friends International)は毎週木曜日に留学生に向けた聖書勉強会を主催している。毎回、夕食から始まり、そのあと賛美して、聖書を学ぶ。

私はボランティアスタッフとして、食事の準備を手伝い、いつも自分が席につくのは最後の方で、食事の後は鍋などを洗う。

他のみんなはというと、デザートがあるときは、それを楽しんでいる。悲しきことは、過去数回の食事のあと、私にデザートが配られなかった。もちろん私はボランティアスタッフとして働いているし、それにひとかけらのケーキがもらえなかったことに癇癪を起こしているわけではない。

「私にだけデザートが与えられなかった」という現実が私の心を傷つけそして心に平安を与えなくさせてしまったのだ。

ホストファミリーは明らかに私がせくせくと食器を洗っているのを見ているのだし、その後ろで立ってデザートを食べている。それなのに、「えみ、食べる?」と聞いてくれることはない。

その現実が、私にとってはとてもとても辛かった。ケーキが食べたいのではなく、私という人間がそこにいるのに、周りの全ての人が同じ動作(デザートを食べる)をしているのに、自分だけが食器を洗い、誰も私のことを気に留めることのないことに、正直ショックだった。

これはイギリスの文化なのか。ホストファミリーは私のことを「身内」として見てくれているのか。(彼らは自分たちで食べているが)いろいろネガティブなことが頭を過った。ついには、ホストファミリーに対する嫌悪というか、大きな失望の念が出てきて、その後の聖書勉強会さえそのことが私の思考を邪魔して集中することができなかった。

そんなことで、と思われるかもしれないが、同じ家(敷地)に住んでいる私にとって、ホストファミリーの私への態度は重要視するものであり、明らかにデザートを与えるつもりがないという態度は、他のどんな言葉よりも私を傷つけ、クリスチャンとして失望させるものだった。

そのことが私の心をかき乱し、心から平安を奪ったので、私は日曜日の夜、今後毎週聖書勉強会をしてくださらないかと尋ねた。

答えはすぐに返ってきた。
「Hi Emi – in principle, we will be very pleased to study the Bible with you. We’d like to talk about the best timing for it.」

答えは「いいよ」というものだった。この聖書勉強会のお伺いのメールを打った後、私の心には少なからず平安があった。

思い込みや誤解というのは、人と人との間に生じる。

今回の件は、正直言ってまだ解決していないし、今後もそのような態度をされたらどうしよう、という不安もまだある。

でも、このことを私のLife Group(同じ教会で水曜夜7時半から集まって行っている聖書勉強会)のメンバーに話したところ、

Pray about it. そのことについて祈りなさい。

Remember, the Devil wants us to separate. He wants you to stay away from the teachings as well, and indeed, you couldn’t study the Bible properly. サタンは私たちクリスチャン同士を引き裂こうとする。

と教えてくれた。

意図的だとしても、無意識でも、老夫婦の私に対する態度は誤っている。しかし、私たちがクリスチャンとして自分たちにリマインドしなければならないのは、サタンは私たちの関係を引き離そうとタイミングを見計らっているということである。

もともと、この老夫婦は私に1年間無償で部屋を提供すると言ってくださっている。それなのに、この一口サイズのケーキを惜しむと言うこと自体、少し滑稽に見えるのだが、現実は、その結果がわたしのこちらの老夫婦に対する信頼を失い、同じクリスチャン、それも年齢的には70代なので大先輩のクリスチャンに対する大きな失望に繋がってしまったということである。

Life GroupでJohnがサタンは私たちクリスチャン同士を引き裂こうとしていると言われた時、ハッとした。

私はなぜか冬から、この家を「無償」で貸していただいていることに、何かしら心にある感情があった。なんらかの形で「返さねば」という思いや、しっかりと働かないといけない、という気持ちである。

でも、実際に老夫婦はどうお考えなのだろうか。

きっと、返して欲しいなど考えていないだろう。

私は(人から無償で何かを継続的に頂いていることに対して)「負い目」を感じていた。いつのまにか、あまり会う機会がなくなり、自分の部屋が散らかっていたり、汚してしまっていたりするのを気にして、家にも招待できずにいた。それだから一番近くに住んでいるのに、なぜか「顔を合わせると緊張するから顔を合わせない存在」になっていた。

サタンは私たちの弱みに漬け込む。
私の気持ちにも入ってくる。誰も思っていないネガティブな思いも植え込む。そして、長期間にわたって、ネガティブな思いを、思い込みを心に植え付けるのだ。

Life Groupでサタンの存在を知った時、ふと思い当たることがあった。確かに、これまで私はホストファミリーとの関係を祝福されていなかった。毎週木曜日の聖書勉強会で会うものの、本当にそこで言葉を交わすことくらいしか交流がなかった。そして、わたしはというと、大きな感情的な問題に当たると、このご夫婦にぶつけてアドバイスを求めていたので、ご夫婦からみると私は結構強気な女性に見えていたと考える。

サタンの罠に乗らない

サタンは存在する。そして私たちに「懐疑」という被害妄想や「不安」、苛立ちといった感情を持ってくる。それを受け入れてしまうと、私たちはサタンの思うままにネガティブな状況に陥る。

サタンはクリスチャンの間に入り込むことがある。「まさか」と思えるようなことをするとき、それはその人自身ではなく、サタンが悪い仕業をしているということもある。何ができるか。

祈ることしかできない。でも、イエス様の御名によっていのることそれが最強の策なのである。なぜなら、イエスの御名によって、サタンはその隙間に入ってくることができないから。

今日も傷ついてしまうのかな?
クリスチャンなのに、それもベテランクリスチャンなのに、なぜ?

そんな思いは、このNoteを書き記した夜に解決した。

サタンに騙されない

木曜日の留学生のための聖書勉強会は、平安に進んだ。学生の数が多すぎなかったため、みんな一つのテーブルで食べることができた。

みんなが帰った後、最後に大きな鍋などを洗った。そのときホストマザーは、「えみ、サラダが余ったのだけれど、持って帰らない?」と聞いてくれた。

もともと、聖書勉強会の後のミーティングの際も、何度も目を合わせてくれたホストマザー。そこに、嫌悪の念は無かったように思う。

そして、日本人学生を私のフラットに招待したとき、お二人は私のフラットに足を運んでくださり、留学生たちと話をしてくれた。主に私との関係についてだった。

嬉しかったし、愛されているのだと感じた。

もう一度、「サタンの誘惑に騙されない」

このこの出来事(デザート事件)があまりにも私の心をかき乱したので、私は同じ信仰を持つマレーシア人の友人と、教会のスモールグループ(Life Group)で仲間に相談した。

15信仰の仲間があなたがたに罪を犯した時は、一人で行って、その誤りを指摘してあげなさい。もし、相手が忠告を聞いて罪を認めれば、あなたはその人を取り戻したことになるのです。 16しかし、もしあなたの言うことに耳を貸そうとしないなら、一人か二人の証人を立てて、もう一度相手のところへ行きなさい。あなたの言い分をすべて証明してもらうためです。

マタイの福音書 18


心は、安らかになった。Life Groupの仲間はこうも言った。

「次デザートがでたら、もう勝手に取りなさい。そして、もし何か言われた場合は、それは問題なので、私たちに言いなさい。」

周りのクリスチャンに相談することで、私はこの問題を一人で抱えているのではなく、周りの人に知っていただいているという安心を得た。一人で抱え込んでしまうと、どんどんネガティブに考えてしまう。

今回の聖書勉強会とその前後のミーティングを通しても、わたしのことをホストファミリーが憎んでいるとは思えなかった。ホストファザーは、私のボランティアの2年目のことも留学生の前でメンションしていた。

サタンに騙されない。

サタンは私たちクリスチャンの中にひびを入れさせて分断しようとする。もちろん、クリスチャン同士でも理不尽なことがあったら、聖書が言うように、その問題をクリスチャン同士に展開し、問題解決を図らなければならない。聖書は決して「一人で抱え込みなさい」「なんでも我慢しなさい」と教えていない。

そして解決の知恵は神様から来るのである。

もう一つ、忘れてはならないのは、サタンは常に私たちクリスチャンが分裂し、ましては教会を離れることを狙いチャンスを見計らっている。聖書勉強会とはサタンが喜ばないことであり、クリスチャン同士が神様を賛美することもサタンは嫌う。しかし、私たちが賛美している間にサタンが入り込むことができないことも事実である。

「異端」と呼ばれる「宗教」は聖書を自分の思いたいように解釈し、書き換え、聖書の教えではない教えに人々を導いてしまった。しかし、聖書の教えは、書き換えたり、自由に解釈することができずそれはとても危険なことである。

私たちは常に、聖書を注意深く読み、聖書を読む際も神様に祈り、導いてもらうことが必要なのである。

私は今回のデザート事件に心かき乱された。もちろん、クリスチャン同士も間違いを犯すし、そして私たちは赦し合い、共に生きていくのである。しかし、私たちは常にしっかりとアンテナを張り、サタンのイタズラや罠に惑わされないように気をつけなければならない。その最大の武器が聖書の御言葉なのである。

最後に、聖書は神様の武具を身に付けなさいと語っている。

10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 15平和の福音の備えを足にはき、 16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 18絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

エペソ人への手紙 6

私たちは、一人では決して戦うことはできない。しかし、私たちにはイエス様がいる。神様の下さった武具を身に付け、悪魔の罠を敏感に見極めそれを拒み、神様に戦っていただくのだ。この戦いは、わたし対敵ではなく、神様対敵なのである。そして神様は、すでにその戦いに勝利しているのである。
なぜなら、闇は光に、打ち勝つことがないからである。神は光であり、闇はそれに打ち勝つことができないのである。

光はやみの中に輝いている。 そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネによる福音書 1:5

だから、勇気を持って、前に進もうではないか。この戦いはもはや、私のものではない、神様のものだから。


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