愛は正義に勝る
安息日を守ることは、十戒のうちの一つ。
と死の刑までに定められる罪なのである。そんな安息日には、死刑を恐れてもはや「働こう」と思うものはいなかったのではと思う。しかし、イエス様は、そのようないわゆる常識を覆した。安息日に様々な癒しと奇跡を起こしたのである。
マタイによる福音書 12において
最後の第8節から読み取れることは、イエス様は安息日をも支配する主ということである。そして、人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるということである。
当時の律法文化とキリストの新しい理解、その大きな違いは、律法主義に支配されていた人々と異なり、キリストは安息日すら支配する主であり(主は安息日の造り主)、人を愛するキリストは安息日は人のためにあるべきであり、「安息日は人のためにある」ということを強調された。人もまた律法のために生きるのではなく、愛を持って生きることを教えているのではないだろうか。
私は、クリスチャンの伝道団体で働いている間、主催するバドミントンの交流試合で審判を勤めた。バドミントンの経験者であったからである。交流試合とはいえ、私は真剣になり、試合前の練習の厳しい時間管理、ラインから外に出たときは、周りを静粛にさせて自らの判断を押し通した。
あるとき、インド人の留学生が練習をせずに試合用コートに入ってきて、練習をしたいと聞いてきた。私は、「練習の時間は終わった。もう試合をしなければならない。これまでみんなそうやってきたから。」と厳しく言い放ち、試合を始めた。インド人のチームは負けた。彼女は悔しそうに私を見た。
そして私に言った。「えみ、あれはフェアじゃなかったを。私は来たばかりだったのに、いきなり試合で。」それから、彼女は私と会ってもハグもしてくれなくなった。
愛はルールに勝る
私はホストファミリーのAndrewにこのことを話した。すると、Andrewは言った。「愛はルールに勝る。えみの持つ正義感、それよりも、愛を持って接する方が勝るんだよ。」そう教えてくれた言葉にはっとした。私も嫌がらせのつもりで彼女に厳しく接したのではない。みんなの言い分を聞いていたら、試合が一向に進まないということ、それから審判として公正に、一度言ったルールは取り消すことができない(前にルールを従った人に不公平になるため)と思ったのである。
Andrewのことばに、私は彼女に対して、愛を持ってではなく、ルールを持って接していたことに気づかされた。
正しさは愛に勝らない。そのことを学んだ。律法学者は一生懸命律法を守ろうとした。それ自体は間違っていない。もはや、死刑になりそうな安息日を破る人たちに注意をして、助けようとしたと見ることもできる。しかし、イエスは、そのルールを愛で持って塗り替えたのである。ルールは愛に勝らない。安息日に空腹を覚えた弟子に食べさせることも、病気の人を癒すのも、愛によって行ったのである。愛は何よりも先にくるべきであり、愛はルールに勝るべきなのである。
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