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初海外ひとりドイツ1ヶ月⑤

衝撃の事件もあったりしたが、ドイツ語学校に通うという日常がすっかり染み付いていたころ、ふと気づいたコミュニケーションの本質について少し。

前回のお話はこちら 第4弾→https://note.com/emirafish/n/nbffdd4fff64e

超初級クラスの輪

わたしがいたのはクラス分けで一番成績下位(と思われる)のクラスだ。(クラス分けについてはシリーズ第2弾あたりにチラッと。)クラスメイトは8人ほど、そのうち半分は日本人。私も含め日本人のクラスメイトは基本的な文法は理解できているが、リスニング&スピーキンが弱いっといった様子だった。残りのクラスメイトたちはそれとは逆で、リスニング&スピーキングはできるのに文法と読み書きが難しいといった様子。もしくは全くわからない、挨拶しかわからないという人もいた。

しかし、それでも皆で話すのはドイツ語のみだ。全員がカタコトのドイツ語(単語)でなんとかやりとりしようとする。カタコトどころが、ほとんどジェスチャーだったり、時には絵を描いたりもしていた。伝わっていない場面も多かったと思うが、うちのクラスはみな仲が良く、楽しいクラスだった。

クラスメイトから学ぶ、コミュニケーションの本質

前述したように、我々はほとんど話せないドイツ語でコミュニケーションをとっていた。なぜそれでコミュニケーションがとれていたのか、あんなに楽しく笑い合えていたのか。それに気づいたのが3週間経った頃だったと思う。

私たちのクラスの強みは皮肉なことに、ドイツ語がわからないということだった。そう、私たちはドイツ語がわからないからこそ通じ合うことができた部分が大きかった。つたないドイツ語という激弱のツールしか持たない人間は、同じく激弱のツールしか持たない人間の気持ちがよくわかるのだ。相手が何を言いたいのか真剣に聞き、想像し、思いを巡らし、汲み取ろうとする。そしてそれを相手がわかる手段で、自分ができる方法で返そうとする。「思いを汲む思いを伝える」ということに関してとても一生懸命で、諦めない。それが私たちのクラスの強みだったし、コミュニケーションってこれか!と思った。

我々は一人で話すのではない、相手がいるから話す。伝えたいことがあるから話す。聞き手と話し手がお互いを理解しようという気持ちがどれほどあるか、それがコミュニケーションの前提にあるものなんだろうと、幼い(19歳)ながらに感じることができた4週間だった。

言語はツールの一つ

ドイツ語学校に通って一番感じたことは、言葉はそれほど重要ではないということだった。コミュニケーションには言葉以外にたっくさんの要素があって、言葉はその一つにすぎない。外国語ができる人がよく言う「言語はツール」ってセリフ、ほんとそのまんま。これを体感できたのは財産だったと思っている。もちろん話せるに越したことはないけど、話せない人を体験するのは、日本にいたらなかなかできない。貴重な体験だ。
とはいえ言語の勉強に行ったのに、「話せなくてもなんとかなる」という結論を持って帰ることになったのはなんだか滑稽ではある。

続く…


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