「キラキラした気持ち」で学びたい生徒
掃除の一場面
「なんで授業はキラキラした気持ちで受けられないんだろ」
掃除の時間、生徒から漏れた一言。
我々の学校では、縦割りの掃除班での清掃活動があるが、
その後半にいつも輪読を行っている。
日替わりで、担当の生徒が1コラム読んでまとめてきたものを共有する、といった流れだ。
ちなみに現在読んでいるのは『WOMEN EMPOWERMENT 100――世界の女性をエンパワーする100の方法 』だ。
生徒たちは、日本とは全く異なる、世界のあらゆる地域において、
女性たちを待ち受ける過酷な運命について知り、驚くとともに、
彼らのためにどのようなことがなされてきたのか、これから先どんなことができるのかについて、想像力を鍛えている。
その活動は楽しいらしく、冒頭の発言は
「授業もこんな感じでキラキラした気持ちで受けたい」とのことであった。
「キラキラした気持ち」の理由
「授業ももっとキラキラした気持ちで受けたい」
何が違うの?と聞くと、
「興味のあることだから?」「自分がやりたいことだから」「授業は興味持てないから」「(その知識などを)使う感じがないから」
と、口々に発言してみながらも、しっくりくる答えは見つからなかったようである。
もっと考えてみる。と言っていた。
しかし、これはある意味本質的な問いであり、教育に課せられた課題であるように思える。
このような状況はなぜ生まれるのか。
評価の壁
例えば、教科は五段階評価を行わなければならないが、総合的な学習の時間にはそのような縛りはない。
「成績評価」の点において、総合学習とはどこか「別物」感がある。
こうした、学びとは異なる文脈によって生まれた、教科と探究学習との質の違い。
「キラキラした気持ち」かどうかには、内容以外の要素が大きく関わっているのではないか。
無論、教科での探究的な学びの実践例も数多く報告されているが、
どこか窮屈さを感じる。
指導案の壁
従来の指導案フォーマットにおいて、「探究的な学び」の字面は居心地が悪そうに見える。
目標、指導内容、「〜が理解できる」、評価の観点、
そんなことを書きたいのではないのではないだろうか。
そのプログラムを通して、生徒にどんな
スキルを身につけて欲しいのか、どんな思考を働かせ、創造力を養って欲しいのか。
どのように変化して欲しいのか、そんな願いが書きたいのではないだろうか。
成績を出さなければならないということが、
教員側に精神的制約を課しているのではないか。
心理的な壁
「教科はこうあらねばならない」
「探究はこうあらねばならない」
と言った固定観念の中で教育が行われているとしたら、もったいないことだ。
「生徒がキラキラした気持ちで学べる」こと以上に、大事なことってあるのだろうか。
教科かそうでないかではない。
彼らがキラキラできるかそうでないかを大事にしたい。
MAAM.
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