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「キラキラした気持ち」で学びたい生徒


 掃除の一場面

「なんで授業はキラキラした気持ちで受けられないんだろ」

掃除の時間、生徒から漏れた一言。


我々の学校では、縦割りの掃除班での清掃活動があるが、

その後半にいつも輪読を行っている。

日替わりで、担当の生徒が1コラム読んでまとめてきたものを共有する、といった流れだ。


ちなみに現在読んでいるのは『WOMEN EMPOWERMENT 100――世界の女性をエンパワーする100の方法 』だ。

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https://www.amazon.co.jp/WOMEN-EMPOWERMENT-100%E2%80%95%E2%80%95%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%82%92%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%81%99%E3%82%8B100%E3%81%AE%E6%96%B9%E6%B3%95-%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A5/dp/4862762212


生徒たちは、日本とは全く異なる、世界のあらゆる地域において、

女性たちを待ち受ける過酷な運命について知り、驚くとともに、

彼らのためにどのようなことがなされてきたのか、これから先どんなことができるのかについて、想像力を鍛えている。



その活動は楽しいらしく、冒頭の発言は

「授業もこんな感じでキラキラした気持ちで受けたい」とのことであった。



 「キラキラした気持ち」の理由

授業ももっとキラキラした気持ちで受けたい

何が違うの?と聞くと、

「興味のあることだから?」「自分がやりたいことだから」「授業は興味持てないから」「(その知識などを)使う感じがないから」

と、口々に発言してみながらも、しっくりくる答えは見つからなかったようである。

もっと考えてみる。と言っていた。

しかし、これはある意味本質的な問いであり、教育に課せられた課題であるように思える。



このような状況はなぜ生まれるのか。



評価の壁

例えば、教科は五段階評価を行わなければならないが、総合的な学習の時間にはそのような縛りはない。

「成績評価」の点において、総合学習とはどこか「別物」感がある。

こうした、学びとは異なる文脈によって生まれた、教科と探究学習との質の違い

「キラキラした気持ち」かどうかには、内容以外の要素が大きく関わっているのではないか。

無論、教科での探究的な学びの実践例も数多く報告されているが、

どこか窮屈さを感じる。



指導案の壁

従来の指導案フォーマットにおいて、「探究的な学び」の字面は居心地が悪そうに見える

目標、指導内容、「〜が理解できる」、評価の観点、

そんなことを書きたいのではないのではないだろうか。

そのプログラムを通して、生徒にどんな

スキルを身につけて欲しいのか、どんな思考を働かせ、創造力を養って欲しいのか。

どのように変化して欲しいのか、そんな願いが書きたいのではないだろうか。

成績を出さなければならないということが、

教員側に精神的制約を課しているのではないか。



 心理的な壁

「教科はこうあらねばならない」

「探究はこうあらねばならない」

と言った固定観念の中で教育が行われているとしたら、もったいないことだ。



「生徒がキラキラした気持ちで学べる」こと以上に、大事なことってあるのだろうか。



教科かそうでないかではない。

彼らがキラキラできるかそうでないかを大事にしたい。




MAAM.


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