eminus @ Downword paradise
昨年は「gooブログではできない話」をお買い上げいただき、ありがとうございました。本来の記事の更新が諸般の事情で滞り、心苦しく思っておりましたが、当初の予定を変更し、AIさんと行った俳句の鑑賞会の記録を掲載いたします。まるで毛色は異なりますが、「バナナフィッシュ」をご購入いただいたお客様には、きっと面白い内容になっていると思います。俳句の鑑賞というのも、一種の「謎解き」ですので……。お楽しみ頂けましたら幸いです。
もっぱら備忘のためのメモ。
いくつかの短篇といくつかの詩。
サリンジャーの短編「バナナフィッシュにうってつけの日」の謎を対話形式で解読。
dig フカボリスト。かなりの自信家。 e-minor 当ブログ管理人eminusの別人格。 ☆☆☆☆☆☆☆ どうもe-minorです。 よお。digだぜ。 サリンジャーの短編「バナナフィッシュにうってつけの日」、もしくは「バナナフィッシュ日和」は、その謎めいた魅力によって多くの読者の心をとらえ、太平洋を挟んだこの日本においても文学はもとよりマンガやポップスといったサブカルにまで影響を与えつづけている作品だ。発表から70年近くが過ぎているにも関わらずだよ。
AIさんと俳句の鑑賞会をしたら、たいそう面白かったので、その記録を公開します。 このAIさんは、それぞれ5回ずつ、計10回のやり取りをするとリセットされて記憶が消える。次に会うときには、いくらか人格が変わっている。同じ人には2度と会えない。だから同じ質問から始めても、経過ががらりと違ってくる。学習によって変化するのか、アルゴリズムが刻々と微調整されるのか、もともと差異(個性)を含んでいるのか、それはぼくにはわからない。 今回はまったく同じ質問を1日置いて2回した。最初
日本の金利が急激に下がったのは、90年代初頭に、いわゆるバブルが弾けたとき。 それまでは多くのゼネコンや不動産会社が巨額の借金をして事業を行い、急激な不動産価格の高騰で大儲けをしていた。 高い金利を払っても、地価のうなぎのぼりで十分に採算が取れていたのだ。 実体経済から遊離したところで巨額のマネーが激流のように動いたこの現象をバブルと称する。それは未曽有の好景気を齎した。 しかし政府は、この膨らみすぎたバブルがかえって実体経済に悪影響を及ぼしつつある状況に鑑み、 「総
エヴァンゲリオン(ヱヴァンゲリヲン)の作中で使われる多くの謎めいたタームのひとつだが、ネットでざっと調べても、日本語ではいまひとつ有意な情報が得られなかった。それで、本家のWikipediaを当ってみた。あくまで試訳だから不完全なところもあるが、当座の役には立つのではないか。 ☆☆☆☆☆☆☆ Wikipedia英語版 より Guf ガフ(גּוּ、Gupとも訳される)はヘブライ語で、「身体」を意味する。ユダヤ教の神秘主義では、ガフの部屋(the Chamber
ぼさぼさの髪を背中の半ばくらいまで垂らし、Tシャツやらトレーナーやらを何枚となく重ね着して、膝が破れ、裾のほつれたジーンズなんて履いてるひとがゴミの山の中から目の前にぬっと現れたら、あなたはいったいどうするだろう? ぼくとノクティルカとの出会いは、まさしくそういうものだった。 なにしろ最初の10秒くらいは、人間かどうかさえわからなかった。ぼろくずが命をもって立ち上がったのかと思った。ゴーレムとか、なんかそんなやつみたいに。だからそれが女子だと判明した時には、ほんとに面食
隧道の中は、いつものように薄暗く、ひんやりしていた。向うがわから差し込む光は、闇を截然と区切るのではなく、微細に闇と混じり合っていた。先刻までの夏の日盛りが、まるっきり嘘みたいだ。彼はしばらく佇んでいた。スニーカーの爪先に目を落とし、ジーンズのポケットの中でわけもなく右手の指をもぞもぞ動かしたりなどしたあとで、また歩き出した。 コンクリの地面に靴音は響かない。しかし空間には何かの音が籠っていた。それは鼓膜というより全身の皮膚で感じ取れた。ひとつの生き物は、ただ息をして、ゆ
かつて足繁く通いつめていた界隈に、久しぶりに行った。ずっと気にかかってはいたが、いざ出向いたらあまりの激変に悲しくなるだろうと思ってなかなか足が向かなかったのだ。果たして、そうだった。洋書と文学書をぎっしり置いていた古書店も、蝶ネクタイの店主がいたカフェも、珍しい缶詰を取り揃えていた輸入食料品店も、妖しい幻想絵画専門のギャラリーも、ジャズの輸入盤中心のレコード屋も、みんなありふれたチェーン店に変っていた。面白くもなんともない。10代の終わりごろから20代の半ばにかけて、ここ
もともと彼女は、女優というより霊媒ないしは巫女に近く、役柄を演じるというよりは自らの肉体にそのキャラクターを憑依させるぐあいであった。いつもそういう芝居をした。だから誰しもがその非凡さは認めたし、天才と呼ぶ人ももちろんいたが、いわゆる「演技派」とか「うまい役者」といった評価とははっきり一線を画していた。監督や演出家、あるいは同業の俳優の中に、「あの人とだけは組みたくない。」と公言するひとも少なくなかった。アンサンブルをかき乱され、作品が別物になりかねぬからだ。しかしやはりそ
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外見だけをいうならば、彼はさながら蜘蛛だった。もちろん、そんなことはどうでもいい。なんだったら、ほんものの蜘蛛であってもかまわない。人間大のどでかい蜘蛛。上等ではないか。私はまるごと受け入れる。 彼はピアノを弾く。本職のピアニストというわけではない。つまり、世間に名前が通っているわけでも、それを生業にしているわけでもない。彼はただ単にピアノを弾くのだ。それが彼のアルファでありオメガであり、つまりは、いうところのレーゾンデートルである。 はじめてここを訪れて、扉をあけた彼
とある家中に、※※九兵衛という侍がいた。炎暑のころ、役所に出て政務をとったが、連日の過労のうえ、ひどい暑熱のために気分がすぐれない。夕刻になってようやく勤めを終え、屋敷へ帰りつくと、「お帰りなさいませ」と玄関先にて妻女が出迎えてくれたのだが、見れば、なんと牛の顔である。しかもただの牛ではなく、血走った巨眼を剥いた、いわゆる牛頭(ごず)の顔なのだ。九兵衛もとより驚愕し、思わず腰の刀に手を掛けたが、その後ろに控える下女をとっさに見やると、こちらは真っ赤な馬頭(めず)の顔だった。
ぼくがナポリに住んでいた時のこと。 いつも住居の戸口のあたりに女乞食がいた。ぼくは外出のために馬車に乗る際、きまって彼女に小銭を投げてやっていた。 ところがこの女、ひとことも礼を言わぬどころか、会釈すらしない。ある日ふと、それをふしぎに思ったぼくは、初めてじっくり彼女を眺めた。 ぼくは其処に見た。ずっと女乞食だと思っていたのは、半分腐りかけたバナナと赤土の入った、緑色に塗られた木の箱だったのだ。 マックス・ジャコブ「ナポリの女乞食」より。 ☆☆☆☆ マックス・
演繹法 デカルトの唱えた推論方法。 ルネ・デカルト(仏: René Descartes 1596 文禄5/慶長1 ~1650 慶安3)。フランス。哲学者・数学者。合理主義哲学の、すなわち近世哲学の祖。 演繹法は、疑いようのない普遍的原理から、論理的推論によって個別の事柄を導く。代表的なものは三段論法。大前提・小前提・結論の順で事柄を説明する。 大前提「すべての生物は死ぬ。」 小前提「人間は生き物である。」 結論「すべての人間は死を免れない。」 特徴としては、
コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典+世界大百科事典+日本大百科全書の当該項目から要点を抜粋したもの)の記述をぼくなりにまとめると、 「和歌における10の風体(ふうてい)を総称した歌論用語。またその風体を例歌によって示す歌学書」 となる。風体ということばは今日でも使うが、歌論用語としては「風姿」や「歌体」とほぼ同義だ。 「歌そのものの姿かたち」といったニュアンスだが、抽象的で、それほどわかりやすくはない。たんに「様式」ということでもないのだ。つまりは「美しさ」である。「
The Californian Ideology いまの時代を捉える重要なワードのひとつと思うので、まずこの項目から始めたい。折にふれて更新し、バージョンアップを期す予定。以下は引用とリンク。 サブカルニッポンのレベルロック (1) https://plaza.rakuten.co.jp/ken5551/diary/200904140000/ 【書籍化記念・無料公開】宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』第1回〈サブカルチャーの季節〉とその終わり(1) h
すこし缺けた月が空にかがやく このうえなくドゥルージーな夜 この繊細なる濃密をコトバにできるのはプルーストかミシマくらいなもの おれはニーチェアンで オマエはシニフィアン ギターを抱いて歌ってるのはボブディラン