見出し画像

和歌十体(わかじってい)


 コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典+世界大百科事典+日本大百科全書の当該項目から要点を抜粋したもの)の記述をぼくなりにまとめると、
「和歌における10の風体(ふうてい)を総称した歌論用語。またその風体を例歌によって示す歌学書」
 となる。風体ということばは今日でも使うが、歌論用語としては「風姿」や「歌体」とほぼ同義だ。
 「歌そのものの姿かたち」といったニュアンスだが、抽象的で、それほどわかりやすくはない。たんに「様式」ということでもないのだ。つまりは「美しさ」である。「美しさ」の基準をどうにかして言語化しようとする試みなのだ。
 十種の分類として今に残る最古のものは奈良時代の『歌経標式』にみられるらしい。ただ、スタイル・発想・表現技巧などさまざまな観点から分けたもので、分類の基準は一貫していないとか。まだ大雑把だったのだろう。
 平安の中期に至り、壬生忠岑(みぶのただみね)が、中国詩学の影響のもとに、『忠岑十体』(『和歌体十種』)を著す。これははっきりと「風体」に絞った分類であった。だから「審美論的基準」による分類という言い方をしている解説もある。
 忠岑といえば息子の忠見ともども三十六歌仙に数えられるが、定家よりも300年ほど前の人である。ひとくちに平安時代というが、400年もの長きにわたっているのだ。
 忠岑十体の項目は、
「古歌体・神妙体・直体・余情体・写思体・高情体・器量体・比興体・華艶体・両方致思体」とのこと。これら十項の内容については割愛。あとの「定家十体」と見比べていただきたい。
 さて。その藤原定家(1162/応保2~1241/仁治2)である。やはり十体論としてもっとも知られているのは、実作者であり批評家であり稀代のアンソロジストでもあったこの人の『定家十体』だろう。ここで定家は、
 「幽玄様」
 「長高様」
 「有心(うしん)様」
 「事可然(ことしかるべき)様」
 「麗様」
 「見様」
 「面白様」
 「濃様」
 「有一節(ひとふしある)様」
 「拉鬼様」の十項目を立て、それぞれ例歌を掲げている。


定家十体 例歌一覧
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/kagaku/t10t.html


(なお定家の偉大さについては、現代最高の歌人というべき塚本邦雄が、『清唱千首――白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』(冨山房百科文庫)の序文にて、

「人麿、家持、貫之、定家、芭蕉、蕪村の六人を究明すればこの国の伝統詩歌のおおよそは語りうるというのも逆の証明となるだろう。他の諸家は極論するなら彼らの描いた円周の中に、多種多様な軌跡を残しつつ、結果的には吸収包含されるとみてもよかろう。」(原文は旧かな・旧漢字)

と述べている。)


 ただし『定家十体』には偽書説もある。とはいえ彼は『毎月抄』でも十体に言及し、「幽玄様」「事可然様」「麗様」「有心体」の4体が基本で、なかでも「有心体」が最も中心であると説いている。この『毎月抄』は偽書ではないから、「十体」の概念を自らの歌論の核に置いていたのは間違いのないところだろう。
 「より内在的に表現論的立場で鎌倉期和歌批評の基本概念を盛りこみ、その立場は定家に仮託された歌学偽書群に継承され、尊重された。」との解説もあるが、「内在的に表現論的立場で」とは、いささか観念くさい言い回しで、わかりづらい。実作者の視点を生かし、表現の方法にこだわることで、さらに批評的な精度を増し、緻密になった……くらいに受け止めておけばよいか。以降はこの分類がスタンダードになり、連歌論・能楽論にも援用された。

 日本版ウィキペディア「毎月抄」の項によれば、

 有心躰……至高の体
 幽玄躰……崇高への志向性が感じられる
 事可然躰……意味内容がなるほどと思われ確かさが感じられる
 麗躰……表現に均整・調和などの整った感じがする
 長高躰……声調の緊張を保ち流麗感が強い
 見躰……視覚的な描写が目立つ
 面白躰……題に基づく趣向が知性的で巧みに行われている
 有一躰……着想の珍しさが目立つ
 濃躰……複雑な修辞技巧によって情趣美を濃厚にする
 拉鬼躰……意味内容や詞使いに強さや恐ろしさが感じられる

 とのこと。しかし例歌に当たってつぶさに検証したわけではないので明言はできぬが、一首にみられる特徴が、このなかのどれかに整然と分類されるとは考えにくい。どうしても複数の項目にわたるのではないか。つまりこれらのカテゴリーは截然と分かたれておらず、概念分類の格子(枠組み)としては弱い。平たくいえば、あくまでも「目安」の域を出ていないように思えるのである。
 それでもぼくが和歌十体にこだわるのは、とかく印象や情緒に流されがちな日本人の心性の系譜において、このような試みが「理論化」「体系化」への志向を示す事例であると思えるからだ(アリストテレスを参照するまでもなく、「分類」と「整理」は世界把握の基礎である)。その分析精神は、こと文芸史に留まらず、「思想史」の文脈において改めて位置づけられるべきだと思う。



 吉本隆明による「和歌十体」評価(三浦雅士の評論集より)

「漢詩の六義をもとに和歌を分類できたのは」と吉本隆明は述べている、「和歌体そのものが<本>に枕(客観描写)をおき<末>に心(主観描写)をのべる古体をまったく喪くしていたからこそであった。その意味では漢詩、漢文化が浸透して古来の短歌謡の形がくずれていく過程は、歌学を創りだそうという知的欲求とまったく並行していた。」と。その歌学の典型が壬生忠岑の『和歌体十種』である。論は、「忠岑の『和歌体十種』によってはじめて、<和歌>すなわち<古今集>(晩期万葉)の歌のことだという概念が成立した。」というように展開していく。
 忠岑の『和歌体十種』から定家の『定家十体』まではほぼ二世紀半、「このあいだに、歌人たちは修辞的な苦労を越えて、歌をつくることは<こころ>のある境涯を獲取してゆくことだ、というところまで走っていたのである。『定家十体』は、歌体を類別することは<こころ>の境地を類別することだ、という認識に立っていた。」と吉本隆明は言う。これが歌に対する漢文化の影響の、最終的な段階であったと言っていい。
 三浦雅士『批評という鬱』(岩波書店)より

 注)六義…… 中国古代詩の6分類を指す。詩の内容による「風」「雅」「頌」、表現による「賦」「比」「興」で6種となる。風は民謡、雅は朝廷の音楽のための詩、頌は宗廟祭祀のとき帝の徳をたたえる楽歌。そして賦は直叙、比は比喩(ひゆ)、興はまず初めに或ることを述べて,それによって主題をひき興すやり方。



付記) それにしても、「鬼を拉ぐ(拉鬼)。」とはいかにも迫力のあるネーミングであり、中世らしい凄みと妖しさを漂わせている。この語に感応した保田與重郎は『日本文学史大綱』のなかで、

「拉鬼体を考へた定家の魔力的な気迫は、旨として現世に立てられた意力であり、支配の野望であつたから、俊成が闇夜に膝づいて幽界の鬼と相対した如き風格は生れなかつたのである。されど日本の大文学者は、何らかの仕奉の行為と、君国のことばで、美論をうつしてゐる。」

と書いた。



最終更新 21.01.01



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?