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ダイアナ妃が私たちに伝えようとしたこと

幼いころ、ダイアナ妃の伝記を読みました。
幼いころの両親の離婚、イギリス王室の一員としての苦悩、夫の不倫、摂食障害…
様々な困難を抱えながらも、病に苦しむ人々を見舞ったり、戦争孤児に寄り添ったり地雷地帯に自ら足を踏み入れ反地雷活動を行ったり、人々に愛を与えるため奔走した姿がとても印象的でした。

イギリスに行った時の写真のフォルダを眺めていた時、ダイアナ妃ゆかりのケンジントン宮殿や、ハイド・パークのダイアナ妃記念噴水の写真があり、改めてダイアナ・スペンサーという人物についてしっかりと見つめ、彼女が最も欲しがっていた、そして人々に伝えようとしていた「愛」を文章に書いてみたいと思い立ちました。

ハイド・パークのダイアナ妃記念噴水

2022年に公開された「スペンサー ダイアナの決意」という映画をご存知でしょうか。

「スペンサー」とは、ダイアナの旧姓です。
この映画はダイアナがその後の人生を変える決断をしたといわれる、1991年のクリスマス休暇を描いたものです。
クリステン・スチュワートがダイアナ元皇太子妃を演じています。
私は『トワイライト』の頃からクリステン・スチュワートの大ファンなのですが、ボーイッシュかつスタイリッシュなイメージがあったため、エレガントなプリンセスであるダイアナをクリステンが演じると聞き、はじめは意外に思いました。
しかし実際に映画を見てみると、クリステンがダイアナ妃の精神性をあらゆる方法で表現しようとしていると感じました。
囁くような話し方、目で訴えかけるように上目遣いをする癖、エレガントな仕草、ダイアナ妃の得意としていたダンス、時折顔をのぞかせる情緒不安定さなど、もはや本人の魂がクリステンに降りてきて演じているのではないかと思うほどでした。

この記事では、ダイアナ妃の一生を紹介するとともに、私が映画を見て感じたことを綴りたいと思います。


ダイアナ妃の生涯

ダイアナの出生と少女時代

ダイアナは1961年7月1日にイングランド・ノーフォーク・サンドリンガム・パークハウスに生まれました。
姉二人はそれぞれ6歳、4歳年上で、弟チャールズはダイアナの3歳下です。
父オールトラップ卿と母フランセスは不仲で、ダイアナ妃が7歳の時に離婚しました。
親権は父が持ちました。
その父は1977年に再婚しますが、相手はなんとダイアナ妃がファンであった恋愛小説家、バーバラ・カートランドの娘のレインでした。
ダイアナをはじめ姉弟全員が、継母を嫌っていたといいます。

幼いダイアナは両親の不仲、離婚、父の再婚を経験し、寂しい思いをしてきたに違いありません。
しかし、彼女は学生の頃からボランティア活動に精力的に取り組み、非常に他者に対して献身的でした。
老夫婦の家を訪問してはその話し相手になったり、家事の手伝いをしたり、学校の近くにある施設に障害児のお世話によく通ったりしていました。
この時期にダイアナは、他者への献身という自らの特性を発見したのでしょう。

チャールズ皇太子との出会い

ダイアナがチャールズ皇太子と出会った時、ダイアナは16歳で、この時チャールズはダイアナの姉セーラの恋人でした。

その後チャールズはセーラと別れ、別の女性と交際。
ダイアナもロンドンで友人とルームシェアしながらパーティのウェイトレスや家政婦、幼稚園での子供の世話などをして生計を立てました。

そんな中、1979年、王室のサンドリンガム邸で開かれたパーティにダイアナらスペンサー伯爵家令嬢たちが招かれました。
この時、チャールズ皇太子とダイアナはダンスを踊って楽しみました。
以降ダイアナは、しばしば皇太子から招待を受けるようになり、親しい友人になっていきました。

チャールズ皇太子の証言によれば、1980年7月にサセックス・ペットワース近くのカントリー・ハウスでバーベキューをしていた際に、マウントバッテン卿(チャールズの大叔父)の死を悲しんでいる皇太子をダイアナが「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに皇太子は心打たれたといいます。

チャールズ皇太子との婚約

1981年2月6日にチャールズ皇太子はウィンザー城でダイアナにプロポーズしました。
ダイアナ妃ははじめは冗談だと思い笑いましたが、皇太子は真剣に「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と言い、ダイアナはそれを受け入れました。

婚約発表の前日の1981年2月23日夜、ダイアナはルームメイトたちに別れを告げ、ルームシェアしていたアパートを出た際、スコットランドヤードの警部に「今夜が貴女の人生で最後の自由な夜ですよ。精一杯お楽しみなさい」言われ、衝撃を受けたそうです。

チャールズとダイアナが挙式したセント・ポール大聖堂

王室でのダイアナの苦悩

幼い頃に経験した両親の不仲と離婚により、ダイアナは寂しい思いをしてきたに違いありません。
また、学生時代には大好きなバーバラ・カートランドの恋愛小説を読み耽り、恋に強い憧れを抱いていたことでしょう。
チャールズ皇太子との結婚により、夫から愛され、世界中から祝福され、ダイアナはようやくずっと欲しかった愛が手に入るかに思えました。

ところが、ダイアナが後のインタビューで「3人の結婚生活だった」と語っているように、王妃としての結婚には、チャールズのカミラ夫人との不倫による苦しみと愛への渇望感が付きまとうものでした。

また、結婚してからしばらくはバッキンガム宮殿に住んでいたのですが、そこではエリザベス女王と同居しなければならなかったため、ダイアナは早くそこから離れたがりました。

バッキンガム宮殿

多大なストレスから、ダイアナはこのころ過食と嘔吐を繰り返すようになりました。

バッキンガム宮殿を離れ、ケンジントン宮殿に移り住んでからもなお、ダイアナは王室の環境に適応することができずにいました。
結婚したばかりのダイアナは、チャールズに側にいてほしがりましたが、膨大な公務を抱えたチャールズと一緒にいられる時間はほとんどありませんでした。

ウィリアムとヘンリーの誕生

そんな苦難に満ちた結婚生活を送る中にも、ダイアナに愛のより所ができました。
ウィリアム王子とヘンリー王子の誕生です。

二人の王子が誕生し、チャールズは公務を大幅に減らし二人の王子との時間を過ごすことに専念し、束の間の家族団欒の時間を過ごしました。

精神疾患に苦しむダイアナ

ヘンリーを出産してから、ダイアナは産後うつ過食症に苦しんでいました。
自尊心が低下し、自分に価値がないように感じ、自分を傷つけたくなってしまうのです。
メディアには「ダイアナは精神不安定」というレッテルを張られました。
当時はメンタルヘルスについて語ることがタブーとされていました。
しかしダイアナは摂食障害やうつ病について語り、精神疾患で苦しむ人への理解と支援の必要性を訴えました。

別居の末の離婚

ヘンリー王子が生まれた時、ダイアナとチャールズの関係は冷え切っていたといいます。
ダイアナ妃はケンジントン宮殿に、チャールズはコーンウォール公領のハイグローヴ邸で、それぞれ別々に暮らすことが多くなりました。

ダイアナは、二人の王子の育児と慈善活動に精力的に取り組むようになりました。

1992年12月9日、夫妻が別居すると公式発表されました。
ケンジントン宮殿からはチャールズの私物が、ハイグローヴ邸からはダイアナの私物が取り払われました。

また、このころチャールズとカミラの不倫が大きく報道され、王室には批判が集まりました。

離婚を言い渡したのはチャールズのほうからでした。
ダイアナはなんとしても離婚を避けようとしていましたが、最終的には離婚に同意しました。
のちのBBCのテレビ番組のインタビューで、「幼いころに両親の離婚を経験したので、もう二度とあんな思いをしたくありませんでした。」と語っています。
離婚を告げられ、ダイアナは深い深い悲しみを感じたといいます。

1996年8月28日、長い長い離婚交渉の末、チャールズとダイアナの結婚生活は終わりを迎えました

ダイアナの住居 ケンジントン宮殿

パリでの事故死

1997年8月31日、ダイアナが乗るベンツがパリで事故を起こし、ダイアナは帰らぬ人となりました
事故の原因は、パパラッチの執拗な追跡と運転手の飲酒運転だったといわれています。

チャールズ皇太子はダイアナの訃報を聞き、パリに行ってダイアナの遺体を引き取る決意をしました。
彼は病院に安置されたダイアナの遺体の前で泣き続けたといいます。

ダイアナの死が報道されるや否や、イギリス中が深い悲しみに包まれ、ケンジントン宮殿とバッキンガム宮殿は多くの追悼の花束で埋め尽くされました

1997年9月6日、ウェストミンスター寺院でダイアナの葬儀が行われ、2000人もの人が参列しました。

ダイアナの葬儀が行われたウェストミンスター寺院

「スペンサー ダイアナの決意」で描かれたダイアナの苦難

冒頭でもご紹介した通り、ダイアナの旧姓を冠したこの映画は、1991年の王室のクリスマス休暇を描いたものです。
作中では、ダイアナが摂食障害に苦しんでいたこと、王室の中で誰からも理解を得られない孤独感に苛まれていた日々、二人の王子の母として懸命に愛情を注ぐ姿が描かれています。

自分の心に従ったダイアナ

慣れない王室での生活、宮殿での理解者のいない孤独、チャールズの不倫、マスコミの執拗な追跡…
このような環境では精神を病んでしまうのも何ら不思議ではないでしょう。

しかしダイアナは心に従い自分を貫きました。

この映画には、何度も雉が登場します。
狩りは英国王室伝統のスポーツで、雉は狩りのその獲物となるため王室の敷地内で繁殖させられ、撃たれれば王室の従事者と犬に食され、余ったものは廃棄されます。
ダイアナは孤独で行き場のない思いを抱えた自分と雉と重ね、
逃げなさい、飛んでいくの。手遅れになる前に。行先を選べるならケンジントン宮殿に来て
と話しかけます。
そして動物好きだったダイアナは、イギリス王室の伝統であった狩りを嫌い、二人の王子にも狩りへの参加をやめさせました。

また、王室では子守を乳母に任せるのが普通でしたが、ダイアナは二人の王子をできるだけ普通の子と同じように育てようと努力しました。
バスや地下鉄に乗り、ハンバーガーショップやディズニーランドにも連れて行きました。

こんな逸話があります。

ダイアナはケンジントン近くのマクドナルド二人の王子を連れて行きました。
三人が列に並んでいると、驚いた店長が最前列へ案内しようとしました。
しかしダイアナは「しーっ」と言って制したといいます。

ケンジントン宮殿近くのマクドナルド

愛こそ最高の薬である

この映画の中でとても印象的だったセリフがあります。
宮殿に誰も味方がいない孤独と厳しい感じの目に苛まれ、摂食障害、自傷癖といった心身の不調に苦しむダイアナに、彼女の衣装係であり唯一の理解者マギーがこのような言葉をかけます。

「あなたに必要なのは医者ではなく愛」

社会学者の鈴木涼美さんが、この『スペンサー ダイアナの決意』についてコラムを書いています。

https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/g41304698/princess-diana-project-suzumi-suzuki-column-220926/

そこで鈴木さんは、ダイアナには愛が必要だったことを指摘しています。

摂食障害や自傷癖を患うほどのSOSを出しながら救われず、自殺未遂するほど疲弊していたダイアナを崖っぷちに追い込んだのは結局、伝統の重みや浸食されるプライベートよりも、あるべきところになかった愛に尽きるような気もした。(中略)

映画『プリンセス・ダイアナ』『スペンサー ダイアナの決意』窮屈な靴は人を追い詰めるのかー作家・鈴木涼美コラム連載|カルチャー|ELLE[エル デジタル]

幼いころに経験した両親の離婚と再婚、王室での厳しい監視と孤独、チャールズの裏切りを経験し、まだ若かったダイアナはどれほど苦しかったでしょう。
そんな彼女が生涯を通して一番欲していたのが、愛だったのだと思います。
「愛」というと抽象的で実体のないもののように思えるかもしれませんが、ダイアナはいつもいつも愛されたいと願っていました。
両親からの愛、夫からの愛、あるべきところになかった愛がダイアナの心を蝕んでいたのです。

しかしダイアナは、自分が切望していた愛を人に与える道を選びます。

ダイアナの慈善活動

離婚により王室の公務が無くなったダイアナは、その隙間を埋めるようにこれまで以上にエイズ問題、ハンセン病問題、地雷除去問題などの慈善活動に熱心に取り組みました。

1996年12月にはアメリカ元国務長官ヘンリー・キッシンジャーから「今年の人道主義者」として選出され、ダイアナはニューヨークでの授賞式に出席しました。

1997年1月にはBBCの取材チームとともに、内戦の影響で地雷の多いアンゴラを訪れ、実際に地雷原を歩き、注目を集めました。
地雷原を歩く姿はマスコミに報道され、世界から地雷問題への関心を集めました。

また、ダイアナは、当時は触れただけで感染すると誤解されていたHIVやエイズで苦しむ患者の手を握りながら励まし、この病気に対する人々の誤解と差別を覆しました。

1997年6月25日には自分のドレスのオークションを行い、その売上金をエイズ・癌患者に寄付しました。

ダイアナが人生をかけて私たちに伝えようとしたこと

鈴木涼美さんは先ほどもご紹介したコラムで、イギリス人と日本人は愛を伝えることが下手な国民性であるからこそ、愛を伝えることが重要だと述べてます。

エリザベス2世は訪日した際に、英国人と日本人の似ている点について、愛情深いがその愛情をあまり大袈裟に表現しない気質をあげていた。社会は予測不可能な形に変わっていくし、世間は厳しいし、世界は荒唐無稽だし、自分にピッタリと合うサイズの靴を見つけるのは難しい。大抵は与えられた居場所や役割には不満なものだし、自分らしくあろうと伝統からズレれば批判されるものだ。そのズレや居心地の悪さは時に人を傷つけるが、その傷が致命傷となるほど深くなるかどうかは、身近に信頼できる大きな愛を感じられるか否かにかかっているのかもしれない。(中略)チャールズ皇太子ほど無慈悲ではなくとも、愛情っていう形のないもの伝えるのはいつも困難だね、なんて歌が流行するほど愛情表現の下手くそな国民性はどうやら確かだから、私たちは身近な人がエッジから転げ落ちないように、愛を持って接しまたそれを名もなき熱っぽい詩にして夜毎捧げるような作業は怠らない方が良いのだと思った。(中略)

映画『プリンセス・ダイアナ』『スペンサー ダイアナの決意』窮屈な靴は人を追い詰めるのかー作家・鈴木涼美コラム連載|カルチャー|ELLE[エル デジタル]

私が幼いころ読んだダイアナ妃の伝記には、このような場面が描かれていました。

テニスの試合を見て歓声を上げるダイアナをウィリアムが呆気にとられた顔で見上げ、
「お母さん、王室の者はあまり感情を表に出しちゃいけないんじゃないの?」
と気まずそうに問いかけます。
するとダイアナは
「これまでの王室は、感情を隠すほうが偉く見えたかもしれない。だけどこれからは、感情を人々と分かち合わなければいい国王にはなれないのよ」
と言いました。

この描写が史実か創作かはわかりませんし、ダイアナ妃に会ったこともなく国も異なる私にダイアナ妃を語ることはできないのは承知していますが、ダイアナ自身が「誰かが外に出て愛を人々に伝えなければ」「人々の心のプリンセスになりたいです」という言葉を残しているように、彼女はイギリス王室のプリンセスとしての立場を保つことよりも、ただ人々と感情を分かち合い、愛を渡し合いたい願っていたことがよくわかります。

愛し愛されるためには、威厳を示すのではなく、人々と感情を分かち合い、心でつながらなければならない。
ダイアナはそれをよく理解していた、進歩的なプリンセスであると私の目には映りました。
ダイアナは、自分が渇望してやまなかった愛を、他者に惜しみなく与えることができる気高い精神の持ち主だったのだと私は思います。
また、自分の弱さを勇気を持って他者に見せられる強さも持ち合わせていました。

それらを自分の言葉で書いておきたいと考え、この記事を執筆しました。
書いていて、ダイアナの孤独や苦しみに触れ涙があふれることもありました。 
私自身、両親の離婚や社会不安障害、自傷行為を経験したことがあり、もちろん全部ではないものの、ダイアナに共感できる部分がありました。
だからこそダイアナの伝記、ドキュメンタリー、インタビュー、映画から感銘を受け、その経験が、私にこの記事を書かせてくれたのだと思います。

そして最愛の人の心を守り抜けるよう、私もダイアナがそうしたように全身全霊で愛を伝え続けなければという思いに駆られました。

これを読んで下さった皆さまに、ダイアナの愛が伝わりますように。

また、ブログもやってます。
留学記、読んだ本の書評などを綴っているのでよかったら見に来てください。


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