情報思想

社会思想、政治思想、経済思想など、特に社会科学の分野で思想というのは一つの中心的な研究テーマとなっている。この情報化時代、そろそろ情報思想のようなものを考える時期なのかもしれない。

情報思想の基本要素

情報思想とは、社会のような人間集団についてでも、政治のような制度についてでも、経済のような貨幣という交換ツールを軸にして見た現象でもなく、人間間の不定形なコミュニケーション媒介ツールについての考え方であると言える。それには、不定形故に非常に多様な形態を持ち、発信側の意図、受信側の解釈、そしてその間の誤送や誤読といった様々な要素が影響する。

想定人間像

まず、情報思想の基本となる人間像をどのように捉えたらよいか、という問題がある。経済学なら、経済的に合理的に行動する人間像を想定することによって、その合理性に合わせた合理的社会について考えることができる。では、情報を扱う人間の動機は何になるだろうか。ここで、依存的人間と自律的人間によってその動機は変わってくるのかもしれない。依存的人間では、他者の自分に対する認識に大きく依存しているので、おそらく自分の認識を広めることで影響力を拡大したいということが主たる動機になると思われ、一方で自律的人間は、他者に対する影響力の拡大というよりも、自己の認識欲求をより大きく深く満たすような完全情報への志向が主たる動機となると考えられそう。

コミュニケーション素材としての情報

現状は情報に対する考え方が、情報通信、つまりコミュニケーションに偏っているように感じられ、その意味で他者認識に依存した影響力拡大欲求の方に大きくスポットライトが当たっているが、一方で強固な信頼関係は秘密の共有にある、というような、依存型人間の別方向の志向性は、自己認識を支えてくれる他者に依存していることになり、それは本来的には自分で自分の認識を確保すべきところを他者に依存していることで、暗黙のコミュニケーションのベースになっていると言える。つまり、内的依存にしろ、外的依存にしろ、依存型人間は情報をコミュニケーションの素材として重視しているのだと言えそう。

情報自体の意味

それに対して、自律的人間は自らの認識欲求を満たすために、情報を集め、それによって認識を拡充させようとしており、すなわち情報それ自体に意味を見出しているのだと言える。これについて、情報の理解、納得ということをどう考えるか、ということで、自分の心に落ちることで納得するのか、自分の頭の中にある関係性が落ち着くことで理解したとするのか、という大きな違いが出てくるのだと言えそう。

人間タイプによる情報の扱い方

自律的人間は、自らの認識と新たな情報を擦り合わせて、それがうまく折り合うことで納得に至ると言えそうだが、依存的人間は、外部への影響力を考え、あるいは自己認識を確保してくれている人の存在を意識して新情報のわかった、わからないを決めているのではないかと考えられる。

情報思想のあり方

このように、情報の意味づけについては、その人間のタイプによって異なることがわかる。つまり、情報と一言で言っても、その解釈は一概には定められず、それゆえに情報の多面性が発生するのだと考えられそう。その情報をいかにうまく整理するか、というのが、情報思想のあり方だと言えるのかもしれない。

自由と権利の優先順位

まず一つの軸として、自由と権利のどちらを優先するのか、という問題がありそう。これにはまた、自由は権利である、あるいは権利に基づいて自由が存在する、と言った考え方もありそうで、そのどちらを選ぶのか、という問題設定自体に違和感を覚える人もいるかもしれない。これを考えるために、権利という物を、他者の権利を侵害することのないいわば自然権と、他者の権利との干渉や競合が発生する排他権とに別けて考える必要があるのかもしれない。自然権は、全ての人に平等に認められるように理論的に成立した権利であるといえ、その範囲を拡張してゆくということが、権利としての自由の拡大を保障するのだと言えそう。一方排他権の方は、自然権を拡張しようとする取り組みの中で、どこまでが他者の権利を侵害しているかわからないときに発生すると定義できるのかもしれない。つまり、自然権成立のための理論を成り立たせるためには、全ての人に平等でない部分はどこか、ということを見極める必要が出てきて、そうなると試してみないとわからない、ということになる。そして、全ての人には平等ではあり得ない部分も当然に存在し、そうなったときにどこまでが他者の権利を侵害しないのか、ということを試して、限定的自然権を打ち立てるときにもこれは適用されるのだと言えそう。限定的自然権にはその限定を定める条件が存在するわけで、その条件を満たせば限定的自然権が適用されることになるのだといえよう。その条件は公開され、そしてそれを満たさなくなる要件を明示した上で自然権として認められると言えるのかもしれない。その際には要件回復のための要件も定められていることが望ましそう。こうした定義の上で自由を優先して権利拡張するのか、権利を重視して自由の範囲を拡張するのかということの微妙な違いが現れることになりそう。つまり、情報を得るのに、自由に他者の権利を明白に侵害するまで行けるところまで行くのか、権利要件を固めつつ自由の範囲を拡張してゆくのか、というアプローチの違いが現れ、それが思想の一角をなすのではないか、ということが言える。

集権/分権

次いで、集権的か分権的かという問題がありそう。これは、情報集積を一箇所にまとめて行い、処理するのか、それともあちこちに分散させて行うのか、という問題で、管理のために集中的な情報集積を好むのか、それとも個別の情報集積、処理、管理を旨とするのか、ということになる。これも、情報というものの性質に深く関わってくると言えそう。情報には、大雑把に言ってその中身であるコンテンツと、その分類を示すタグの情報があると言える。管理のための集中的な情報集積では、どうしてもその分類のためのタグ情報が重視され、一方で個別の情報集積は中身であるコンテンツを重視するのではないかと考えられる。タグ情報に基けば、分類別の情報が一覧されるので、その処理速度は非常に早くなるが、コンテンツの隅々まで目が行き届くかと言えばそうはなりそうもなく、相対的に雑になるし、またタグの付け間違いなどによって情報の分類漏れなども起こりやすくなる。一方でコンテンツを重視する分権型では、その中身を精査する情報集積となるので、個別の関心に合わせた情報の質は上がる。つまり、個別の関心内容が明確ならば、集権型を通じた情報よりも分権型の方が情報の精度は高そうだ、ということが言えそう。

組織/市場

また、組織的情報伝達か、市場によるものかという違いもありそうで、これは、情報伝達が系統だってなされるのか、それとも市場による個別の情報交換が好まれるのか、という問題となる。系統だった情報伝達は、担当分野の情報が大量に効率的に分配されるが、それゆえに情報の流れがタコツボ化し、担当外のことに目が向きにくくなる。市場による個別情報交換は、個人の関心に合わせた情報を総合的に集めることができ、視野を広く保つことができそう。それは使い分けの問題だともいえ、軸として自分の関心分野に関わる情報を市場で幅広く調達し、特定分野の情報を集中的に集めたいときには組織的なものに自由にアクセスできる、というようなことができるようになれば、情報伝達の効率性は飛躍的に向上しそう。

まだ十分にまとまっているわけではないが、こう言った要素が、情報伝達のあり方から見た情報に対する思想的な背骨となってくるのではないだろうか。情報というもの自体についてもまだまだ議論の必要がありそうなので、その展開によって肉付きをして行けるだろうと考えている。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。