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2023年サミットへの展望

昨日93年サミットのことについて書いて、よく考えてみたら、何事もなければ再来年の2023年が再び日本でサミットが開かれる予定になっていることに気づいた。そこで、30年前と同じ轍を踏まないよう、そしてそのリベンジがなんとか果たせるよう、政治がどうあれ、一人一人の思いをその機会にうまくぶつけて、より民主的な意思として望ましい方向に動かすことができないか、と考えてみた。すぐに、あるいは直接どうこうということはないのだろうが、一つの補助線として提示してみたい。

2023年サミットの意義

まず、2023年というのは、93年サミットから30年であるとともに、73年オイルショックから50年、さらに言えば1923年関東大震災から100年の年にあたる、非常に重要なメモリアルイヤーとなる。そこで、オイルショックに関して環境というテーマを、そして、関東大震災に関して防災というテーマを据えることで、二つの中心となるテーマを立てられるのではないかと考えた。それぞれのテーマについて、さまざまな人がいろんな考えを持っていると思うが、それをこのサミットに向けていろいろ話題にし、議論してゆくことで、なんらかの形でサミットの議論にも反映させてゆくとができるのではないだろうか。

環境問題ーオイルショック50年

ではここで、私個人の考えを提示してみたい。まず、環境について言えば、私は、分散化すればするほど環境には優しくなるのではないか、と感じている。誰だって、目に見える、あるいはすぐそばの環境がおかしくなったら嫌だと感じ、それを治そうとするはずだから、なるべく一人一人の関わることを自分の身近で済ませるようにすれば、環境に良くないことをすればすぐに自分に返ってくるようになる。そのために、なるべくさまざまなことを分散化させ、エネルギーや食料に関してもできるだけ地産地消を、政治や経済活動もなるべく小さな範囲で、できないことだけをもう少し広い範囲で考える、という仕組にした方が良いのではないかと考えている。つまり、環境については、分散化、分権化によって対応するのが良いのだろうと考えているのだ。かつては、なるべく処理を集中させた方が資源を効率的に利用できる、という考えが強かったように感じるが、交通機関や物流などの物理的移動手段はともかくとして、情報処理などに関しては、処理能力が極度に上がったので、集約させてそのために必要のない情報処理まで全て組み込むという無駄なことをするよりも、個別に必要な処理だけを行うという仕組の方が資源の効率利用にもなり、環境にも優しくなっているのではないか。そして、生産システムにしても、大量生産でマクロ的なエコを追求するよりも、個別に環境負荷がわかるようにして、生産活動自体を個に近づけた方が、環境意識自体が身近なものとなり、おそらくマクロ的な環境効果も改善するのではないかと考える。これについてはさまざまな議論があると思うので、あくまでも個人的な考えである。

分散化の更なる意義

もう少しリアリズムの観点から見ると、サミットとはいっても、中国の影響力が強まる中、このまま進めば、頂点を中国とした国際秩序の諮問機関としてのサミットになりかねない状況がある。さらには、AIの能力が日々進化する中で、AIのアルゴリズムが個々人の事情よりも優先され、AIがいっているから、というのが錦の御旗となってどんどん世の中が進んでゆくという事態もすでに進行中であると言える。その中で、グローバル、ナショナル、そして組織といった、さまざまな点における分散化の優位性を証明してゆかないと、かなり完成度の高い中国の集権体制には太刀打ちできず、吸収されてしまうことになる。中国共産党員にならなければ指導部に入れない体制が、国際秩序の中心に居座るという状況は、そこに入る可能性も意志もないものにとってはディストピア以外の何者でもない。そのような状況に対するオルタナティブを提示するというのも非常に重要なことではないかと私は感じる。

防災投資ー関東大震災100年

続いて、防災についてだが、これもまた個人的解釈だが、防災投資というのは、直接生産性に結びつかない投資ということになる。つまり、防災問題は、金融を、いかに直接生産性に関わらない投資に向けるようにするか、という、金融の多様化の問題なのではないかと考えている。世の中には、必要だと分かっていても、生産性の観点からペイしないから投資がなされない、ということが非常に多くある。それは、生産性で計測するということが、社会のニーズとは合っていないことを意味しており、そのような金融は果たして社会にとって有益なのか、ということが問われているのだといえる。利益ではなく、必要に応じて金が回るようにするためにはどうしたら良いのか。個人的には、それは、貨幣に金利がつくことによって、貨幣所有の利益が必要以上に大きくなっていることに由来すると考えている。だから、貨幣保有にコストがかかるようにすれば、必然的に、貨幣として手元に置いておくよりも、必要なものに早く投資をした方が利益になるということになり、必要度の高いものから投資の優先度が上がることになる。そしてもう一つ、利益への指向性を高めているものとして、デリバティブの存在は非常に大きいのだろうと考えている。デリバティブではなく、必要性指数のようなもので、それによって投資優先度が決まるというような仕組はできないだろうか。一人一人が必要だと思うものに投票し、その数が集まったら投資がされる、という指標が、利益指標よりも重視されるようになれば、必要性に従って投資が集まるようになるのではないか。derivationをもたらすものとしてのderivativeに替わって、diversionをもたらすものとしてのdiversiveが金融に影響を及ぼすようになれば、金融が利益に縛られるのではなく、多様なニーズに応えるようになるのでは、と期待したい。

安全保障リスク可視化の意義

こちらはリアリズムというよりも理想論的に考えれば、必要性の低いものへの投資の責任が問われることになれば、国の予算の中で、軍事費への必要性をどの国民がどの程度感じているのか、ということも可視化され、必要度以上に投資がなされていれば、指導部の軍事的野心を示すし、必要度自体が高く出るようであれば、国民自体の安全保障的リスク感覚を示すことになり、いずれにしても安全保障リスクが相対的に民主的な形で可視化されることになる。それは、指導部の独断による軍事拡張からの安全保障リスクの上昇を防ぐ安全弁ともなるのではないか。

サミットから世界を変える

このような形で、それぞれの人がさまざまな考えを2年後のサミットに向けて発信し、世論を形成してゆけば、政治もそれを無視することはできなくなり、日本でのサミットから世界が動き出す、ということも可能なのではないだろうか。具体的な成果として個人的に期待したいのは、個人一人一人を尊重する「個尊(equispectedity)」の考えを実現するための国際機関、国連個尊機関(United Nations Equispectedity Organisation:
UNEO) あるいはサミットで国連は関係ないとなれば、個尊実現のための協力機関(Collaborative Organisation for Realising Equispectedity: CORE)といったものができないかということがある。 個尊というのも言いにくいので語呂を合わせて個愛(コア)などというのは、流石にキラキラネーム的か。いずれにせよ、一人一人がなんらかのビジョンを持って日本でのサミットに臨めば、なんらかの成果は期待できるのではないだろうか。

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