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【Lonely Wikipedia】英仏関係

ちょっと無理矢理気味にイギリス推しになってしまっており、何がここまで強引にさせる、言葉にならない違和感をもたらしているのか、というのを突き詰めるために、英仏関係を見てみることにした。とは言っても、これは長い歴史に基づく複雑な関係で、そんなにぱっとすっきりするようなものではない。それを全て追っていたらいつまで経っても前に進まないので、とにかくスポット的に同時代のナポレオン3世との関係性を見ることとする。

ナポレオン3世(Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれていた。本項でもそのように記述する。
ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年のフランス革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。

とは言っても、権力を握った後を追うだけでも大変なことになってしまうので、軽く軽く見てゆく。
まず、国外亡命時代には、かなりの期間イギリスにおり、本来的にはそこでどのようなネットワークを形成したのか、というのを見ないと微妙な動きはわからないのだが、今はそこまではとても手が回らない。

1848年革命の少し前には、後にナポレオン3世の政策を後押しをし、その経済・外交政策のあちこちに顔を出すことになるサン・シモン主義者が集まって、スエズ運河開削の調査を始めていた。想像に過ぎないが、新大陸ではアメリカが建国され、ルイジアナもそこに売ってしまったことから、直接イギリスと競合するよりも、アメリカを通じて影響力を及ぼした方が良いと考え、それよりもアフリカやアジアに植民地を広げる事でイギリスに対抗する、という考えの下での計画だったのかも知れない。その計画は結局(前後関係は余り明かではないが)1847年金融恐慌によって足止めとなり、そして翌年年明け早々からヨーロッパ各地で1848年革命が次々起こった。後にナポレオン3世となるルイ・ナポレオンは、これをきっかけにパリに戻り、そして第二共和制で大統領に就任する。それに留まらず、51年にはクーデターを起こし、翌年に即位し皇帝となった。
その皇帝期の前半は「権威帝政」と呼ばれ、選挙で官選候補制度が行われるようになり、一方で新聞の事前認可と保証金制度、さらには政府コミュニケの掲載義務や3度の警告で発行停止など、報道に強い規制が掛かっていた。そしてその統制下で、クリミア戦争、アロー戦争、ベトナム侵攻と、次から次へと侵略戦争を繰り広げたのだった。フランス国民は、まさに大本営発表のごとく、都合の良い情報しか耳にしないまま、「民主的皇帝」であるナポレオン3世を支持せざるを得なくなっていた。これは、後の日本の翼賛政治をはじめとして、ファシスト的な政治の一つの大きなモデルとなったと言える。余談となるが、翼賛政治の中心であった近衛文麿の後見役西園寺公望は、71年にナポレオン3世のロンドン亡命と入れ替わるようにパリに入り、10年に及ぶ留学生活を始めている。

クリミア戦争については細かく見る余裕がないのだが、前回見たアロー戦争については、確かに直接的なきっかけはアロー号の臨検に関わる摩擦によって反英国的な雰囲気が広がり、それに伴って広東で起こった小競り合いというのは一つの要素ではあろうが、本格的な戦争は、翌年のフランス人宣教師殺害に伴う英仏連合軍による広州占領であり、これについてはその原因から見てもフランスが主導していた可能性が高い。そして、宣教師が殺されたのは、アロー号事件よりもかなり前であり、フランスがアロー号事件以前から広州で軍事活動をしていた可能性は高い。アロー号事件はそれに付随して偶発的におきたものだと考えられる。イギリスが行ったとされる広州への砲撃なども、実際にはフランスがやった可能性も大きく、そしてその争乱の中でイギリス人居留民に被害が出て、イギリスの出兵につながったと考えるべきではないだろうか。つまり、フランス主導の戦争だったのが、フランス国内の報道管制と、イギリスでの民主体制下での報道の自由によって、イギリス側の責任により強く焦点が集まり、あたかもイギリスが強引に仕掛けた戦争であったという印象ができあがったのだと考えられる。結局英仏を含めた四カ国が条約改正を求めて清の政府に圧力をかけるという状態が60年まで続いた。

そして、その隙にフランスはアジアに着々と地歩を固めていった。その中でも重要だったのが、58年の安政の五カ国条約で日本との間に通商条約を結んだことだと言える。この五カ国条約、米・蘭・露・英・仏の順で締結されたのだが、南北戦争直前で、国内が不安定化していたアメリカと最初に結ぶというのは、鎖国下とは言え、それまでの外国との関係性を考えれば、余りに奇異であるし、リスクも大きい。そのあたりの背景はまた別に考えるが、とにかく普通に考えればオランダが主導権を持っていたはずで、ただ、オランダはこれまでの長い関係から直接開国を迫ると言うことはしにくかったであろう。つまり、この五カ国条約は、国際政治の文脈では、オランダが当時国際的には一番の大国であったイギリスの影響力を最小限に抑える、という事を考えて結ばれたものだと言えそうだ。その中で、これまで排除し続けたカトリック国が入るのならば、スペイン、あるいはメキシコ、またはポルトガル、という辺りが順当であろうが、そこにフランスが入ってくると言うのが、それこそまさに同時進行で隣国清で起こっていたアロー戦争を脅しに使ってねじ込んだのだと言えそう。つまり、オランダがこの開国の条約を押しつけることができたのは、フランスがアロー戦争を仕掛けたからであった、という見方は成り立ちうるのだろう。そして、特にフランスは、日本との間に不平等条約を結び、それによって更に清との間に新たな不平等条約を結ぶ、という両にらみでの条約交渉を行っていたのだと言える。

また、58年にスペイン人の宣教師が殺されたという事を口実に、ベトナムに侵攻し、まずは首都のダナンに攻め込み、翌年には南部のサイゴンを占領し、南部で軍事活動を活発化させ、62年にはサイゴン条約を結んで、コーチシナ東部3省の割譲、全土におけるキリスト教布教の自由、ダナンなどの開港をベトナムに認めさせた。

そんなことで、イギリスの力をてこにしながら、フランスは、これまで主としてオランダの勢力圏であったアジアに一気に勢力を広げていった。それが一段落した1860年1月23日、イギリスとの間に英仏通商条約を結んだ。条約の内容自体についてはまた別に見るとして、その担当者についてみてみると、フランス側で担当していたのはミシェル・シュヴァリエで、助言をしていたのはアルレース=デュフール、これについてはまた別に見るが、リヨンの絹織物業界の大物であった。また、その時期まで駐英公使を務めていたのが、その前に内務大臣を務め、おそらく報道統制体制を整えたと思われる、ナポレオン3世に忠実なボナパルティスト、ド・ペルシニーで、一方イギリス側の担当はリチャード・コブデンであった。
イギリス側の政治情勢を見てみると、当時は第二次パーマストン内閣で、外務大臣はジョン・ラッセル、コブデンは内閣とは何の関係もなく、個人の立場で交渉を行っていた。ジョン・ラッセルとパーマストンの関係だが、ナポレオン3世が即位した当時、ラッセル内閣だったのだが、その外務大臣を務めていたパーマストンが勝手にその即位を歓迎したという事で、責任をとって辞任している。歓迎を示した相手とされるのがナポレオン1世の庶子でナポレオン3世の従兄弟に当たるアレクサンドル・ヴァレフスキで、それが本当にパーマストンからの発言だったのかは疑わしい。ラッセルはパーマストンを煙たがっており、また女王も彼を避けたがっていたとされる。それを見て、フランス側がパーマストン下ろしの陰謀を企んだ疑いがある。そしてラッセルはまんまとそれにはまったのかも知れない。

このあたりはもっとどろどろしたものがありそうで、58年2月に第一次パーマストン内閣が崩壊するのだが、それは、フランスでナポレオン3世の暗殺未遂事件が起き、その犯人がかつてイギリス亡命をしており、そこで爆弾を調達していたことを受けて、同じくアレクサンドル・ヴァレフスキの要請を入れて、殺人共謀取締法を立法しようとしたところそれが否決されたためだった。その否決運動の中心となったのは、ナポレオン3世に56年に面会したとされるベンジャミン・ディズレーリであり、パーマストン内閣のあとに成立したダービー内閣で、ディズレーリは庶民院院内総務となって陰の実力者として実権を握った。安政の五か国条約が結ばれたのはこの時期であり、つまりパーマストンはその内容について関知していなかった。そしてその条約締結に際して何とナポレオン3世は日本に直接おもむいて絹の輸入についての話をしている。(追記:これに関しては非常に疑わしいと思います。)

そんな関係性を頭に置くと、この日仏通商条約というものも違った光景に見えてくる。今は中身には立ち入らず、形式だけ見るが、イギリス側でサインをしたのはどちらも内閣とは直接関わらない駐フランス大使コウリー卿とコブデンで、一方フランス側は外務大臣ジュールズ・バロシュと通商大臣のウジェーヌ・ルーエがしているというかなり非対称なものだった。つまり、外務大臣ラッセルの権限で、内閣を通さずに署名した可能性もあるのだ。結果として貿易拡大に結びついたので問題にはならなかったのだろうが、事前に内閣に諮っていなかったとしたら、それは大きな問題の源であったと言える。というのは、また別に詳しく述べるが、日本からの絹織物の輸入権がフランスにある、という事を暗黙で認めたような形になっているからだ。

この英仏通商条約が結ばれた後、そしてアロー戦争の終結後に、ナポレオン3世は「権威帝政」から「自由帝政」に舵を切る。これを見ても、アジア外交というのが権威帝政を行った大きな理由であったことが見て取れる。インドシナ情勢で既に評判を下げていたフランス外交が、清や日本に対してさらに外交で敗れるようなことになれば、フランスという国の権威は失墜し、特に皇帝となったばかりのナポレオン3世の権威の失墜は、そのままナポレオンの名声にも傷がつき、東洋と西洋という関係性にも影響を及ぼすという配慮もあって「権威帝政」で報道の規制などを行ったのかも知れない。
「自由帝政」となっても、その頃には既に南北戦争が始まっており、国際報道はほぼそこに集約されることになる。ナポレオン3世はそこにさらに注目を集めるために、61年にメキシコに出兵し、64年にはマクシミリアンを擁立して帝政を打ち立ててたが、南北戦争終了後の67年にはその身をアメリカに委ねる、つまり見捨ててメキシコの帝政を崩壊に導いた。62年のサイゴン条約は、それを隠れ蓑にしたようなものだと言える。その後も66年に李氏朝鮮との間に丙寅洋擾を起こしたが敗れ、その後は外交に注力したか、67年にカンボジアの保護国化をタイに認めさせ、更にコーチシナ西部3省もフランス領に編入した。他にも、幕末日本の幕府側に肩入れをしていた。

一方イギリスは、65年10月に、南北戦争が終わったのを見届けたかのようにパーマストン卿が没し、その後はラッセル、ダービーと続き、内政がテーマとなって目立った動きは見られなくなった。ダービー内閣では再びディズレーリが院内総務として実権を握り、その後に待望の首相となっている。ちょうどそのころに、フランスのインドシナでの活動が活発化している。

このように、1850-60年代の世界的争乱の震源は、ナポレオン3世のフランスにあったと言ってもよさそう。

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