思考マトリクス

思考のあり方をマトリクス化してみた。

思考マトリクス

思考のタイプとして具体思考と抽象思考があり、それぞれ様式と感情(または物理学的な粒子と波、あるいは静態と動態)に分けられるのではないかと考えた。

具体思考

具体思考については、文字通り具体的な現象について考えることであり、観察したものについてそのまま考えることで、それはその具体物とその周囲あるいは観察者との関係性を考えることと、その具体物がなぜ、どのような意味でそこにあるのかという文脈を考えることに分けられるのではないだろうか。関係性は具体物間の関係様式であると言えそうで、一方文脈は観察者がその具体物から受けた印象または感情の表出であるとも言えそうだ。

抽象思考

一方で、抽象思考については、観察した現象そのものではなく、それを抽象化し、一般化、模式化した思考をしてみることだと考えた。それが様式化の方向で進んでゆけば制度となり、感情的な方向に進めば芸術となるのではないだろうか。

記憶のあり方

具体思考は、そのまま経験として肉体に刻み込まれ、強い印象を持った思考ほど深く刻み込まれてゆくことになりそう。一方で、抽象思考は筋道を追って考えを辿ってゆかないとそこにたどり着けなくなり、総合的なイメージで覚えられると言えそうな記憶だけではその思考の過程を再現することは難しくなるのかもしれない。そのために、人の記憶は具体的なものが中心となり、特に関係性による記憶が強くそれを規定してゆくと言えるのかもしれない。

抽象思考欠如のリスク

思考はこのように、単純で一直線な過程ではなく、複雑で象限に広がるものだと考えられるので、そのような思考過程に即時判断の連続を求めるというのは、脳の働きとは反したものになる可能性があり、脳の最適使用法ではないのではないかと考えられる。具体物観察とそれについての思考を積み重ね、それが抽象化されていって次第にその人独自の考えとしてまとまってゆくものだと考えられるのに、永続的に具体的判断を繰り返すよう限界まで負荷をかけ続けるような競争的社会は、その点において思考の生産性が非常に低い社会であると言える。抽象思考がどんどん出続けるような社会の方が、思考生産性としては高いものだと考えられるからだ。

抽象思考の現実応用

一方で、抽象思考のまとめられた書籍などを読んで、具体的な実体験と結びつくことなく理解したつもりになると、とんでもない方向に理解違いをしていくことになる可能性もある。それは、中世にキリスト教会が聖書の独占解釈を握っていた大きな理由であるとも考えられそうだ。つまり、聖書の解釈が読む人によって変わることでその解釈が散乱してしまうということが恐れられたのではないだろうか。実際には聖書が抽象的な本であるかと言えば、どちらかと言えば歴史的な事象をまとめたものであると言えそうで、具体的な書物であると言ったほうが良いのだろう。それは結局のところある地域の歴史文脈に根付いた感情を抽象化して思考したものに過ぎず、そのままあらゆる場所で実践に適用しても即うまくいくものではないのだろう。

抽象思考のリスク

このように、書籍の内容をそのまま実践に用いてしまおうという誘惑にかられることもありそうで、特に現代では、経済学をはじめとした社会科学においてそのような風潮が強いようにも感じるが、社会科学については、経済的功利主義のような、理論の前提としているような考え方が現実とはかけ離れていることがままあり、そのために統計数字には適合していても、それが現実の経済社会と直結しているかと言えば、そのようなことはないことも多いのだろう。抽象思考に頼りすぎることにもこのようなリスクがある。

具体から抽象へ

思考は具体から抽象に進むとも考えられそうで、例えば生物の観察で言えば、その関係性を具体的なものから抽象化することによってリンネの分類学のような方向へ進み、一方生態研究の抽象化からファーブルの『昆虫記』のような方向へ進んだのではないだろうか。

具体思考に固まると

そのような思考の進展に対して、日常生活において、忙しさによって、具体思考から抽象思考に昇華させる余裕がないと、具体的な身近な関係性と簡略化されたわかりやすい歴史的文脈という狭い具体思考世界に閉じ込められる可能性が高まる。そうなると、抽象思考のレベルで大きなパラダイムシフトが起きた時に、その変化に適応できない、ということになってしまうのかもしれない。

具体思考から抽象思考へ

そんなリスクを避けて思考能力を育むには、具体思考から抽象思考へ切り替える部分を強化する必要があるのではないだろうか。そのためには、先に抽象思考での軸を頭の中に置いておき、その視点から具体物観察を行うということが必要になるのかもしれない。一つの観察結果が唯一絶対ではなく、他にもさまざまある中で、その中から法則性のようなものを見つけ出し、そこから合理的な制度であったり、真理をつくような芸術が生まれてくると言えるのかもしれない。

多様性のために

その合理性判断、あるいは真理判定基準がそれぞれの人の個性であると言えるかもしれず、それを社会により一般化するのではなく、個々人のそれが尊重されるような社会こそ、多様性を重視した社会だと言えるのではないだろうか。


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