見出し画像

【Lonely Wikipedia】中印関係の実相(2)

前回は、中印関係というよりも、インド独立以前のイギリス東インド会社との関係となったが、この時点で現在につながる争いの要素はほぼ埋め込まれていたことがわかる。 そんな歴史がある上で、

1947年印度獨立后,印度主張有权继承原來的英屬印度领土。同时认为经由英印当局和西藏当局认可的麦克马洪线已成为法定边界,无论中国承认與否。印度政府内较激進的观点認為麦克马洪线的原意是中印边界位于喜玛拉雅山山脉最高脊。凡是既定的麦克马洪线在喜玛拉雅山脉最高脊以南处,原意上的麦克马洪线应被视为通过实际麦克马洪线以北的喜玛拉雅山脉最高脊处。

マクマホンラインの北側のヒマラヤ山脈の尾根線が国境であるという考えもあったとのこと。これについてはなかなか難しいところで、歴史的には、ヒマラヤの東端部から今のミャンマーに至る部分は、インドから中国に抜けるための交通の要衝ということで、さまざまな民族が入り乱れていた。近代以前にはおそらく西アッサムのクーチ・ビハールにはチベット・ビルマ語系のコーチ朝が、そして東アッサムにはタイ族系のシャン族のアーホーム王国があったと考えられる。1817年にビルマ王国がアーホーム王国に攻め込み、ビルマ王国が占領した。その後第一次英緬戦争が起き、それによってイギリス東インド会社領になったという経緯がある。

さらには、特に山岳部はチベットに近いブータンとのつながりが深く、直接の支配関係はなくとも、その属領のような関係にあった。その後52年に、イギリス側の正当性の薄い第二次英緬戦争が起こり、さらにさまざまな経緯はあったが64年にブータン戦争が起こってアッサム地方はイギリス東インド会社のものとなった。

(詳しくは英語版を)

つまり、歴史的に言えば、ブラマプトラ川がベンガル平原に出るあたりのアッサムまではチベットや東南アジア系の文化圏に属するところであり、近代になってからの諸事情でイギリス東インド会社領になっていたということがある。その意味で、尾根線までの境界主張というのは、ダライ・ラマ13世の譲渡した線よりもさらにチベット側に入り込むということで、かなり踏み込んだこととなる。ただ、中国文化圏というよりも、チベット文化圏であると言えるところであり、その点でチベットが譲歩したら中国はなかなか干渉し難いところがある。だから中国はチベットが勝手な外交で領土の譲歩をするということが見過ごせないわけであり、その意味でもダライ・ラマ13世の歴史感覚なき勝手な外交が大きな禍根を残しているのだと言える。

1951年,中华人民共和国通过军事行动和谈判,入驻西藏。印度驻华使馆向中国政府发出照会中说:“中国军队之侵入西藏不得不认为是可悲的。”1951年2月2日,印度军队乘中国参与朝鲜战争之际,派兵占领了西藏噶廈政府管辖的达旺地区。

50年のチャムドの戦いの後中国はチベット入りし、それに対してインドは非難声明を出した。ただ、中国は50年の1月にチベット解放の宣言をしており、その後の4月1日に中国との国交樹立をしていることから、これは全くの不意打ちだったというわけではない。インドは翌年2月2日にブータンに隣接する达旺地区に派兵し、占領している。冬場に山越えができるのかどうかはわからないが、ラサに至る喉元のような場所であると言える。なお、この頃インドはネパールの革命にも介入し、宰相ラナ家から王政復古への動きを支持している。また、前日の2月1日に国連総会で中国が朝鮮戦争の侵略者だと名指しした国連決議第498号が採択されていた。

そこからしばらくは動きが追えないが、1953年の末に、

12月31日——政务院总理周恩来接见參加中印關於中國西藏地方和印度之間關係問題談判的印度政府代表團時,第一次提出著名的和平共处五项原则:「新中國成立後就確立了處理中印兩國關係的原則,那就是互相尊重領土主權、互不侵犯、互不干涉內政、平等互惠和和平共處的原則。……兩個大國之間,特別是像中印這樣兩個接壤的大國之間,一定會有某些問題。只要根據這些原則,任何業已成熟的懸而未決的問題都可以拿出來談。」

1953年12月31日、国務院総理の周恩来は、中国チベット地方とインドの関係に関する中印協議でインド政府代表団を迎えた際、有名な「平和共存五原則」を初めて提唱した。
「中国とインドの関係を処理するための原則は、新中国の建国直後に確立されました。すなわち、領土主権の相互尊重、不侵略、相互の内政不干渉、平等と互恵、そして平和的共存です。...... 2つの大国の間、特にインドと中国のように国境を共有する2つの大国の間には、ある種の問題がつきものです。この原則が守られている限り、議論すべき未解決の問題があれば、それを持ち出すことができます。」として、チベット問題の平和的解決のためにインドとの交渉に取り掛かった。

6月25日至6月28日——周恩來對印度正式訪問三天。
6月26日——周恩來和尼赫魯第3次和第4次會談記錄,周恩來説:「我們應該努力來消除亞洲各國毫無根據的恐懼。革命是不能輸出的。如果人民贊成一種制度,反對也是無效的。如果人民不贊成一種制度,勉強強加是一定要失敗的。我們應該以我們共信的原則給世界建立一個範例,證明各國是可以和平共處的。」
6月28日——中国与印度两国总理发表由尼赫魯起草而又經過雙方磋商之联合声明:“最近中國和印度曾經達成一項協議。在這一協議中,它們規定了為兩國之間關係的某些原則。這些原則是:甲、互相尊重领土主权;乙、互不侵犯;丙、互不干涉内政;丁、平等互利;戊、和平共处。”
同日,周恩來應緬甸總理吳努邀請,訪問緬甸首都仰光。

翌年の4月29日には両国がその内容を確定させ、6月25日から6月28日までの3日間、周恩来がインドを公式訪問した。
6月26日 周恩来とネルーの第3回、第4回会談の記録
周恩来は「アジア諸国の根拠のない不安を払拭するようにしなければならない。革命は輸出できない。国民がある制度に賛成していれば、反対しても無駄である。国民が制度に納得しない場合、消極的な押し付けは確実に失敗のもととなる。私たちは、各国が平和に共存できるという原則を共有することで、世界の模範となるべきです」と述べている。
6月28日 - 中国とインドの首相は、ネルーが起草し、双方が交渉した共同声明を発表。
"中国とインドは最近、合意に達した。この協定では、二国間の関係を規定する一定の原則を定めている。それは、a.領土主権の相互尊重、b.不可侵、c.相互の内政不干渉、d.平等と相互利益、e.平和的共存である。"
こうして中印間で平和五原則が成立した。

1954年6月,周恩来率领中国代表团访问印度,时任印度总理尼赫鲁因看到中国在“抗美援朝战争”中赢得很高的国际威望而对中国感到“担心”。据官方说法,对此,周恩来“有针对性地阐明和平共处五项原则的基本思想”:
“各国不分大小强弱,不论其社会制度如何,是可以和平共处的。各国人民的民族独立和自主权利是必须得到尊重的。各国人民都应该有选择其国家制度和生活方式的权利,不应受到其它国家的干涉。”

朝鮮戦争で国際的威信を高めた中国に対し、インドのネルーが心配しており、それを取り除くために、周恩来が平和五原則を提案した、ということらしい。

1954年6月,周恩来又先后访问印度和缅甸,并与时任印度总理尼赫鲁、时任缅甸总理吴努分别发表“联合声明”,双方一致同意以和平共处五项原则作为指导中印、中缅两国关系的基本原则。

ビルマとも同様にこの五原則を交わしている。

“两国总理重申指导两国关系的和平共处五项原则,并且感到在他们与亚洲以及世界其他国家的关系中,也应该适用这些原则。如果这些原则不仅适用于各国之间,而且适用于一般国际关系中,它们将形成和平与安全的坚固基础。”

ということで、国際関係全般にまで広げる野心的な計画を持っていたようだ。実際、この少し前にはベトナムとフランスのディエンビエンフーの戦いを終わらせ、のちにフランスの全面撤退につなげているのだから、周恩来の外交力は際立っている。朝鮮戦争終了後というのは、世界的に和平の機運が一番高まっていた時なのかもしれない。もっとも、中国は威信を高めたとは言っても、未だ国連未加盟であり、それは中国にとっては大きな問題であり続けたのだろう。

4月1日——中国、印度两国发表关于印度政府将其在中国西藏地方所经营的邮政、电报、电话及其设备和驿站交给中国政府的公报。

4月1日 - インド政府が中国のチベット地域でインド政府が運営していた郵便・電信・電話サービスとその設備、郵便局を中国政府に引き渡したことについて、中国とインドがコミュニケを発表。
インド政府がチベットの公共サービスを担っていた様子。イギリスのチベット進出に伴ってのことか。

この後アジア・アフリカ会議となるが、それはまた次回。

この記事が参加している募集

#最近の学び

181,393件

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。