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【Lonely Wikipedia】南北戦争2

ここで注目したいのがスペイン継承戦争だ。これは、スペイン王カルロス2世の死に伴う王位継承に、フランスブルボン王朝のルイ14世が介入し、孫のアンジュー公フィリップをフェリペ5世として即位させたためにおきた10年以上に亘る戦争だ。そして、これに連動して北米でもアン女王戦争が起きている。

アン女王戦争(アンじょうおうせんそう、英語: Queen Anne's War、1702年 - 1713年)は、欧州のスペイン継承戦争に対応して北米大陸において起こった、フランス王国(以下フランス)とイングランド王国(後にグレートブリテン王国、以下イギリスで統一)との間の戦争であり、一連の北米植民地戦争においては2度目の戦争である。名称は当時イギリスを統治していたアン女王の名にちなむ。それぞれの国と同盟を結んでいた多数のアメリカ州の先住民族および、フランス王国の同盟国であったスペイン帝国(以下スペイン)も戦争に加わった。別称に第三次インディアン戦争(英: Third Indian War)があり、またフランス語では第二次植民地間戦争(仏: Deuxième Guerre intercoloniale)と呼ばれる。

この戦いの説明は、ほとんど北部における英仏の争いに限られており、講和条約もそちら方面しか定められていない。これには複雑な事情がありそうで、おそらくスペインのアメリカ植民地は、フェリペ5世がスペイン王となることを認めておらず、だから、スペインとフランスは北米においては同盟関係ではなく、むしろ対立関係にあった可能性があるのだ。そして、カロライナは、スペインがハプスブルグ系最後のスペイン王カルロス2世にちなんで付けた名であると考えられ、要するにスペイン領であった可能性が非常に高いと思うのだ。

実際問題、スペイン自身がそれほどこだわっていたとも思えないが、植民地化についてはトルデシリャス条約があり、アメリカについては基本的にスペインの管轄で、他の王がそこに特許を出すというのは、ローマ教皇、そして神聖ローマ帝国に対しても正面から喧嘩を売るようなものであった。イギリスについてはローマカトリックと袂を分かったイギリス国教会があるので、それに関して気にする必要がなかったし、そして一旦イギリス王室領となれば、そこからの権威移転はローマ教皇を気にすることなくできるという、プロテスタント的な、名義のロンダリングのような側面があったかもしれない。一方で、新たにスペインに王を送り込んだカトリック国フランスとしては、スペイン王領からの継承ならばイギリスよりも強い正当性が確保できる、という目論見があったかもしれず、そのためにわざわざカロライナという名前に変えたのかもしれない。

それを考えると、このアン女王戦争で、南方で唯一と言ってよい動きが、フランス艦隊がハバナからスペイン戦と協力してサウスカロライナのチャールズタウンに向かったというものがあるが、それはフランスと親フランスのスペイン勢力がフロリダの北の地域をカロライナと称してイギリスから取り返そうとした動きであったとも考えられる。
そして、このアン女王戦争のあとに、カロライナから南の、いわばスペイン領北フロリダとも言える地域からフランス勢力が後退し、イギリスに同化した反スペインの勢力が少しずつ浸透し、ついに元からスペイン領ではなくイギリス領であったということが既成事実化していったのだと考えられる。そこでカルロスと音の通じるチャールズ1世の時代に植民地が成立したとの話が作られたのだろう。

その反スペインと言うことで考えられるのが、セファルディムと呼ばれるイベリア半島のユダヤ人である。カトリックの強いスペインで、1492年にアルハンブラ勅令というものが出て、ユダヤ人に対してキリスト教への改宗かスペインから出ていくかが求められた。それによって隣国ポルトガルへ逃れたセファルディムも多くいたようで、一時はポルトガルの人口の15%がセファルディムだったともされる。そして、1800年時点でチャールストンにはアメリカでも最大のユダヤ人人口がいたとされる。

スペイン継承戦争の時期に戻ると、ちょうどその頃イギリスは毛織物産業を立ち上げ、フランドルやフランスからその生産地としての地位で優位に立とうとしていた。そこで役立ったのがポルトガルとの間に1703年に締結されたメシュエン条約で、これによってイギリスはポルトガルを通じたブラジルなどへの毛織物輸出が拡大し、海外に市場を確保できるようになり、それが更なる生産力の向上につながった。ポルトガルからはワイン、そしてゴールドラッシュにわくブラジルからの金が輸出された。

実はこの辺り非常に引っかかるものがあり、比較的南国であるポルトガルや、赤道直下を含むブラジルで、毛織物の需要がそれほどあったのか、という実際的な問題だ。実は、それは、ポルトガル産のワインというのが、新大陸に行って7年もすれば王室領を手に入れることができる、という話の象徴であり、それによってイギリスの荒くれ者が新大陸に渡っていったという話ではないのか、という気がする。だから、リバプールというのは、奴隷のような物だといっても、積み出したのは白人の年季奉公の者たちであり、黒人奴隷とは関係がなかったのではないかと考えられる。実際、イギリスのアフリカの植民地はギニア湾岸のガーナまで行かないとなかったわけで、しかもそれが英国領になったのは1821年、すでに奴隷取引の禁止が定められている。その点でも、イギリスは、少なくとも政府としては、アフリカ奴隷に関しては無実であるといって良いだろう。

いずれにしても、このスペイン継承戦争の結果として結ばれたユトレヒト条約において、イギリスの奴隷貿易を正当化したとされるアシエント・デ・ネグロスがスペインから認められたとされる。これは様々な点で非常に疑念が残る。イギリス政治の中心を成していたホイッグとトーリーの対立という複雑な問題がある中で、トーリーが推すジェームス1世から続くステュアート王朝の最後となったアン女王が、ちょうどこのユトレヒト条約の交渉中、1714年8月に亡くなり、後継順位一位だったゾフィーもその2ヶ月前に亡くなっていたので、ゾフィーの息子のジョージ1世が国王となっている。アシエント自体はそれに先立って13年の3月26日に、スペインとイギリス東インド会社との間で結ばれているようだ。東インド会社は、その名の通りならば東方貿易に携わっているはずで、そこはトルデシリャス条約によればポルトガルの管轄であり、それがスペインと条約を結ぶということ自体が非常に不可解。仮にその条約があったとしても、アフリカはスペインの管轄ではなく、そこから奴隷を連れてくる権利などはどう考えても認めようがない。しかも、東インド会社は、名誉改革の影響もあり、その頃きちんと動いていたかどうかも実はよくわからない。つまり、ほぼペーパーカンパニー状態だった東インド会社という名義を持ち出して、私企業としてスペインとの間に条約を結ばせ、それによって奴隷貿易を正当化したのだと考えられそう。そして、トルデシリャスに違反しないように、ブラジルという条約の線を跨いだ地を用いて迂回で奴隷貿易を行なった可能性があるのだ。いずれにしても、ブラジル以外のアメリカとアフリカがつながった奴隷貿易というのは、この1713年以降になって始まったものだと考えて良いだろう。なお、ドイツ出身だったジョージ1世は英語がわからないとされていたようだが、このような不可解な契約関係に巻き込まれたくないが故にそのように装っていた可能性がある。

これは、そのアシエントの根拠となった、スペイン王のカルロス1世がフランドル商人に奴隷貿易の許可を与えたとされる時期の話とどことなく重なる。カルロス1世はフランドル生まれで、20歳を前にして初めてスペイン入りするのだが、その直前にスペインでずっと実務を取り仕切っていた摂政が死に、その後でこの許可が出されたとされるのだ。カルロス1世はその後アメリカ原住民の待遇改善に対処しており、基本的にはそのような許可を出すような人物ではない。王のスペイン入りの前にフランドルからの近臣が先にスペイン入りしていたということで、そこが勝手に行なったことである可能性が非常に高い。それと同じようなことが、このアン女王の死んだ後にも行われた可能性がある。その場所もユトレヒトということで、やはり低地地方であった。カロライナという名も、もしかしたらこちらのカルロス1世に由来したものであるかもしれない。そして、いずれにしても、カルロス1世の許可があったとしても、トルデシリャス条約締結後である以上、その許可によってアフリカ系の奴隷取引が正当化されるということはない。アフリカ〜ブラジル間の取引は、ポルトガルの管轄であり、たとえその後にスペインとポルトガルの同君連合が成立したにしても、その王がポルトガル王の名の下で許可を出さねば、法的な正当性は認められないだろう。

細かな議論をしているといつまで経っても南北戦争までたどり着かないので、だいたいの感覚で書いてゆくと、おそらくスペイン継承戦争までは、スペイン領フロリダというのは、サウスカロライナ、あるいはカロライナ全体辺りまで広がっており、ただ、スペインには原住民から土地を奪ってプランテーションというような意図はなく、単にカトリックへの改宗を目指す、という程度の接触だったのではないかと考えられる。そこにカロライナが成立したのが、スペイン継承戦争、アン女王戦争を通じてのフランス系おそらくユグノー、そしてセファルディムの進出によるもので、その人々が、このあたりも実際の様子はもっとしっかり確認した方が良いのだろうが、タスカローラ戦争やヤマシー戦争といったカロライナでの原住民に対する残虐な行為を主導したのだろうと思われる。

これもまた議論を呼ぶ話で、きちんと別項をたててでも書いた方が良いのだろうが、今は感覚的な結論だけで、おそらく綿花の原産地というのは中南米の辺りで、インドではなかったのではないかと考えられる。だから、スペイン領では綿花、そして手工業での綿織物の生産は既になされていた可能性が高い。ただ、スペイン本土はメリノ羊という王家が管理する高級羊毛の産地だったので、それと対抗するような綿花を用いた綿織物は、産業としては成り立たなかったのだろう。そしてそれは、感覚に過ぎないが、おそらく西回りで戦国時代の頃には日本に伝来したと考えられる。鉄砲やキリスト教の伝来とほぼ同時期に綿花の中南米からの伝来があったのではないか。細かな議論は今はしない。

1739年から48年にかけてジェンキンスの耳の戦争という戦いが、スペイン領アメリカとイギリスとの間で戦われた。これについてももっと細かく調べる必要があるのだが、これはブラジルから北米への奴隷輸送ルートに関わる戦いであったとも考えられ、いずれにしても、イギリス本国が積極的に関与したものではないと見られる。とにかく、この戦いがきっかけとなって、中南米の綿花生産が北米に移植され、それが一気にイギリスに流れ込み、既存の毛織物産業に取って代わる形で次第に綿織物産業が立ち上がって、それによって産業革命への道が開かれた、ということではないだろうか。

産業革命の方から見てみると、綿糸生産用の水力紡績機が最初に使用されたのが1765年、そして69年にリチャード・アークライトによって特許取得されているので、この頃からある程度まとまった量の綿が流入しだしたのだと考えられる。つまり、北米の綿花プランテーションの成立は1750年代だったと考えてよさそう。ジョージア植民地で1749年に奴隷制禁止の撤廃がなされており、ジェンキンスの耳の戦争で勝利を収めたイギリスが、ブラジルからの奴隷ルートを確保し、その頃から一気にいわゆるアフリカ系の奴隷が北米に流れ込みだしたのであろう。

だから、奴隷や綿花のプランテーション化が進んだのは、独立のたかだか2−30年前からあり、その意味で、独立戦争自体が、綿花からの利益の取り分を確保する、という非常に経済的な要因が大きな役割を果たしていたのではないか、と考えられる。このあたりも、独立戦争をまたしっかり見ないといけないが、今は南北戦争の話なので駆け足で通り過ぎたい。いずれにしても、奴隷制度というのは、その意味でまさにアメリカという国の建国自体と非常に強い関わりがあったことになる。

結局独立戦争までしかたどり着けなかったが、今回もとりあえずはここまでとする。

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