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女神さまが鬼婆になった日(下からのコントロールをする毒親の話)

自分見つめの日々が続いている。
私が洗脳をほどこされ、なおかつその洗脳を執着として自ら掴みにいっていた「毒親問題」について、日々自分を解体している。

40歳になるあたりから始まった遅すぎる「反抗期」をきっかけに、私は母との関係性にずっと取り組んできた。しかしその頃は、身体の奥から湧き上がってくる訳のわからない情動という形での母への嫌悪感を持てあましていただけだった。

2001年発行のスーザン・フォワード著の「毒になる親」(日本での「毒親」の語源)を本屋で心惹かれて買ったのに、どうしてもそれを読むことができず、その後古本屋に持ち込んだ。あの頃の私は、自分が本当に感じていることを感じるのが怖かった。蓋をしていた。と、今ならわかる。

小学校3年生くらいだろうか、「うちのお母さんは女神さまみたいだ!」と思ったことを覚えている。「もし明日地球が終わるとしても、お母さんにひざ枕してもらっていたら、私は何も怖くない!」と思ったのも覚えている。私の母への愛と依存がどれほど深かったかがわかるエピソードだと思う。(

実際のところは、三人姉弟の長子で俗にいうおりこうさんだった私は、働いていて忙しかった母に構ってもらったことはあまりない。よ~く思い出してみると、「みかん食べる?」と聞かれて、読書していた私は「うん」と答えたはいいものの、そのまま本に没頭していたら、「頭いいか何かしらんけど、偉そうに!自分で取りにこないで持ってこいってか?」と切れられたことを覚えている。母の憎々しげな顔と言葉をよく覚えているのだけれど、当の私は、一体何が起こったのか?と謎でしかなかった。

私は今、コーチングとタッピングという手法を使って、私の奥底に沈殿していて、今の私が明るい未来に向かうのを阻害しているものを浮かび上がらせ、感情をリリースしている。これまで二十年近く、ヒプノセラピーやサイキックカウンセリング、俗にいうスピリチュアルな世界での様々なワークショップや、果ては占星術的なものまで使って取り組んできたが、それでもすっきりしきっていなかったものと本気で取り組んでいる。

私にとってのラスボスはやはり母だった。彼女は「下からのコントロール」と呼ばれる手法で、「被害者や弱者を装って子供の人生をコントロールする親」だ。わかってはいたし、ずっとそこと向き合ってきたつもりだったのだけど、ラスボスはとことん強いのだ。

母自身の生い立ちも、同情に値する毒親育ちなのだけれど、80代になってもいまだ「親のせいで私は不幸になった」と嘆き、「夫は最低だった。嫁は許せない。みんな私を大事にしない」と言い続けているこじらせさんだ。おそらく彼女は「自己愛性もしくは演技性パーソナリティー障害」という名前がつく症状だと言ってよいと思う。

母に愛されたくて、母が大好きだった私は、その「可哀想なお母さん」の相談にいつも乗り、赤ん坊がいても夜中に電話がかかってきて「助けて!」と言われたら、飛んで行っていた。いつも母を喜ばせたくて、サプライズを計画したりプレゼントを贈っていた。母が嫌うので、彼氏からのプロポーズを断ったこともある。母の望む進路に進むことに抵抗を感じて反抗したりもしてきたのだけれど、気が付いたら私は母にすり寄ってしまっていた。

それはまるで腐れ縁の恋人同士みたいだ。正確には「共依存」という。

しかし、無意識レベルで自分で封じ込めていた長年の母への怒りは、ふとしたことで母以外の人に向いて噴出することがあった。申し訳ないことに、可愛い我が子にそれを向けてしまい、私自身が毒親になっていた時期もある。それについては子ども達にも謝罪し克服したと思っていたのだが、ある日ふとした時に、新しく家族になった可愛い孫や婿さんへと吹き出しそうになったことがあった。それは私にとってものすごいショックな出来事だった。

このままでは、私は大切な家族を失ってしまう!という危機感に襲われた。母との共依存を本気で解かなければ、私は押し込めた悲しみを怒りという形で、本来ならばそれを向ける必要のない人にぶつけてしまう。

そうして、一回目の母との絶縁は1年以上に及んだ。手紙も書いた。自分自身でも色々とワークした。しかしその間に父が亡くなり、色々な状況も変わり、私は少しずつまた母との交流を取り戻す方向へとむかっていった。母は以前とは違って私に愚痴などを言うことも控えているようで、一見私たちは良好な関係性に戻ったように見えた。

しかし、その瞬間は突然やってきた。母が目の手術をするために入院することになったと、瞳をキラリンと輝かせて嬉しそうに私に伝えてきたのだった。私の誕生祝いという名目でランチをしようと言ってきていたのに、最初は私の行きたい店は値段が高いというそぶりをみせていたのに、自分が入院するということがわかったら、「美味しいモノ食べて力たくわえなきゃ!だから高い店でもいいわよ!」と、むしろワクワクしたような電話口の声だった。

その瞬間に、私に罹っていた大きな魔法が一つ解けた。頭の中でシャッターがガラガラと音をたてて降り、「このままいったら私の人生終わりだ!!」という声が響いた。

以前、骨折して3か月入院していた母は日々我儘になり、私がすぐに彼女のニーズに応えないと自己憐憫を装い、車椅子でロビーをうろうろして「私なんて死ねばいいんでしょ?!」と涙を流して周りの同情を買っていた情景が浮かんできた。目の手術をするということは、それに加えてこれから車の送り迎えなどもさせるつもりであることは明白だった。

老いた親の送り迎えは子供がするのが当たり前・・というような田舎の考えがあり、お金が有り余っていてもタクシーは使わない。世間にはそうしている優しい子供さんもたくさんいるのは知っているが、会っている間ずっと誰かの悪口や愚痴を垂れ流す母と再びべったりの関係になることは、私にとっては彼女が死ぬのを待つ人生になることと同義だ。

心の底から、そんな人生は嫌だ!!と湧き上がってきた。ここが分かれ道だと本気で思った。

そして、母と二回目の絶縁状態に入って現在9ヶ月目だ。しかし問題は、親と離れて過ごせば解決するのではない。母との共依存で私が失ったものを取り戻し、洗脳されてしまっていることから速やかに離れ、母に近づいても傷つかず影響されない自分になり、本当の意味で「自分ファースト」の生き方をできるようにならなければ、母と生きているうちに会う事は叶わない。

歪みのない無償の愛で子供を育ててきた親の子供には、多分話しても理解してもらうことは難しいだろう。それどころか、「産んでもらったのだから、年寄りだから」と、親不孝を責められるのは目に見えている。

自分の奥深くに潜んでいるさまざまなものを丁寧に拾い上げてケアするというプロセスを繰り返しているうちに、改めて毒親問題がここまで自分に深く影響を与えていたのかと戦慄を覚えた。今の私にとっては、世間の常識とか、他人の目を気にすることでこのプロセスを邪魔させるわけにはいかないと思っているのだが、それでも罪悪感はなかなか消えない。

「親に罪悪感を持つ」・・それこそが毒親の証明なのに、そこから自由になりきれない自分がもどかしかった。一説によると、これは猛毒に侵されている状態でしかないらしい。そうか。長い年月をかけて色々と取り組んではきたけれど、あまりに猛毒すぎて、私は完全に解毒されていないのだと、お腹に落とすしかないようだ。

そして昨日、多分解毒が進んできたことの証明、もしくは神様からのプレゼントととして出来事が起こった。一向に元の優しい「奴隷娘」に戻らない私にしびれをきらして、とうとう母がある出来事をきっかけに、孫である私の娘に電話で切れたのだ。その怒り方はすさまじく、私のみならず私の子ども達全員の悪口を言い放ち、電話口の当の娘にまで悪態をついたらしい。うちの娘達は幼い頃可愛がってくれたからと、祖母には割と優しく接していたのだが(私が絶縁しているあいだも)、やはり段々と愚痴や悪口が増えてくるのに嫌気がさしてきて、最近は少し疎遠だった。多分それが気に入らなくて、とうとう孫にまで爆発したのだろう。

娘は私のように傷つくことはなく、それはよかったと思っている。でも、「おばあちゃん、もう無理やわ~。もう会いにいくのやめるわ~。」という状態になってしまった。実は、これを聞いた私は一晩どよ~んと落ち込んでしまい、哀れな母をまた助けに行きたくなっていないと言えばうそになる。どこまで共依存の闇は深いのかと、自分でも驚いた。幸いにも、いつも冷静な夫と娘が、「ママはもう死ぬまで会わなくてもいいと思うよ」とまでも言ってくれるので、私は闇に飲み込まれずにいる。

本音を言うと、私は自分をしっかりと取り戻し、俯瞰した視点をもったまま又母に優しくできるようになりたいと思っている。高齢の母に残された時間を思うと、急ぎたくなる。しかし、その感覚こそが共依存らしい。無償の愛で育てられた子供は、親のことなど思い出すことはほぼないのだ。親のほうも、自分が忘れ去られているくらい、ちゃんと子供が自立していることを誇らしく思うのだ。

わかりやすいDVや暴言、上からのコントロールで支配する毒親より、下からのコントロールの毒親を手放すことの方が難しいような気がする。一見よい親もしくは普通の親にしか見えないので、子どもの方でも、親の毒に気付くことが難しいからだ。

それでも私は主張したいと思っている。毒親のコントロールから自分を取り戻すことは必須なのだ。表面的にはわからなくても、自分自身が深い所で知っている。本当の自立を果たさずに、私たちは自分が望む人生を生きることはできない。

私と母の関係性は、これから先どうなっていくのかまだわからない。しかし、このまま会わずに母の死を迎えることにまだ恐怖を持っている私に、長年私の葛藤を見てきた娘がこう言うのだ。「お祖母ちゃんのところに戻ってお世話しても、いずれママは苦しくなるし、死んだら色々後悔して泣く。お祖母ちゃんと離れたままそうなっても、やっぱり後悔して泣く。どっちにしろ、そのとき泣いて苦しくなることは変わらないから、自分が今楽で幸せにいられる方をとったほうがいいんじゃない?」と。

育てた子に教わるとはこういうことか、と納得した。昭和生まれは平成生まれににはかなわないとつくづく思う。そして令和生まれの孫までやってきて、いま私の周りは叡智と愛に満ちている。

私は「自分を一番大切にして生きる」という、子どもの頃にマスターしそこねたレッスンを着々と進めていくことを宣言します。


*書くことで自分の中に起こる気づき、癒しの恩恵を受けています。もし、この長い文章をここまで読んで下さった方がいたら感謝です。ありがとうございます。共に幸せに生きることを選択し続けましょうね!