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息子のためにやってもらった小学校のバリアフリー化が、災害時に避難所のインフラとして大いに役立った話

これは息子が小学3年生くらいの出来事だから、随分昔の話になる。

うちの息子は肢体不自由である。そのため、地元の小学校(普通学校)に入学するとき、学校内をバリアフリー化してもらった。

学校は、昭和に建てられた鉄筋コンクリート造りの校舎で、もちろん健常者向きの仕様になっている。

そこで、階段に手すりを設置してもらったり、男子トイレに洋式便器の個室を作ってもらったり、結構大がかりな工事をしてもらった。

この件に関しては、当時の校長先生と教育委員会がとても親身になって下さり、また、議会では、当時の議員さん達が、息子の入学に間に合うように・・・と、いち早く改築工事に取りかかれるように満場一致で予算の承認をして下さったのだった。皆様の温かいお気持ちに乗っかる形で、学校生活の準備をきめ細かく整えていただいた。

ちなみに、今は障害者に関する法律が整備されて(バリアフリー法など)、公的な建物は障害者でも利用しやすい構造になっているけど、当時は、こうした配慮をしていただけるのは格別なことだった。

私も夫も、自分たちが住んでいる地域の人々の厚意に心から感謝した。

皆さん、自分の子供や孫が同じ立場だったら・・・という気持ちで取り組んで下さったそうである。後々、関わって下さった方からそういう話を聞き、涙が出るほど嬉しく感じた。

◇◇◇

息子が小学校に入学したのは平成10年代なのだけど、平成になりたての頃からその頃にかけては、まだバリアフリー法なんてなくて、障害者は何処に行っても「門前払い」のような状況だった。

例えば、平成10年前後の頃の話だけど、私が赴任していた某村の学校に肢体不自由の子が入学することになり、やはり校舎のバリアフリー化を進めることになったのだけど、その件について「あんなカタワの子に、何百万円もお金をかけるなんて勿体ない。」と陰でコソコソ悪口を言う大人が何人かいた。

当時は、大正生まれがまだ多数ピンピンとご健在でいらした頃で、社会の雰囲気も、まだ昭和の感覚を引きずっていた時代だった。もちろん、昔の差別的感覚が普通に染みついている世代が、社会の大多数を占めていた訳だし、その中で先進的に障害児を受け入れるようになった学校に対して、非難の声が上がることは仕方がないことだった。

そんな時代背景がある中で、息子一人のために小学校をバリアフリーにしてもらったのである。

私たちが住んでいる町は、障害者福祉にすごく理解のある町だったので、皆さん快く協力してくださったけど、日本全国に視野を広げてみると、まだまだ差別が根強く残っているところも多い。

◇◇◇

この頃、私たちのような障害児の親は、健常者が施してくださったことに対して、「ありがとうこざいます」「ごめんなさい」「嬉しいです」「感謝しています」と、まるでホ・オポノポノみたいに呟いていなくてはいけなかった。(それが出来なくて、心が折れてやさぐれて、自然の成り行きで反政府派の思想に傾く家族も多々いるけど、私たちはそうならなかった。)

古い価値観で凝り固まっている人たちは、常に

これは「当たり前」のことでは無いのだよ。

特別なんだよ。

だから感謝しなさい。

身の程を知り、わきまえるように。

・・・と、障害を持つ人やその家族に「無言の圧力」をかけてくる。

そして、「私が言っていることは、社会の大多数の意見でもあるのだよ。」ということを、自然に振る舞いながら、さりげなく誇示する。

この無言の圧力に無理に反抗して対抗するよりは、むしろ逆に、平身低頭で「ありがとうございます」と感謝しながら生きていく方が、私たちには性に合って楽チンだったので、いつもそうしていた。

「感謝」をあえて前へ出すことで、無駄に敵を作らずに済む。長い目で見た時、その方がとても効率が良い。

だから、息子には自分らしく自由に生きていくよう、息子の天性の明るさや天真爛漫さを大事にしながら、親である私たち夫婦は、いつでも盾になって息子を守るようにしていた。

社会の空気がどうしても「無理解」だったから、自然の風のように「無言の圧力」も吹いてくる。障害者に理解のある土地でも、それでもネガティブな感情を向けてくる人も若干いる。

そんな世界だから、私たちは常に「防波堤」となって息子を守ることを心がけてきた。

そして、「感謝」の処世術で娑婆を生き抜いていた。

◇◇◇

そんな最中、息子が小学3年生の時、私たちが住んでいる町に台風が直撃し、河川の氾濫で浸水して大きな被害を被った。

この時、夫は仕事に出ていたため、私が一人で足の悪い義父母と肢体不自由の息子を抱え、避難所に向かうことになった。

浸水直前のタイミングで家族を車に乗せ、家を脱出したのだけど、この時、私の地区の避難所に指定された公民館ではなく、別の避難所(息子が通っていた小学校)に逃げることにした。

というのも、公民館は昔の古い建物でトイレは和式。洋式便器が無い上に、階段に手すりも無いし、とても足の悪い者3人を抱えては居られない・・・と判断したからだ。

近所の人に一声かけて、私たちは小学校に向かった。

◇◇◇

小学校に到着すると、最初は一階の教室に入って過ごした。

持ってきたタオルを床に敷き、差し入れの毛布にくるまれて、しばらくこの教室で休んだ。

ところが、近くの河川の堤防が決壊寸前ということで、急遽、二階の教室へ移動するように指示が出された。

この時、この教室だけでなく、他の教室も避難者でいっぱいだったけど、その半数くらいが高齢者だった。単独で逃げて来た人、家族に連れられて避難した人、いろいろだった。でも、みんな高齢なので「二階へ逃げなさい」と言われても、足の悪い人も多く、「どうしよう。困ったなぁ・・・」という雰囲気だった。

いよいよ危険が迫っている・・・ということで、腰の重いお年寄り達も立ち上がり、皆で二階の教室へ移動した。まさに大移動だった。

この時、息子のために取り付けてもらった階段の手すりに、たくさんのお年寄りが順番にしがみつき、必死になって2階へと上った。

ザワザワと人だかりができた階段で

「学校の階段に手すりがあるなんて、今、初めて知ったわ」

「いつの間に手すりがついたんや?」

「婆ちゃん、これにつかまって!」

「手すりがあって良かったわ」

「これはありがたい」

「これにつかまれば二階に行けるぞ」

・・・と、口々に呟きながら、順番にゆっくりと上っていくお年寄り達、介助のご家族。

うちの義父母も、息子の手すりにつかまって二階に移動した。

「これ、〇〇(息子の名前)のために付けてもらった手すりなんですよ」と私が言うと、義父母は「そうか。これは良いぞ。」と少し嬉しそうだった。

◇◇◇

なんとか2階に上がって教室に入ると、今度は息子が「トイレに行きたい」と言い出した。

寒いし冷えるし、確かにトイレが近くなる。

そこで、息子を連れて、階段の横にある男子トイレに行った。

このトイレもバリアフリー工事がなされていて、息子のために設置してもらった洋式便器の個室があるのだけど、私たちが行くと先客がいて、誰かが入っていた。

でも、中から声が聞こえる。

お爺ちゃんとそのお嫁さんのようだ。

嫁「爺ちゃん、良かったなぁ。洋式トイレがあったで、トイレができるよ。」

爺「本当やなぁ。良かった。助かった。」

嫁「本当にありがたいなぁ・・・。爺ちゃん、ここの手すりにつかまって。・・・」

個室の中では、お嫁さんの介助でお爺ちゃんが用を足している様子。

トイレの入り口で待ちながら、息子と「〇〇(息子の名前)のために作ってもらったトイレ、足の悪いお爺ちゃんの為に役立っているよ。良かったなぁ」と話した。

まさか息子のためにバリアフリー化してもらったことが、後々、こんなに役に立つなんて・・・夢にも思わなかったので、本当に驚いた。

でも、何だか嬉しかった。

それまでは、私たちの家族のワガママを、無理やり押し通して叶えてもらったような、変な居心地の悪さを少し感じていた。

でも、この緊急時の避難所となった学校で、息子のために作られたものが、町の人々のためになり、皆さんに大いに利用してもらえたのだ。

息子がこの学校に入学していなければ、手すりも洋式トイレもいまだに無かったのだから、それを思うと奇跡としか言い様がない。

なんだ・・・。

後ろめたさや罪悪感を感じる必要は無かったんだ。

堂々と「当たり前のこと」として受け取ってよかったのだなぁ・・・。

・・・とまぁ、そんなことを、他の皆さんの様子を見て、私は心から感じたのだった。

◇◇◇

その後、数年の後に、この校舎が新しく建て替えられることになり、その時は廊下が広く、エレベーターが完備。更に、オストメイト対応の障害者用トイレまで設置されることになった。

車椅子やストレッチャーの人でも移動がスムーズな構造になっていて、完全なバリアフリーである。

この校舎が建つ頃は、息子はとうに小学校を卒業していたので、利用することは無かったのだけど、これならどんな人でも安心して利用できるから良かった・・・と心底思った。

この校舎が建てられる際、当時、この学校に勤務していた昔の同僚が「どうしてここまでバリアフリー化しなくてはいけないのか、意味が分からない。子供しかいないのにオストメイトなんて必要なの?」と私に話したことがあった。

そこで、私は「いやいや、子供だけでなくて、非常時に避難所になるわけだから、どんな人でも安心して居られるように、こういう施設はとても大事だよ」と話し、過去の私の体験(息子のために作られて手すりとトイレが高齢者や障害者の避難者に役立った話)を伝えた。

すると、「ああ~!なるほど!そういうことかー!確かに大事なことだわ!」と、共感し理解してくれた。

私の話を聞いて、ものすごく納得してくれた同僚は、職場の他の先生方にも話してくれたとのこと。

体験した者にしかわからない世界の話なので、聞かされて「ああ~!確かにそうだ!」と多くの先生方も納得し共感してくださったようだ。

こんな小さなことでも、少し話すことで、また理解の輪が広がる。

これってすごく大事なことだとしみじみ感じた。

◇◇◇

昨日、相模原事件の裁判で「死刑」判決が出されたのを知り、いろいろな思いが心の中を巡った。

健常者と障害者が分け隔てられてきた世界に、私たちは長く生きてきたけど、平成後半から令和にかけて、人々の障害者に対する認知度が深まり、また大きく広がり、分断から融合へと世界は大きく変わりつつある。

そして、両者の間にあった境界線が、年月と共にどんどん消失しているのを感じる。

ここで必要なのは、客観性と理解。

偏った見方をせず、客観的に平等に見ていくこと。

そして、客観的な視点で「分断」の原因を見つけ、それを根気に一つ一つ取り除いていくこと。

これに取り組み続けたことで、少しずつ社会が変わっていったのだ。

そして今現在も、障害を持つ人々の社会参画によって、人々は大いに刺激を受け、社会はまた新たに変わりつつある。

それが、20年前の私たちにとっては、小学校の「階段の手すり」であり「トイレ」であったんだなぁ・・・と。

あの一歩は当時は本当に大変だったけど、とても大きな一歩だった。

その後、自分のリアルな体験を人に語り、共感者や理解者を少しずつ増やしていき、障害者の世界を知ってもらった。私たちの生き方や暮らしぶりを、隠さずオープンに見せていったことも大きかったと思う。

こんな小さな取り組みの一つ一つが、健常者と障害者の世界を繋いで融合させる大切な礎となったのだ。

それが「今」に繋がっている。

◇◇◇

私も高齢者になれば、身体に具合の悪い箇所があちこち出て、自然の流れで「障害者」となる。いつか自分もなる身だ。

あるいは、今、突然、病気で倒れたり、事故に遭ったりして、身体に障害を負うかもしれない。重度の障害になる可能性は誰にでもある。

だから、未来の自分のためにも障害があっても生きやすい社会にしておくことは、とても大切なことだと思う。

決して無駄なことでは無い。

命がある限り、精一杯生きなければならないのだから。

最後までしっかり生き抜くために、たとえ障害があっても、明るく生きていけるような社会にしておく、システムを改善しておく、そういう社会を築いておく・・・。

ただ、それだけのことなんだけど、それがなかなか困難だったのが過去の時代。でも、新しいこの令和の時代には、それらが当たり前に出来ているといいなぁ・・・と思った。

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