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ノア監督に聞いてみたいこと

「誰かが僕のイスに座り、そして僕の眠りを破壊する そして、生きていることに気付かされる」

~ノア・バームバック監督作品『マリッジ・ストーリー』より~
(画像:https://natalie.mu/eiga/gallery/news/364818/1321280 『映画ナタリー』)

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物語の終盤、主人公の男性が歌うシーンの歌詞の引用であるが、まさしくこの映画を要約している。

ちなみに歌の元ネタであるミュージカル『カンパニー』も動画にて鑑賞したが、現代人の結婚・恋愛観がテーマとなる面白い作品だった。

さて『マリッジ・ストーリー』に話を戻す。本作は、舞台監督の夫と俳優の妻、ひとつの夫婦が結婚を解消しようと思い始めたところから、実際に解消するまでを追った物語だ。

主に我が子の親権を巡って法的手続きを取り進めていくなかで、ときに弁護士を介しながら、ときに直接ぶつかりながら互いに気づくのは、相手の仕草や欠点までを、きめ細やかに愛していたということだ。
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(※本記事は映画『マリッジ・ストーリー』の内容について言及したものとなります。映画を未鑑賞で「ネタバレ」を避けたいという方は以下読み進めず、今後UPする他のnoteをご覧くだされば幸いです。)

2019年12月からNetflixで配信されているので、既にたくさんの感想や論評が存在するが、今回は私が個人的に監督に質問してみたいことを二つ挙げたい。前置きするが、下記の質問は両方ともポジかネガかで言ったら、後者である。
しかし、この作品が大好きだからこそ、敢えて聞きたいという次第である。

平等に描いているように見えて、夫側の思いが強く残ってしまう:

物語の後半の方で、妻側に就いている弁護士が男女関係においての女性側の立場を、聖書から根付いた価値観だとして、論ずるシーン。
この弁護士の人となりが最大限に発揮される場面でもあるし、妻側の立場が一気にまとめ上げられるような役割を果たしているいいシーン(何より弁護士役のローラ・ダーンの演技が良い)なのだが、このような選挙演説風の「女性の声の代弁」場面を作るのは、映画全体のテイストと比較すると、少し表現が直接的すぎるのではないだろうか。
直接的にしないと妻側の視点が語りきれないのというであれば、私たち観客側の観賞力が欠けていると思われている、もしくはジェンダー観の考察が鈍いと思われているということなので、一概に演出上の責任ではないのかもしれないが・・・。
それにしても、夫側は、言葉よりも状況で描写している場面が目立つから尚更、観客は夫の思いこそ汲み取ろうとしてしまう節もあって、少々厄介ではないだろうか?
(監督自身の離婚に対する懺悔を込めた映画だという評もあるので、そういった意味では必然かもしれない。)

もし、今後の人生で監督に直接インタビューできる機会が奇跡的に訪れたとしたら、聞いてみたい。

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(画像:https://natalie.mu/eiga/news/364818 『映画ナタリー』)
スカーレット・ヨハンソン演じる俳優である妻(右)と、 ローラ・ダン演じるその弁護士(左)

子どもは誰の「もの」? :

最後の方のシーンで、息子が手紙を朗読するところは、息子の成長(きっと自分で一生懸命練習したんだなと思わせるシーンだから、子どもの自律≒子どもは物ではない)という意味付けにもなっているとは思うのだが、にしても劇中の、息子の個としての存在が薄いのではないだろうか。
夫婦は子の親である以前に個人と個人であるという現代的価値観と、これは夫婦の物語であるから脇は抑えめな描写に、という演出上の意図ということもあるかもしれないが、であれば、3人の弁護士などのキャラがそれぞれ立っている分疑問が湧くし、そうでないなら、息子の年齢の設定をもう少し低くした方が良かったのではないかとも思った。

個人差は勿論あれど8歳って、大人のあらゆる面を、無意識に敏感に感じ取ってしまう時期だと思うのだ。

ここも、ノア監督に直接聞いてみたい。

おわりに:

以上、なんやかんやとめんどくさい指摘をしてみた。
しかしこの映画を何度も見て泣いて、20代独身、まだ自分自身のことばかり考えている私は、人を愛することそのものについて、少しだけ詳しくなった気がする。
私は今後大切な人と、劇中夫が酒場で歌うあの歌詞みたいな、字面にするととてもおかしな妥協を互いに許せる間柄になれたら、それは愛に近しいのだと、結論づけるかもしれない。

実生活の中で検証してみる必要は大いにあるが、そういうことな気がした。

皆さんは『マリッジ・ストーリー』を見て、何を感じましたか?





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