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松山が好きである。

 ――まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている。

 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の冒頭である。

 私はこの一説がいたく好きだ。

 2009年から2011年にNHK大河ドラマの特別編として放映されたドラマ『坂の上の雲』でも毎話の冒頭に渡辺謙さんのナレーションが入った。

「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている」

 このナレーションを聞くだけで、あらゆる痛みを乗り越えながらも世界の一員になるべく希望に向かってひた走る日本の姿が想像でき、高揚感に胸がいっぱいになった。

 ところで私は、「3日休みがあるからどこか国内旅行に行ってきて良い」と言われたら、必ず行くだろう町がある。伊予の国。愛媛県松山である。

 この町には何度か訪れているが、好きなものが多すぎて全然まわりきれる気がしない。

 松山はあらゆるものがコンパクトにまとまった町で、車がなくても不自由なく観光することができる。

 松山空港からタクシーやバスを使っておよそ20分ほどで市内の中心部まで行くことができる。市内の移動は路面電車、いわゆるちんちん電車が頻繁に走っており、価格も距離に関係なく200円とわかりやすい。このちんちん電車に乗って20分もあれば道後温泉につく。

 私は旅行における「移動」というものがあまり好きではない。乗り物酔いがひどい体質も関係するが、性根が引きこもりなので長時間の移動を要するのであればもはや行きたくないと思ってしまうのだ。その目的地がどんなに魅力的であっても。

 その点、松山はすごい。松山駅のそばには松山城(本丸・二の丸)、県立美術館、坂の上の雲ミュージアム、萬翠荘、道後の方に行けば道後温泉、坊っちゃんからくり時計、子規博物館、、、と盛り沢山である。

 もちろん、ただコンパクトで観光しやすいから良いわけではない。

 私の思う松山のいいところは他に3つあって、1つが文化、もう1つが生活感、そしてもう1つが人懐っこさである。

 1つ目の松山の文化といえば、正岡子規を「のぼさん」と親しみをこめて呼ぶほどに根付いている俳句文化である。観光しているといたるところに「投句箱」を見つけることができる。いつでもできあがった俳句を投句することができるのだ。観光していいると、なんだか一句詠まないといけないような気がしてきて、知らず知らずのうちに指を折っている自分がいる。

 そして俳句は作るだけではなく、否応なしに読まされる。町のいたるところに子規の俳句や、何かの受賞作の俳句、俳句でなくともメッセージのような短文、店主が作った句、、、どこを見ても必ず目に入る。もはや読まないで観光する方が不可能に近い。

 歩いていると現地の生活感を感じることもできる。

 観光をする時に私が知りたいのは、「この町に暮らす人達はどこで買い物をしているのだろう?」ということ。現地の人にとってはおせっかい極まりないとは思うが、現地の人の生活を感じるとやけにテンションがあがるのだ。反対に明らかに観光地化されて生活感がほとんどないような町は奇妙に思って敬遠してしまう。

 松山は、観光地化されきっていない感じがとてもいい。

 松山城に行けば、近隣住民の方がウォーキングしているのを何人も見かける。ちんちん電車に乗れば、行き先はあっているかソワソワしている自分が恥ずかしくなるくらいみんな平然と乗り慣れている。チェーン店よりも個人営業店が多く、行きつけのお客さんが店主と親しく話している。

 当たり前なのであるが、「ここに人が住んでいるんだなぁ」と思う。私達はこの町に遊びに来たのではなく、現地の人に町をほんの少し貸してもらっている、そんな気持ちになる。

 そしてその現地の方々が、どうも人懐っこい気がする。

 11月に旅行したときの話であるが、松山空港から松山城までタクシーに乗ると、運転手さんがひとりでに話し始めた。コロナのときはいかに大変だったか、自分の仲間が今どうしているか、観光客が増えて人手不足がいかに深刻か、聞いてもいないのにずうっと話してくれた。

 そのときは「おしゃべり好きで可愛いおじさんだったなぁ」程度であったが、松山城に行くと、ウォーキングしているおばさまに話しかけられる。松山城の天守閣は格別だ、今日はいい天気だから、あなたはとても良い日に来たね、と。

 そうなんだ、よかったなぁと思って天守閣に上って降りてくると、今度は係の人が話しかけてくる。松山城はこんなに複雑に建てられた難攻不落の城だけど、江戸時代に作られたから一度も戦を経験していない、だから弾痕も弓あともない、破損も少ない。第二次世界大戦で焼けなかった城は四国には他には、えーっと、待ってね……と頼んでいないのに資料を探して教えてくれる。

 じゃあ今度は他の城も見に行きたいなぁと思いながらお土産屋さんでポストカードを買うと、店員さんが話しかけてくる。「紅まどんな」というみかんを知っている? あれは愛媛以外ではなかなか手に入らないんだけど、まるでゼリーみたいで本当においしいから見かけたら買ってみて。僕もこの前はじめて食べてビックリしたよ、と言う。

 そんなみかんがあるのか、と思いつつ、ふと可笑しく思って、「ここには置いてないんですか?」と聞いてみた。

「あはは。ないよ〜。スーパーとか百貨店さんにあるかなぁ?」

 お店の利益にならないものを勧めてくれることが可笑しくて楽しくてたまらない。

 さっそく伊予鉄松山駅にある「いよてつ高島屋」に行って「紅まどんな」を買う。1個700円! なかなか高いが、せっかく勧めてもらったのだから買うしかない。(帰って食べてみたら驚くほど絶品だった。もっと買えばよかった)

 その後、道後温泉の旅館で夕飯を食べていると、旅館のスタッフさんが「道後温泉本館は行きましたか?」と訪ねてくる。あそこは今は耐震工事中だけど中の温泉は入れる、でも本当は建物がとても素晴らしいから、ぜひ工事が終わったらまた見に来てほしい、と。

 そりゃもう、工事が終わったら必ずまた来よう、と思いつつ、この日一日、いかに現地の方に話しかけてもらったかを思い返していた。ここに書ききれない小さな会話も含めたら、行く先全てで誰かに話しかけられている。

 なんとも人懐っこい町だろう、と思う。

 なにより良いのは、誰もが自分の利益のために話しかけていない、ということだ。

 観光地に行くと辟易するのが、呼び込みや売り込みに話しかけられることである。

 観光地で話しかけられるのは苦手である。商売だ! 客が来た! 金を落としていけ! と急かされているようで、非現実を味わいたくて来ているのに現実に引き戻される気がする。しかし松山にはそれがない。みんなただ人懐っこく、利益など関係なく、ただこの町が好きで、来てくれて嬉しいと伝えたくて、楽しんでほしくて、話しかけてくれるのだ。

 今の松山の町を作ったのは歴史上の人物であり、時間であり、土地である。でもそれはただの入れ物のようなものに過ぎないと思う。無機質なジオラマと同じで、形はあるが魅力はない。町の中身、魅力の大部分を担っているのは、現地の人々なのだ。

 松山の町を歩いていると、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の一説が何度も頭をよぎる。

 まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている。

 咲いた花よりも、咲こうと空に向かう花の方が魅力的だと思う。

 松山はまさに、開花期を迎えようとしている町なのだと思う。今も、昔も。そして願わくばきっと、これからも。

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