安楽死合法化を主張する人は、本当は「人には『死ぬ義務』がある」と言うことが言いたいのではないかという話
安楽死議論でよく言われる批判は、「安楽死の対象が終末期から最終的には『社会の役に立たない人間』に広がっていく」という批判があるのですが、
まさに、その「社会の役に立たない人間」には「死ぬ義務」があるのではないということが大真面目に生命論理学の一部では問われています。
「社会の役に立たない人間」と書いたのですが、生命論理学ではもっと狭い範囲で「終末期の患者や老人は、家族の負担や社会的要因から延命のための治療を拒否」する義務があると提議されています。
安楽死自体は死ぬ手段に過ぎないわけで、おそらく上のポストで言う「安楽死」というのは「人間には生命論理学のというところの『死ぬ義務』がある」ということを言いたいのだと思いますが「死ぬ義務」を提唱した、アメリカの生命倫理学者、ジョン・ハードウィッグはこのように述べています。
また、1980年代のコロラド州知事のリチャード・D・ラムは「医療資源やコストを無限に増やし続けることは不可能である」と指摘し、「何らかの形で、資源の割り当てのあり方に制限が設けられなければ社会全体が破綻してしまう」と指摘しています。
確かに、現状の無尽蔵に膨張を続ける医療費をみたら一定の説得力のある主張ですし、くだんのハードウィックもこのように述べています。
「老人の命のために、子や孫を犠牲することは許されるのか」という、趣旨の発言のはまるで今の日本の社会保障を巡る議論をみているように思えてきませんか?
さて、仮に人的・資金的制約など様々な制約から「医療資源はこれ以上増やせない」となれば、医療資源は「ある種の配給制にしよう」となるでしょう。
となると、当然若い人に手厚く、高齢者には手薄くなると言うことになるでしょうが、そうなれば、高齢者に対して高額な医療が制限されると考えるのが自然な考えだと思いますし、そうなれば終末期の病気にかかった高齢者に対しては、十分な医療ケアが提供されず、結果として患者は苦痛に耐える事になります。
となると、「合理的な自己利益を最大化する選択として、幇助自殺や安楽死が選ばれることになるのではないか」ということを米国の哲学者マーガレット・バッティンは、指摘していますし、私もその意見には一定の共感をせざるを得ないわけです。
しかし、「死ぬ義務」と言われても「誰が死ぬ義務のある人間なんだ」というのはまず思い浮かぶでしょうし、そもそものハードウィッグの論考からして、「老人介護に十分な金をだせる裕福な家庭の人間であれば、『死ぬ義務』はこれほど深刻なかたちで生じることはないだろう」という含意をもって議論をしている節があります。
みなさんも大山のぶ代さんやピーコさんが亡くなられたことは記憶に新しいかと思いますが、お二人とも大山さんなら砂川啓介さんとか、ピーコさんならおすぎさんといった同世代のパートナーしか身寄りがおらず、自ずと老老介護の状況に追いやられましたが、結局老人施設に入れるという決断をされていますが、二組の方とも芸能界で大変な成功を収められた方だから出来たこともあると思われます。
老老介護は「共倒れ」が起こりやすいとかとは言われていますし、くだんの大山さんだって認知症で施設に入れてから10年間も介護をし続けていたわけですし、長年の終わりの見えない介護は、いくら社会保障を充実させたとしても、財政的にも精神的にも疲弊させることは想像に難しくなく、そのような疲弊しきってしまった人に向かって「死ぬ義務は残酷だ」といえる人がどれだけ居るのでしょうか。
若い世代が「死ぬ義務」に思いをはせるのは、今の時代が「成り上がり」が難しい「ホープレス」な社会であると言うことがいえるのだろうとおもいますが、老人福祉がもはや限界に近づいてきてるのもまた事実です。
おおっぴらに「死ぬ義務」について何らかの社会的コンセンサスを得ることはおそらく無理だろうし、いくら自民党の自滅があれど、立憲民主党のような老人にしかメリットのある主張しない政党が支持を伸ばしていることをみると、そもそも社会として議論すること自体できるものではないでしょうし、個人としてもどうあるべきかと言うことを冷静に考えれば考えるほど難しくわけがわからなくなる議論でもあります。
しかし、それでも「死ぬ義務」という概念というものを頭の片隅に置いておく必要はあるのではないでしょうか。