性行為をするという事について

最近、性行為について考えることが増えた。

これは私自身が、彼との行為に以前のような気持ちで向き合えなくなってからだ。
「慣れ」とか「飽き」とは全く別の理由である。

「本能」と言うものを差し置いても、人々が性行為をする場面はある。それは何故なのか。

この答えに近づけたと思ったのは、村上春樹の「ノルウェイの森」の一文を読んだ時だった。

「我々はお互いの不完全な体を触れ合わせることでしか語ることのできないことを語り合ってるだけなんだ。」

ハッとさせられた。

人と人が、どれだけ言葉を交わそうと、どれだけの時間を共に過ごそうと、自分は自分でしか居られない。これは誰に対しても等しくそうである。だからこそ相手を理解したいと思う。
何か足りない部分を、肌と肌を合わせることで
埋めようとする。
これこそが、本能とは別に、人間の精神だけをすくい上げた時に人を性行為に導くものだと思う。

少し前まで、私は彼に対して「彼は私の一部のような存在」という感覚を持っていた。
しかしある時、本当に急に、「彼は彼であり、それ以上でもそれ以下でもなく、分かり合うなんてことは後にも先にもない。」と言う感覚が芽を出した。

これは、ネガティブな意味ではなかった。
「分かり合う」という「共有」に近い感覚が、「理解」という「許し」に変わったのだ。

しかし、性行為とは「理解」や「許し」よりもっと深く、「共有」と言う感覚でしか意味を成さない。相手を他人と思う事ができないないような、そんな希望が無ければ意味を成さないのだ。

少なくとも、私の中では。

精神だけをすくい上げることが出来なくなり、
彼との性行為は、「ただの性行為」になってしまった。それでもいいじゃないか、とも思った。
しかし彼をよく知って、理解しているからこそ
私にはそうする事が出来なかった。行為をしている時だけ、私達はお互いに遠くなっている感覚に陥る。今の二人に不必要だと感じながらも、以前のような感覚を取り戻せるように、今を逃さないように、を繰り返しまた遠くなる。

ひとつになる事が選択肢から排除されたとき、
「そういう意味をもつ行為」をする必要が無くなったのだ。
自分の気持ちを全て差し出せない相手と、
性行為で何を分かり合えるというのか。

彼のことは勿論愛している。
理解しようとするのも、それによって少しの諦めが生まれるのも、全て大切な存在だからだ。
だからこの状況は、恋人同士に置いては欠落なのかもしれない。
しかし、今少しずつ変わり始めている何かが、
時間を経て具体的な形になるまで、良いも悪いも分からないのだ。
そして私には、「それ」を待つより方法はない。

illionの「BANKA」の歌詞に、

「声で交わすよりも手を握る方が分かることがあるよ。だから僕らはその手を離すの。お喋りが好きなの。」

という部分がある。


時に、近づく ということは破滅を感じさせる。
人々は自己と向き合い、他人との距離を意識しながら生きていく。
適切な距離と言うのは、刻一刻と変化していく。


その距離に戸惑ったり、悩んだり、絶望したりしたとしても、その中に温もりがある事を信じて、私は自分を生きていきたいと思う。
そして、その過程で思わぬ何かに出会えたら、
こうして言葉に残していきたい。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?