見出し画像

#001【B面】



 僕のことを”春人くん”と呼ぶ7個年上のその人は、桜と書いて”はる”と読む、7歳年上のお姉さん。高校生になって、人生で初めてできた彼女の真桜まおも、僕のことをそう呼んだ。

 元カノを引きずったままでいることで、全てがうまくいかないような気になってしまって、気を紛らわすために出会い系アプリをインストールしたのだった。年齢が若ければ若いほど、ストライクゾーンの狭い人が多いイメージで、小さなきっかけで幻滅されてしまいそうだから、なるべく面倒見のよさそうなお姉さんを選んだ。

 待ち合わせ場所で初めて会った彼女は、童顔で、実年齢よりも若く見える。涼しげなラムネ色のワンピースがよく似合っていた。



 近くのカフェに入ることになって、通された二人掛けのテーブルに向かい合って座る。彼女はナポリタンとホットコーヒーを、僕はオムライスとアイスカフェラテを注文した。いつかのデートでカフェに入ったときに、真桜が注文していたメニューだ。

 僕の話をうなずきながら聞いてくれた。彼女も同じ犬派で、妹がひとり、好きなフルーツは梨。スポーツは苦手。動物園は、爬虫類コーナーの暗がりがお気に入りらしかった。「蛇柄の小物は持たないけど、動物園デートはできないね」と笑った。久々に聞いた”デート”という響きに、胸が高鳴る。彼女とはまた会えるのだろうか。

 恋愛の話になって自然と、過去を思い出すことになった。まだ、胸の奥でチクリと刺す痛みがあるのを感じて、僕の中から真桜が消えていないことで心が静かになる。目の前の彼女に、この痛みを溶かしてもらえるんじゃないかと、少し期待をしてしまう。
 少し重たくなった空気を感じて、顔を見ることができない。おかわりを尋ねられたけれど、「いらない。」と、わざとぶっきらぼうにタメ口で答える。「まだ、帰りたくない…です。」伝票を持って立ち上がった彼女が、少し驚いた表情を見せ、すぐ後に眉尻を下げた。



 困らせてしまった。でも、拒否する様子もなかった。顔を見られないように、彼女よりも先に歩き出す。彼女がいなくなっても気づかない。コンビニが目に入って、彼女がいるかを確かめるために振り返る。彼女の眉は、会ったときと同じきれいに伸びている。本当は好きじゃなかったけれど、「これ飲みたい。」と言ってビールを2本買ってもらう。外に出ると、プルトップを押し上げて1本を彼女に渡す。「乾杯。」というと、彼女もそれに応じてくれて、今度は並んで歩きだす。頭一つ以上違う彼女の身長はいくつだろう。

 行きたくない飲み会で「わたしなら、元カノのこと忘れさせてあげられるよ。」と、知らない先輩に誘われていわれるがまま入ったホテル。男女が入り乱れて乾杯して、隣に座った人と手を繋ぐのに、机の下では違う男と足を絡めるような飲み会に行く人のことなんて、ちっとも信用できない。初めてのラブホテルの思い出がそんなつまらないもので、童貞は名前も知らない先輩によって奪われた。真桜のことは忘れられなかったけど、20歳までに童貞卒業できてよかったのかも。大切にする必要もなさそうな思い出を上書きしようとしていた。きょうも、この部屋にはあの時と同じ消毒の匂い。

 彼女が「子供は、お酒飲んだらいけないんだよ。成長にも悪いよ。」と、僕を咎めるので、身長を答えたら「そういうことじゃないんだよなぁ。」と笑われた。身体的な特徴の話をしているのではないことくらい、僕にもわかる。情けなくも、セックスは断られてしまった。タメ口も彼女には無理していることがばれていたに違いない。ダサいなぁ。
 少しだけ気を張って無理して飲んだビールのせいで、酔いが回って体が火照っていた。彼女の冷えて指先を顔に当てると心地よくて、目を閉じるとそのまま眠ってしまった。



 窓のない部屋の中では、時間の感覚が曖昧になる。目が覚めると彼女がいなくなっていて、センターテーブルの上に置かれた小さなメモ用紙を見つける。
 ”きょうは、ありがとう。急用ができてしまって、先に帰ります。ごめんなさい。元気でね。”整った字で、短いメッセージが添えられていた。隅にプリントされた花には、ミヤコワスレと名前がついている。真桜が、どんな花にも花言葉があると言っていたことを思い出して、検索欄にミヤコワスレと打ち込む。彼女のやさしさと、残酷さに小さく失望して、くしゃりと丸めた。乱れることのなかったシーツ、水滴ひとつないシャワールーム、未開封のコンドーム、全てがみじめに見えた。ムスクの香りが残っていて、ほんの少し切なくなった。

 わざとティッシュを数枚抜き出して丸めて、ごみ箱に投げ入れると、部屋を後にした。



この記事が参加している募集

わたしのペースで、のんびり頑張ります。よかったら応援もよろしくお願いします。