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【短編エピソード②】愛する者に捨てられる瞬間

【モスクワ(ヴァラビヨーヴィ丘)】


「私はいまのお仕事を辞めてもいいのよ」ミレアの瞳には肯定的な返事を期待するものが宿っていた。「後はあなたの決心しだい」

「決心?」質問しなくともミレアの言わんとしていることはリュドミール・ステパノフにも理解できた。「それは妻子と別れきみと結婚しろということなのか」

「私が宇宙の果てにまで飛ばされた方がいい?」

  リュドミールはミレアの問いには答えず遠目に映るクレムリン宮殿の寺院を眺めた。モスクワの上空を覆うどんよりとした雲の壁は何かを象徴しているようだ。

『この女は利用価値がなくなった…』

  調整官というポストにいるからこそ中央とのパイプを活用できるのであって、ラザフォードの高等弁務官に転任してしまえば何の利益ももたらさない。

「きみはもう少し自分の将来を見据えるべきだよ。中央政府の官僚として先があるのだから一時的な感情に流されるべきじゃない」

「あなたに会えなくなるのが耐えられないのよ」ミレアは悲壮な表情で迫った。「だから…」

「結婚という言葉は口にしないというのがきみと私の約束事じゃなかったのかな。そうであればこそ良好な関係がいままで続いた…そうは思わないか」

  もうウンザリだ、とリュドミールは思わざるえなかった。

  中央政府に対する政治工作を担がされ、いわゆる「理想的な恋人」とかいうのを演じることで目前の女を籠絡してきたが、ミレアの転属話はその政治工作を打ち切る絶好のタイミングであった。

  異性を武器として目的を成し遂げる…遥か昔からロシア人が得意とした必殺技だ。

「私が遠くに飛ばされるのを何とも思っていないの? もう会えなくなるのよ」

「きみのように才能のある女性は中央でこそ本領が発揮できる。だから辺境星系に異動させられるのは酷な話だと思う。しかし私もきみもどうしようもあるまい」話を切り出す絶好の機会をリュド-ルはめざとく捕らえた。「こういう関係は長続きするものじゃない。今回の異動は二人の関係を終わらせるべきだという神の啓示じゃないのかな」

  遠慮のない関係終了のほのめかしにミレアは信じられない思いで呆然となった。

「ねえ…何とも思わないの? 私たち真剣に愛し合ってきたじゃない…」

「美しい想いを抱いたまま終わらせた方がいい。これ以上はお互いが傷つくだけだ」

  リュドミールは顔を横に向けミレアから視線をそらせた。

  ヴァラビヨーヴィ丘は新婚カップルがよく訪れることでも有名な場所である。事実この瞬間にもいましがた式をあげてきたと思わしき男女が結婚式の礼装のまま友人らしき取り巻きと集団を形成していた。シャンパンのコルクを抜く音。二人の門出を祝う祝辞。

「私たちが関係を初めたときに結婚は口にしないという約束をしたのはいまでも覚えているわ。私が無理なお願いをしていることもわかっている。でも…私の気持ちだって汲み取って欲しいのよ」

「私に妻子がいることもわかっているはずだね」リュドミールは新婚集団に目を向けたままであった。いずれにせよミレアには流刑人事で辺境惑星に赴任してもらうしかあるまい。結婚という選択肢は彼にとっては問題外であった。「そろそろ夢から目を覚まして現実を直視すべきときじゃないのかな」

  このときになってはじめてミレアは想い人の様子がいつもと異なるのを悟った。

「…まるで別人を見ているようだわ」

「きみが有りもしない幻影を見ていただけだろう。都合のいいことしか目に入っていないから全体が見えなくなる。もう少し人生経験を積むべきだね」彼はミレアに視線をもどした。「州軍の会議があるので私は失礼するよ。今度時間があるときにゆっくり話そう」

  それはもう二度と会うことはないという宣言でもあった。

  リュドミールはミレアの返事を待つことなくその場から歩き出す。

「待って!」ミレアはあわててリュドミールの袖を掴んだ。「私…あなたのために何でもしたわ。このままじゃ…あまりにも惨めじゃない」

  ミレアは悲痛な声で想い人に訴えかけた。しかしそれに応じたのは冷ややかな視線だけでまるで身も知らぬ者が袖を掴んで通行の邪魔をしているような態度であった。

「私のため…? 人は自分自身を愛する以上に他人を愛することはできない。すべての愛はつきつめれば自己愛だ。きみが私のためと言っていることはきみ自身のために他ならない」

  リュドミールは確固たる意思で袖を掴むミレアの手をふりほどいた。

「私たち…」ミレアは絶望の眼差しでその場に立ちつくした。「…いったい何だったの?」

  二、三歩進んでからリュドミールは振り返り「ミリィ」と愛称で呼びかけた。愛称で呼びかけるのはこれが最後になるだろうと思いながら。「きみは少し子供だぞ」


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