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【短編エピソード③】地下鉄車両で泣く女

【モスクワ(ソコリニチェスカヤ線の地下鉄内)】


 もっと早く気づくべきだった、とミレアは思う。

『私は愛されていたのではなく利用されていただけ…』

 もっと早く気づくべきだった。

 瞳から溢れだした涙は頬を伝わりポタポタと上着に滴り落ちる。地下鉄車輌のなかで衆目があるのはわかっていたが嗚咽をとめることができない。

 通路を隔てて対面のシートに座っていたモスクワ大学の学生は人前で涙と嗚咽を隠そうとしない女に好奇心の視線を無遠慮に浴びせてくる。いや周囲にいた者は皆そうであった。

 結局のところリュドミールが自分に近寄ってきたのは女性として感心があったのではなく調整官という役職を利用するためなのだ。

 シベリア開発の予算獲得のために中央政府への口利きをほのめかされた時点でそれを悟るべきであった。恋に盲目となり周りが目に見えない状態となっていたのだ。

『いえ…私は本当は気づいていたのよ。ただそれを認めるのが恐くて目をそらせていただけ…』

 破綻を少しでも先延ばしすべく無理に無理を重ね、不正行為にまで手を染め、そして得られたものといえば傷ついた心と辺境惑星への異動内示だけであった。

 ハンカチで涙を拭うが瞳からとめどなく溢れ出てくる。

「クロポトキンスカヤ!」クロポトキン駅のホームに一時停車した車輌内にアナウンスが流れる。「スレドーユシシャヤ スタンツィア アルバーツカヤ(次の駅はアルバート駅です)」

 下車する者も乗車する者も地下鉄車輌内で涙を流すミレアに一度は視線を向けざるえなかった。

『悲しみ以外に何も感じられない。私はどうすればいいの…』

 いつかはこういう日が訪れるのではないかと心の片隅では無意識のうちに考えていたが、やはり実際に訪れてみるとその痛みは想像を絶するものがあった。

 不倫の末路とはこういうものなのかもしれない。

「お嬢さん」クロポトキン駅で乗車しミレアの隣りに腰かけたロシア正教会の神父が声をかけてくる。「すべては時の流れが解決しますよ」



 悲しみは麻薬と同じで感覚を麻痺させるという。

「リュドミール…あなたの本当の気持ちが知りたいの」

 相手側が留守電になっていたのでミレアはメッセージを吹き込んだ。

「私のことを本当に愛してくれていたのか。あるいは私を利用していただけなのか…どうしても知りたいの。だからといってこれ以上つきまとう気は毛頭ないわ。高等弁務官就任の内示を承諾したからもうあなたとお会いすることは二度とないでしょうから。でもあなたの本心がうやむやのままで地球を離れるのは耐えられない。どんな辛い言葉でも構わないから本心を聞かせて頂戴」

 ヴィジュアルフォンを切るとミレアは窓際に近寄って夜景を眺めた。しかし夜景よりも光の反射具合で窓に映る自身の顔が目に入ってくる。泣き崩れた顔と乱れた髪。酷い顔だと思う。

 涙が枯れ果てると悲しみのあまり他の感情が何も感じられなかった。悲しみが麻薬だというのは嘘ではない。

 無感覚で夜景を眺めながらあともう少しでこの街を離れなければいけないのかと思う。モスクワという街を彼女は結構気にいっていた。

 故郷ストックホルムとは多少趣は異なるが他にはないロシア独特の風土にミレアは限りなく愛着を抱いていた。

『宇宙の果てにだって人生はある…』

 絶望のなかに見いだしたのは自分の過去を誰も知らない場所で人生をやり直そうというものである。

 だがそのためには良きにつけ悪きにつけリュドミールへの想いを断ち切るしかなかった。


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