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わたしのこと。【大学時代 概要編】

こんばんは、エリーです。
ただいま、自分史振り返りの途中です。
よろしければご覧ください。

【わたしのこと】つづき。

・大学時代
完全に典型的かつ残念なパターンそのものなのだが、大学受験で燃え尽きてしまったわたしは、夢にまでみたフランス語を勉強をするために大学に入ったにもかかわらず、完全に学習意欲を失っていた。入学と同時にPCを買い与えてもらい、オタ活(今なら推し活)にハマったのもあり、また高校時代から大学に入って必ずやろうと決意していたフラメンコを始めたのもあり、とにかく勉強以外の楽しいこと、誘惑が多すぎたのである。
高校時代にベルばらに出会い、オスカルに惚れ込み「いつかどこかの道すがらでばったりオスカルさまに出逢ったら、こちらがフランス語を話せなければ想いを伝えられないじゃない!」という、若気の至りにしたって意味不明な動機で、大学にはフランス語を習得に行こう、と高2くらいのどこかのタイミングで決意し、特に情報収集などすることもなく「フランス語を学べる大学のうち、日本で一番レベルの高い大学に行こう。そして交換留学でパリの大学に留学しよう」と心に決め、その決意に寸分も違わず東京外国語大学のフランス語専攻に入学した。
夢にまでみたフランス語の授業は、それなりに楽しかった。入学するまで「トレビアン」がイタリア語だと思っていたほどフランス語にまるで無知だったが(だってオスカルさまは日本語で話してるし・・)、昔から音を真似するのが得意なので、当初こそ家で音読していて親にも「英語訛りのフランス語だね・・」などと言われていたものの、程なくフランス語発音をマスターし、今は亡き工藤先生の授業で二ページほどの音読を披露した際には「素晴らしいですね」の一言をいただき、(わたしの発音が素晴らしすぎて)クラス中がざわついたのは良き思い出である。

高校の時に文実のリーダーをやったと書いたが、当時はなんでも経験、チャレンジをしてみたいと常に思っていたので、二年生の時には語劇に参加し、どういうわけかヒロイン役をやることになった。語劇とは何かというと、毎年十一月に一週間ほど開催される文化祭=外語祭において、26言語(当時)のすべての語科の二年生は、自分の専攻後の言語で劇をやるという伝統があるのである。(ちなみに外語祭名物の料理店は、すべての語科の一年生がそれぞれ力を合わせて出店している。)
別に演劇経験があったわけでも、別段顔が可愛かったわけでもないのだが、そもそも演者として参加したいメンバー自体が限られていたので、その中からまだヒロインとして耐えられると判断されて選ばれたのではないかと思う。元来目立ちたがりのわたしは、主役をやれてとても嬉しかったし張り切っていたのだが、この大役は当初想像していたよりもずっと過酷だった。正確にはうろ覚えだが、軽く数百あるフランス語のセリフを、劇中二時間くらいほぼぶっ通しで演技しながら喋り続けるのである。今思い出しても目が回るほどのセリフ量だった。余談だが、昨年の天海さんの舞台【レイディマクベス】で、あまりにセリフ量の多いレイディを目の当たりにして、ちょうど季節も手伝って十数年ぶりにあの語劇をまざまざと思い出してしまった・・のも良い思い出である。
さて、母語ですらしんどいセリフ量を、学び始めてまだ一年半ほどの言葉で、しかもそこにやったこともない「演技をする」が加わり、実質の稽古期間は夏頃〜五ヶ月ほどだったと思うが、最後の方はほぼ気力でこなしていた。この経験を通して痛感したのは、自分がいかに演技をすることに向いていないかということ。自分に自信が満ち溢れれば小っ恥ずかしくならないのか、それとも別人になりきれば自分の自信のなさや恥ずかしさも気にならないのかわからないが、わたしは最後まで「なにやっているんだろう、わたし」という感情が消えてなくならず、演技で自分を表現する方法がよくわからなかった。「お芝居をする人になりたい」と思った五歳のゆりちゃんとは、お話が合いそうにないです、はい。
語劇の練習と本番に加えて、わたしが所属していたスペイン舞踊部(フラメンコ、以下スペ舞)も外語祭での舞台は一年で一番の大見せ場なので、そちらの練習もあった。どちらも中途半端にはしたくなかったので、どちらも当時できうる全力をもってこなした。まだ二年生で通常回しか出番がないとはいえ、一日に一公演はあったので、語劇の練習に本番にフラメンコの舞台に・・と、十九歳の自分だからこそ出来た技であった。生来のあがり症で本番ではなにかしらいつもやらかすわたしは、途中でセリフが飛んだりしながらも仲間に助けられ、無事にフランス語劇をやり遂げた。達成感は非常に大きかったし、今振り返っても大変だったけど楽しい、かけがえのない青春の一ページだった。

語劇に参加したメリットは別にもあった。外語祭の直後に、翌年の交換留学生の選抜試験があったのだが、強制的にフランス語を喋りまくっていたわたしは、おそらく他のクラスメイトよりも圧倒的にフランス語に慣れていた。言語習得というのはある種の才能なので、まだ留学経験もない二年生の秋くらいだと、まともな会話ができない生徒も多い中、選抜試験の面接(全編フランス語で受け答え、志望動機などを話す)では、自分でも驚くほど流暢に会話や自己PRができた。交換留学先の大学はパリは三校のみ、各二名ずつしか行けない狭き門ではあったが、フランス語漬けだったわたしが選ばれないはずもなく、入学前からの野望通り、晴れてパリのソルボンヌ大学への切符を手に入れた。

外語祭が終わり、学年末の試験も終わり、晴れて(?)フランス語から解放されて以来(外大は一〜二年生は語科の授業がハードだが、三年生からは主専攻語の授業が減り、格段に楽になる)、留学が決まってから2009年9月に渡仏するまでの十ヶ月ほどは、今度はフラメンコ漬けの日々だった。よせばいいのに、全国学生フラメンコ連盟:通称フレスポンの事務局長などという大役を引き受けてしまったので、自分のフランス語の勉強やフラメンコの練習を二の次にして、イベントの運営に奔走した。良い経験ではあったし、共にイベントを作り上げた他大学のメンバーも皆良い人たちだったが、今振り返っても別段楽しかった記憶はないので、まぁ二度目のリーダー経験ができ、一円にもならないのに大人たちと仕事をする経験をして、全国のフラメンコ部の友達ができたりしたので(今でも連絡を取り合うような人はいないが)、「やらないよりは勉強になったな」という感想だけである。

夏のフレスポンのイベントから半月ほどで渡仏するという、今でもよくできたなと感心するハードスケジュールだったので、当然準備もままならず、まるで実感もないままパリでの一人暮らしがスタートした。カルチェラタンの、リュクサンブール公園とパンテオンが目と鼻の先にあり、サンミッシェルやノートルダムまでも歩いて十分ほど、今思い出しても泣きたくなるほど美しい一角の、小さなアパルトマンだった。新たな門出の環境としては最高だったのだが、自分で決めたことではありつつ日本とフラメンコに大きな未練を残しての留学になってしまったので、その葛藤に年明けくらいまで苦しんだり、人生で初めて「無条件で見下され、差別される」存在であることへの精神的ダメージ、フランス人への嫌悪感、それでもパリを嫌いに慣れない自分、腐ってもアジア人である自分、一人で生きる孤独・・などなど、もう二度とごめんだな、と思うような憂鬱な日々をパリで過ごした。それでも春がやってきて、次第にフランス語にもストレスを感じなくなり、授業も放り出してヨーロッパを周遊しまくり・・ちょうど渡仏してから一年後、2010年9月朔日、わたしは日本に凱旋帰国した。
パリでの一年は、わたしを人として大きく成長させてくれた。自分の常識がいかに世界で通用しないか、日本がどれほど恵まれた美しい国か、他人に頼れない環境で生きること、堂々と生きること、自分に誇りを持つこと・・二十歳の若い日々を、あの過酷だけれど夢のようなパリで過ごせたことは、今でも毎日を生きる上での大きな糧となっている。
留学するまでは「将来は絶対フランスで働くんだ」「パリジェンヌになるんだ」などと当たり前のように考えていたけれど、パリでの一年で「異邦人として異国で生き続けること」は自分には無理だと痛感したので、大人しく日本で生きることを決意して、現在に至る。あれからもう十五年も経つが、フランスへの憧れは尽きないものの、あの国で生きたいとはまるで思わない。当然、「わたしのオスカルさま」も「わたしのアンドレ」もパリにもベルサイユにもいなかったし。少し飛躍するが、わたしの前々世が革命前夜のベルサイユの貴婦人だった可能性があり(わたし調べ)、やっぱりわたしはフランスがあまり合わなくて、やっと今世は日本に生まれられたような気がするので、日本で美しい日本の風景と日本語を噛み締め、日本人として生きられることに感謝しながら、楽しんで生きたいと思っている。

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