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三国志に学ぶビジネススキル~第2回 劉備に学ぶ人たぶらかしの術

吾輩は名無し猫である。
日本中が天然ホットヨガになっている猛暑であるが、皆さんはいかがお過ごしであろうか。(※この記事は2019年08月05日に書いた原稿に加筆したものです)

最近はもっぱら吉本さんのお家騒動で世間はにぎわっていたようである。
「ブログのアクセス数アップのためには吉本さんネタで記事を一本・・・しかし、」と主(エレン)は話している。
吉本さんに関しては色々な立場の見方がありすぎて、誰を擁護しても炎上という返り血を浴びるのであるから、結局、記事のアップは辞めるとのことである。「これぞ危機管理」などと主は自画自賛している。
主がはじめに考えた記事の内容は、フランス革命になぞらえたお家騒動の分析だったのだ。

つまり、会長・社長(王政)が揺らぎ始めると、その近くの貴族から改革の声を上げ始めるも(ラファイエット侯)、ソフトな改革案では収まりがつかなくなり、若手(ジャコバン派)から過激な不満が噴出するというくだりである。

ちなみに主のフランス革命知識は、名作『べルサイユのバラ』依存である。

以上、長い余談である。
本題はフランス革命ではなく、三国志である。第2回のテーマは、「劉備に学ぶ人たぶらかしの術」。映画『新解釈・三國志』で大泉洋ちゃんが演じた劉備である。この映画では劉備に斬新な解釈を加えたらしいが、洋ちゃんなら許すまでである。この記事での劉備は、吉川英治さん著『三国志』の劉備が理解のベースである。

※三国志の概要おさらいは第1回の記事を参照いただきたい。
三国志に学ぶビジネススキル~第1回 国家の大義と企業理念

三国志に登場する君主の中では、やはり、合理的で物事を即決していく魏の曹操が、リーダーらしいリーダーと言えるだろう。明るい自信家で、判断が早く、時には恐怖を与えながら臣下、臣民を支配していく。オーナー経営企業のオーナーに多いタイプだと主は言っている。吾輩はパワハラはご免であるが、全員が認めるリーダーなのだ。

一方、蜀の劉備は、一般的にも、徳を重んじた君主として、曹操と違うタイプとして認識されているようである。劉備は、自分にはない才を持った臣下によくヘリ下り、民の命を重んじ、外交上も敵国と表立って喧嘩などしない。よい条件を提示されても「下心があるわけではありませんから」と断るタイプ。その徳の高さゆえ、関羽、張飛、趙雲という名だたる武将のみならず、絶世の賢者・諸葛亮、龐統までも臣下に引き入れ、慕われ続けたと言われているのだ。

しかし、心のねじ曲がった主、
「これは計算です。計算の上で、人をたぶらかしているのです」
などと言う。主が語るにはこのようである。

実際のところ、劉備殿の政治家としての手腕は、その優柔不断な性格と、徳が無用に高すぎるあまりに、かなり「やばい」ところがあったようである。

関羽、張飛たちを臣下に引き入れ、漢を立て直すために、戦いを続けた劉備。臣下を食べさせなくてはならないのに、傭兵のような日銭生活を続け、土地を持たずに、よその貴族のお世話になりながら、なんと20年以上ものらくら放浪していたのだ。後継者に悩む貴族に土地を引き継いで欲しいと言われても「土地を横取りするなんてそんな下品なことできません」と断り、結局手に収まった土地も呂布にあっけらかんと譲り、結局、追い出され・・・。

長年ついてきた関羽・張飛たちも心の中で一度と言わず一千回くらい思ったことだろう。

人がいいのもええかげんにせぇよ、と。

にもかかわらず、臣下たちに見捨てられず、慕われ続けたのは、
「この人、自分が支えないとダメかも。」と思わせることができたからではないだろうか。劉備は徳の高さだけではなく、漢室の血をひくという絶対不可侵の性質もあった。臣下は「自分を輝かせてくれて、かつ存在が揺らがない君主はこの人しかいない」と思ったことだろう。

主曰く、「これこそ劉備の思うつぼなのじゃ!」ということなのだ。
主が劉備を分析した結果が以下である。

その①.天然半分・計算半分で人をたぶらかしている!
劉備殿のブラックな一面として、曹操と協力して荒くれ者の呂布を捉えた際などは、曹操が呂布の死刑をためらう一方、「さあ、どうだか~」と、の~らくらと死刑の方向に話をもっていって曹操に死刑を決断させたのだ。これは計算でなくて何であろう。
おそらく、劉備は、天然半分・計算半分で、空気を吸うように人をたぶらかせる人であったと主は断定している。"自分に必要"と感じた人を引きつけて離さない才能があったのだ。

ビジネスにおいても、一人でできることには限界があり、したいことを実現するには、協力者が必要となる。劉備の、のらくらと色々な人に近寄っていっては、自分のしたい方向に動かしたり、ハレーションなしにいつの間にか敵に回っていたりする動きは、天才的である。

その②.輪の中心となってメンバーを回す、現代型リーダー
興味深いのは、トップダウンの独断でスピード感をもって話を進める曹操に対し、この劉備殿、自分が輪の中心となって優秀なメンバーをぐるぐる回していく、GoogleやFacebookに見られるような現代型のリーダーに近い点である。メンバーはトップの決めたことを実行するのではなく、自発的なやる気をもって物事を進めていく。

しかし、皆と同じ目線の円の中にいながら、リーダーと見なされ尊敬され続けるは、高見に鎮座するトップダウン型のリーダーより難易度が高いと主は考える。このリーダーの座を絶対不可侵にするものが必要である。劉備の場合は、何よりも漢王室の流れを組む血筋がそれであったのではないだろうか。(米国の若きリーダーたちは自分自身の突出したテクノロジースキルで実際にモノを作れる)。バランス型の総合職タイプが評価される時代はもう古いのかもしれない。

その③.相手に論破する気をなくさせ、情に訴える最強の天然型
劉備の人物像は、主が長年主張してきた「天然最強説」を裏付けているらしい。周囲の空気を読まず、素でしたいことをしてしまうが、人情派なので顰蹙を買うのを免れてしまうタイプである。

実際に主のまわりで起きた例で考えてみよう。ちみは20代前半の女性社員で、社長以下、大人数の社員が参加する会議に開始時刻ぎりぎりで部屋についたとする。空いている席は、遠慮の塊・日本人が残した社長の目の前の席と、ドアの近くに設けられた臨時の椅子である。多くの人は、「若い」、「女性である(日本の女性は男性に主役を譲るべきと生まれた瞬間から教えられて育つ。"主人"と"奥さん"と言葉が象徴している)」の二つの理由から、臨時の席につくであろう。

しかし、主が居合わせた会議では、その女性社員は憶測なく社長の目の前に座った。空気を読んでしまう主は「え?」と思ったが、彼女は細かく考えるタイプではなく、素でそれを堂々とやってのけたのだ。結果、机のない席とある席では会議中の仕事効率も無論違うし、何より、そういった言動が積み重なり、職場での存在感が変わってくる。普通の人はこれはできない。天然か、こういった経験を積み重ね、言語化して理解している人だけが社長の前に座れるわけだが、経験を踏んでそこに到達するタイプの人はその境地に到達するまでに時間がかかってしまう。天然さんにはかなわないのだ。主はこういった天然さんを「最強の人」と名付けた。(ちなみに彼女はその後、疑問視する男性社員達をはねのけて大手企業で女性役員になった)

また、「最強の人」を最強たらしめる理由は、この側面だけではない。そこそこの知性があり、人間的に他人に好かれるという点が必須である。これがなければ、ただの「無神経」と見なされてしまう。

知性はありすぎると多くの場合、「天然」にならないので、そこそこでよい(知性がありすぎる「天才」タイプの天然さんもいるが、世の中にそうそういない)。

人間的に好かれることも必須である。仕事は人と人との付き合いであり、理屈ではなく情で動く側面が強い。劉備は圧倒的な人品があったため、優秀な部下たちの情に訴え、大失敗を追求させず、許させてしまうのだ。

その昔、コンサル業界だとロジカルロボットのごとく人間性のない人が時々いて、部下をロジカル質問攻めにして退職させてしまうが(主は「ロジハラ」と名付けている。ちなみにお客様にはYesしか言わないのだ)、はっきし言って小者である。ロジカルシンキングは既に時代遅れであるが、今の末路を拝みたいものである。

また、どの面から見ても欠点がないスマート人間も人間味がなかったりする。皆さんの周りには、仕事もできるし、コミュニケーション上も、立場が弱い人にもスマートに接するPerfect humanがいないだろうか?誰からも好印象を抱かれるこのタイプの人は、長期的に付き合ってみれば、プライベートもステレオタイプの人生を送っているし、個性や意志が実はなくて、誰とも深い信頼関係を築けないタイプと主は考えている。「ある程度のところまで出世はするけど大成功もせず、人の記憶にも残らない」などと、誰も傷つけていない罪のない人をディスる主である。一方、劉備は誤った判断しまくりで「私がお助けしたい!」と部下に思わせて、成功を収めるのだ。

以上が劉備に関するあれこれだそうだ。理屈が通らなくて主とはソリが合わなそうなおじさんなのだ。最後に

ビジネス応用に向けてレッスン&ラーンをまとめてみるのだ。

①人を計算で動かすのは半・天然のなせる業である。真似しようとしても無駄。自分に「必要」な人とは仲悪くならない程度に心に止めよう。

②結局のところ、誰にも真似できないスキルを1つ持つことが大事。

③真ん中の席をずかずかとってみよう。オバはん・オジさんが乗車口で横入りする抵抗感がないように、図太さは年齢と経験で身に着くものである。これは意識して行うべき。

いかがだったであろうか?

話が長い主に辟易する吾輩であった。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。


話の長い主はさておき、吾輩とつれづれ語りたい諸君にサポートをお願い申し上げるのだ。