善き羊飼いの教会 #1-1 月曜日
〈柊シュリ〉
*
「あれ? お姉ちゃん、仕事、午後からじゃなかったの?」
鏡越しにアカリから問われた。わたしは歯ブラシを口から離しつつ、どうにか笑みを取り繕って返す。
うまく笑えた。ただし言葉はでてこない。歯磨き中だから喋れないという風に解釈してくれるといいのだけれど。
「あ!」アカリは手のひらをぱちんとあわせて両目を見開き、「そうだ、お姉ちゃんに観てもらいたいDVDがあるの!」そういって、鏡に映ったわたしへ完成度の高い微笑みを披露する。
指には外出時につけているマスクが絡まっていたので、家をでる直前だったに違いない。視線をほんの少し下げる。藍色の上着の下から高校の制服が顔を覗かせている。わたしは振り返ってアカリの姿——を捉えるつもりが、わずかに遅かった。
「待ってて。すぐにもってくるから」
スリッパの音が廊下に反響し、奥の部屋の扉を開く音が聞こえた。わたしは残り香の漂う空間と淡い色の壁紙を無言で見つめたが、ややあって鏡に向き直り、蛇口をひねって口をすすいだ。歯ブラシを立てかけて、乱れた髪を手櫛で梳く。長くて艶のあるアカリの髪とは異なる、ひどく痛んだパサパサの髪を。
アカリと言葉を交わしたのは三日ぶりだろうか。
いや、交わしてはいないか。
わたしは一言も発していないのだから。
一緒に暮らしているのに三日も話をしなかったのは喧嘩していたとか仲が悪いからではなくて、単に生活のリズムがあわず、顔をあわせる機会がなかっただけだ。
アカリは〝良い子〟だ。
妬みとか嫉みなんてもの抜きで、本当に〝良い子〟といいきれる。
人懐っこくて純粋で誠実で、外見も表情も声質も申しぶんなくって、わたしなんかとは大違い。小学校の高学年くらいまでは控えめで大人しくてすぐ内にこもってしまう性格だったことが信じられないくらい、いまのアカリは名前のとおり光り輝いていて、目を惹く特別な〝明かり〟で充ち満ちている。
一方でわたしは日陰で身を潜めることを課されている身。いらぬモヤモヤを胸の内に抱えて、不必要な壁をつくりだしてしまっていることを否めない。嫉妬ではない。嫉妬なんかじゃなくて、アカリとわたしが〝あまりに違いすぎている〟ので一緒にいると胃が重くなってしまうから——そういうこと。
つい、比較してしまって。
「なにやってるの? 早くしなさい」
母の声が聞こえた。リビングからわたしを呼んでいる。手を拭いて廊下にでると、香ばしいトーストのにおいが鼻腔をくすぐった。ゴチャゴチャした印象を受けるリビングの入り口で足をとめると、
「あぁ……なんだ」わたしを見るなり、母は溜め息とともに笑顔も吐きだした。「シュリだったの? バイトは午後からって昨日いってなかった?」
母の手に握られたマグカップの位置が、落胆したかのように心なし下がる。
もう片方の手がテーブルの上に載せられて、視線は壁掛け時計へ。
「こんな時間に起きてくるとは思ってなかったから、シュリのぶん、作ってないわよ?」
「大丈夫。お腹空いてないし、それにいま、歯を磨いたところだから」
答えながらテーブルに向いた目が、パン屑の載った皿と空になったグラスを捉える。姿は失せているものの、リビングはお腹と口の中を落ち着かなくさせるトーストのにおいで満ちている。朝食が用意されていないのは、まあ、構わない。それよりもバイトといわれたことに反論したくてムズムズする。バイトではなく社員だ。名刺をもたせてもらえたばかりの新人ではあるけれども、れっきとした社会人——と主張したいところだが、すでに母へは何度も告げているし、その都度つれない反応を示されてきた経験が反論を思いとどまらせる。喉元で足踏みしていた言葉と感情を飲みこみ、体内への再吸収を執り行う。
冷静に。
落ち着いて。
ひと呼吸おいて、顔をあげると、母はキッチンまで移動していた。
「カップスープでよければ戸棚に入ってるから」
「うん」
「ポットのお湯は使いきっちゃったから、自分で沸かしてね」
「うん」
商業エリアから三駅はなれた住宅街に建つ、分譲マンションの六階、六〇一号室。それがわたしたち家族の住む家で、わたしがいまいる場所である。家族構成は父、母、わたしと妹の四人。それと雑種の茶色い猫一匹。猫が家族の一員となったことで、我が家はペット可である現在のマンションへ一年前に引っ越してきた。猫の名前は〝ネコさん〟といい、命名したのはアカリだ。父も、母も、当然わたしも「ネコさんという名前はおかしい」と文句はいったけれども、ネコさんはアカリが知人からもらってきた猫なので命名拒否はしなかった。
伸びをしながらリビングを見回す。
毎朝早い父の姿はすでに家の中になくて、さらに朝の早い愛猫は午前五時頃に走り回って、暴れ回って、ときおり『んあー』と甘えた声で鳴いていたがいまは見あたらず、気配すら感じられなかった。
「二度寝して、バイトに遅刻しちゃ駄目よ。今日はアカリちゃんを学校まで送って、そのまま事務所に行く予定だから、電話で起こす暇なんてないからね?」母は壁の反響を利用して、背を向けたまま気怠げにいった。わたしは話半分、音声がミュート状態になっているテレビ画面へ目を向けて、母の苦言を受け流す——受け流す努力をしてみるものの、気になる単語がチクチクと胸を刺す。遅刻してバイト先の所長さんに迷惑をかけたら駄目よ。せっかく雇ってもらえたんだから。ようやく雇ってもらえたんだから。所長さんに迷惑をかけたら絶対に駄目だからね。部屋の中にこもって一日中ゴロゴロするような生活には戻りたくないでしょう?
うん、うん頷いて返すが、母は背中を向けているうえに視線を下げている。水の流れる音が聞こえてきて、マグカップを濯ぎはじめたとわかる。駄目よ、絶対に、とまた念を押す母。わずか数十秒の間に何度〝絶対〟と口にしただろう。
さすがに耳が痛くなってきたので自室に戻ろうかと考えたところへ廊下を駆ける足音が聞こえてきて、扉の向こう側からアカリが姿をみせ、みせるなり弾んだ声を発した。
「お姉ちゃん、はい、これ。なんだと思う? ね、なんだと思う?」
満面に笑みを浮かべたアカリが差しだすDVDディスクに目を落とす。ディスクの表面には黒色のペンで内容が記されていたので、どう受け答えすれば良いものか判断に迷ってしまう。それにアカリからDVDディスクを手渡されるのは初めてではない。少なくとも五回。いや、六回はこのようなやりとりを交わしたのではないだろうか。
「あら、アカリちゃん、もしかしてそれって土曜のやつ? カメラで撮ってたの?」
一方的な苦言を発していたときとは異なる、優しくて高いトーンで母が問うた。水をとめて、タオルで手を拭きつつ近づいてくる。
「うん、そう。大貫さんが撮影してくれていてね。特別にディスクに焼いてもらったの」
アカリがさらに高いトーンで返した。
「アカリちゃんだけに?」
「そうよ」
「特別に?」
「もちろん」
「門外不出なのに、特別に?」
戯けた風に話すこのやりとりを目にするのも初めてではない。母の表情もアカリに負けず劣らず輝きはじめてきた。ふたりが話をはじめたら、わたしはこの場に居ても居ないようなもの。テーブルや椅子や食器棚同然、家具のひとつになってしまう。それでも顔に笑みを貼りつけて、受け取ったディスクを胸に強く押しあてつつ、ときどき相槌をうつ。首から下は固まったままだが、目と耳をまっすぐふたりに向けていれば、同空間に存在していても良い免罪符を手に入れた気持ちになれる。
弾んだ会話はわたしへの苦言よりも長く続いた。
「あら、もうこんな時間じゃない。でかける準備はできてるのよね? 荷物を取ってくるから待っててね。アカリちゃん」
そういって母は、慌ただしく、リビングのとなりにある自室へと向かった。
アカリと目があった。満面の笑みにつられてわたしの口角も二ミリほどもちあがる。交わすべき会話は母がほとんど消費してしまったが、わたしがいうべき言葉がひとつ残されていたので、すんなり言葉を声としてだせた。
「仕事から帰ったら、DVD観てみるね」
「うん。映像は手ぶれしてるから観辛いかもしれないけど、音はすごく良いからさ。なんだったら、ほら、あの、本当は関係者以外には観せちゃいけないんだけど、お姉ちゃんの職場の所長さんだったら、観せてもいいからね?」
「所長?」アカリはわたしの職場の何人かと顔をあわせているが、所長とはあったことがないように思う。おそらく勘違いしているのだろう。アカリが誰を指して所長といっているかは、想像がつく。「イチイさんは所長じゃなくて、樫緒(かしお)所長の弟さんだから」
「そうなの? イチイさんが所長なのかと思ってた」
「所長は由加利(ゆかり)さんっていう女性で、イチイさんは、いち調査員……ではないな。えぇと、なんていえばいいんだろ。研究所内で好き勝手してる自由人とでもいうか。説明するとなると難しいんだけど……」頻繁に手伝いにきている身内との認識が的を射ているように思う〝樫緒イチイ〟について、たどたどしくもわかり易いように語る。語りつつ——話を聞いているアカリの目があまりにも純粋で、美しく輝いているように見えてくるものだから、圧されて気持ちが後退してしまう。
あぁあ。だめだ。笑顔を。
笑みを保たなきゃ。
アカリとわたしとの距離はすごく離れているのに、いつもすぐそばにいる。わたしのそばに。目の届く範囲内に。わたしの人生の中でアカリの姿もしくは影が存在しない瞬間はなくて、物心ついたときからそうだった。最古と思われるわたしの記憶の中にもアカリはしっかり存在していた——大きくお腹を膨らませた母というアメイジングなかたちで。
「ふうん。ということは、今日はイチイさん、いないんだ?」とアカリ。
問いに返すべく回想を中断し、アカリとの会話に集中する。
「所長と、調査員の黄山(きやま)さんと一緒に、瀬戸内海にある小さな島で起った事件の調査にでかけてるの。二、三日滞在するらしくて、その間は急を要する重要な仕事以外受けつけないように決まったから、だから、わたしは午後からの出勤で——」
「え、待って。ちょっと待って。瀬戸内海? 事件の調査? それってもしかして遺産相続とか積年の恨みとかが背景に潜んでいる殺人事件だったりする?」
「は?」
どうしてそういう発想になるのか訝ったが、数日前、リビングに『獄門島』の文庫本が置いてあったのを思いだして直感的に把握した。あの本はアカリのものだったようだ。特定の女性作家の本ばかり好んで読んでいたアカリが、なぜ急に横溝正史作品に手を伸ばしたのか気になるところではあるが、考える暇も与えずに質問が重ねられる。
「どうなの? そうなんでしょ、お姉ちゃん?」
「まさか。映画や小説の話じゃないんだから」やんわり否定するも、所長から詳しい話を聞いていないので断言はできない。
わたしが勤めているのは、民間の〝科学捜査研究所〟であり、所長の樫緒由加利さんは警視庁の科捜研出身であるのだ。わたしが働きはじめてからの四ヶ月間で、殺人事件の調査は行われていないけれども、今回の所長らの遠出がそういった類いの事件調査であってもおかしくはないように思う。や、むしろその可能性は高いだろう。
「ねえねえ、お姉ちゃん? イチイさんって最近、どんな事件に関わったの? わたしがまだ聞いていない話とかある? それこそ映画や小説に登場する名探偵みたいに——あ」
アカリが話を中断したのは、リビングへ母が戻ってきたからだった。アカリちゃん、お待たせ。アカリちゃん、忘れものはない? アカリちゃん、アカリちゃん? 猫なで声と呼ぶに相応しい高くてスローな喋りで、母はアカリの名を連呼した。
わたしは身を退き、リビングの端へ移動する。家具のひとつへ。もしくは調理器具のひとつに化ける。圧力鍋、フライパン、わたし。溶けこみは完璧。想像どおり、母はわたしに目もくれなかった。
「じゃあね、お姉ちゃん。行ってくる」
手を振られたので振り返す。習慣と経験から、月曜日にアカリの帰りが遅くなることはないとわかっているけれども社交辞令的に「今日も遅いの?」と尋ねてみる。
「うぅん。月曜だから早いよ。帰りに寄り道しなければの話だけど」
「駄目よ、寄り道しないで帰るの!」と母。
あまりの過保護さに呆れてしまうが、毎週末、遅い時間まで帰ってこないアカリのことを心配する気持ちはわからなくはない。なにしろアカリは——
「行ってきまあす」軽快な声を発してアカリがでて行き、
「二度寝しちゃ駄目よ! シュリ、わかった?」認識されてはいたようだ、フライパンと並んでいるわたしは。
ただし最後まで苦言を呈して、わたしと一度も目をあわせてくれなかった。母がアカリに続いてドアからでて行くと、家の中は一気に音を失い、室温までもが一、二度、消失したように感じた。
いつものことだけど、少し寂しくなる。
テーブルに近づく。
お腹が鳴った。
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