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善き羊飼いの教会 #4-6 木曜日

〈柊シュリ〉


     *

 訊きたいことがたくさんあって、ありすぎて、なにから尋ねようか迷っているうちに結構な時間が経ってしまった。善き羊飼いの教会こと〈善き羊飼いの信徒〉の深角教会へ向かう緊急車両の後部座席に並んで座る黄山さんを横目で見つつ、このままではいけない、なにも聞けず目的地に到着してしまうのは避けなければと考えて、身体を向け、「……あの」声を発したものの、言葉が続かなくて口ごもってしまう。
「なにが訊きたいの?」と黄山さん。声の調子は明るくて、あたたかみが感じられた。わたしの心をよんでくれたかのようで嬉しくなったが、続く言葉に引っ張られて思考はあらぬ方向へずれてしまう。「イチイくんの所在以外なら、答えられるから」
 そういわれると逆に訊きたくなる。
「イチイさん、一緒に戻ってきていないんですか」
「島をでるなり、別行動をとったの」
「ということは、電波の届くところにはいるんですよね? ネットも使えるでしょうからメッセージの送信もできるのに」それなのに、なぜ、「イチイさんは伝達の手段に手紙を選んだのですか? わざわざ手紙に書いて黄山さんに託さなくても、電話などで伝えられたじゃないですか」
「そうよねえ」黄山さんは破顔し、しかしすぐさま笑みを引っこめて、運転席に座る森村刑事へ視線を向けた。「ホント、どうしてわたしがイチイくんのために、忙しなく動き回らなきゃいけないのか」背もたれに身体を預け、不貞腐れたように唇を尖らせる。
「…………?」
 なぜだろう。なぜか黄山さんの言葉が嘘っぽく聞こえたうえに、取り繕(つくろ)いの演技をしているように見えてしまって、「本当にイチイさんが手紙を書いたのですか」思わず尋ねてしまった。
「あら。どうして? どうして疑ってるの? 筆跡を見れば一目瞭然――だけど、手元にないから確認できないのが残念ね。本土に戻る船内でイチイくん本人が書いて、わたしに渡したのよ。イチイくんでなければ誰があの手紙を書いたと思ったの?」
「誰がというよりも……」手紙というアナログな手段を選択したことに疑問を抱いている。それに、手紙を託されたことに文句もいわず、黄山さんが承諾したという話はにわかには信じ難かった。イチイさんに命じられて〝行動に移した〟のではなく、黄山さん自身の意思で〝行動している〟というのであれば、合点がいくのだけれども。
「あ!」
「……?」
「あ、あの。黄山さん? もしかして……ですけど」
 命じたのはイチイさんではなくて、黄山さんのほうであったとしたらどうだろう。黄山さんが手紙を書くよう、イチイさんに頼んだのだとしたら? 手紙を託されたとなれば、渡す相手の元へ行かざるを得なくなる。もしくは、場所。文倉家を訪れたい者にとってイチイさんの手紙は免状と同義だ。……いや、待て。訪問すること自体が目的であれば、いつでも構わない。いつでも文倉家を訪れることは可能じゃないか。黄山さんがいまこの瞬間このタイミングで訪問していることに意味があるはずだ
「ご名答」
「はい?」
「ひょっとして同行させられたことで困惑してる? そうよね、いきなり筒鳥署から連れだされたもんね。理由はあとできちんと説明するけど、その理由とは別に、柊さんを迎えに行かなかったら、わたしは森村さんと車内でふたりきりになるところだったのよ? ふたりだけだと森村さんにどんなことをされるか」
「あぁア? お、おいッ、なにいってんだ?」聞き耳をたてていたらしく、森村刑事が声を荒げて振り返った。「なにかするわけねぇだろうが!」
「危ない! ちゃんと前を見て運転してください」と黄山さん。「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。冗談ですよ。冗談です」
「ぜんっぜん、冗談に聞こえねよ。どうしておれが――」
「失礼しました。このとおり、謝ります。本当に失礼いたしました」黄山さんは即座に謝罪を口にしたが、まったくもって気持ちが入っていない。「ところで、結構走りましたよね。そろそろ着いてもいいころではありません?」
 頭を傾けて首の骨を鳴らし、黄山さんは物憂げそうに窓の外へ目を向けた。
「あ? あぁあ、ったく……」
 森村刑事がぼやいて舌打ちし、ミラー越しに黄山さんとわたしを睨めつける。黄山さんは車外を見たまま顔を戻そうとしないので、冷えていた空気がさらに冷えこみ、会話を続ける雰囲気ではなくなってしまった。手紙はイチイさんがなにかしらかの意図をもって書いたものなのか、それとも黄山さんに書かされたものなのか問い質したいところではあるけれども、場の空気を読んで唇を結び、黄山さんを真似て窓の外へと目を向けてみる。
 教会の建つ深角町は町域のほとんどが山地で、年々人口が減少している小さな町だ。町内を東西に流れる八ヶ瀬川は鮎の梁漁で有名な一級河川ではあるが、深角町訪問は今日がはじめてなので地理には詳しくない。教会を目指して走りだしてから三十分ほどが経過しただろうか。ガソリンの計量機がひとつしか設置されていないガソリンスタンドをすぎた直後にウインカーがだされて、車は減速しはじめた。周囲にそれらしき建物は見あたらないが、教会は近いのだろう。そう思っている間に停車した。民家の横にある、わりと広い未舗装のスペースに。
「着いたようね」と黄山さん。
 窓の外に、文字のかすれた鮮魚店の看板が見えた。出入り口の扉は閉められていて、カーテンも閉じられている。隣は二階建ての古い民家。その隣もまた同じ。
「ここ、ですか」
「そうよ。教会は通りから少し離れていて、地図によると、多分、あの石段。石段を登ったところにあるみたいね」
 いつの間にスマホを手にもったのだろう。黄山さんは表示していた地図アプリを終了させながら、車から降りた。森村刑事も降車する。慌ててシートベルトを外して、わたしは太ももに載せていた鞄を肩にかける。教会に行くということで荘厳なイメージを勝手に抱いてたが、周辺の風景は寒々しいほど寂れていて、野鳥の声が喧しい。空の大半は雲で覆われており、雲とわたしとの間には黒く目障りな電線が縦横無尽に走っていた。
「どうした?」
 呼びかけられて振り返ると、森村刑事が背後に立っていた。がたいがよくて長身なので、わたしの視線はほんの少し上に向く。
「なにか気になることでもあるのか」と森村刑事。
「いえ、あの……」黄山さんのいったことが本当であるなら、この先には東条さんたちを殺害した犯人がいるのだ。いるかもしれないのだ。「本当に……行くんですよね」
「ここにきて怖気づいたか?」
「…………」そうだ。わたしはここまでついてきていながら、怖気づいている。
「好きにしろ。先に行くからな」森村刑事は素っ気なくいって背中を向け、ひとり石段を登りはじめた。
「どうしたの?」
 黄山さんが近づいてきて問い、心配そうな目を向けたので大丈夫ですと返すけれども、真逆の感情がどんどん湧きあがってきて心臓が早鐘を打ちはじめた。大丈夫じゃない。ぜんぜん大丈夫ではない。殺人者との対面が待ち構えているのかもしれないと考えると、否が応にも、昨日文倉家で対面したりっちゃんさんの姿を思いだしてしまう。憎く恐ろしい殺人犯ながら、哀れな気持ちを抱くほど心身ともにボロボロな状態で、ひどく取り乱していて、直視できぬほど痛々しい姿に変わり果てていた彼女の姿を。あのような場面にまた出会すのはごめんだし、違っていたとしてもそこには気遣わしさと怖れしかないし、なによりもわたしは頭の整理がついていない。
「柊さん?」
「あ、す、すみません。気怖(きお)じしてしまって」
「気怖じ? なにいってるのよ、柊さん」黄山さんの表情が一変し、その口調はなぜか責めるものへと変わった。「行かなきゃだめよ。こんな機会、そうそうないのよ?」
「――え?」機会? 機会って……それはそうだろうけれども。
「誰よりも深く事件に関わったじゃない。看護師を殺害した女性の発見現場に居合わせたりもしたのよね? だったらわかるでしょう?」
「……わかる? わかるって」なにをいっているのだろう。「たしかに居合わせましたけど、だからこそまた現場に居合わせるようなことは避けたく思ってしまうといいますか、あ、あの、教会に本当にいるのですか」
「いるのよ」
「どうしているとわかるんです? どうして教会なんですか。イチイさんはなにを根拠に――」
「イチイくんじゃなくて、わたし。教会に潜んでいることを推測したのはわたしよ」
「……? 黄山さんが?」
「スルガくんがアップした調査データの中で、教団に関する情報を纏(まと)めたのは柊さんだったのよね? だとしたら、教団の活動内容や教義について詳しく把握してるでしょう? 信者と神父の関係や、信者と神との関係などもきちんと理解しているでしょうし。教会で目にするかもしれない出来事に対して、あれだけ多くの情報を集めた柊さんなら、順応して、スムーズに応対できるはずよ。最適なの。柊さんは。それに、柊さんがいざというときに物怖じしない勇敢な心をもっていることを、ほら、妹さんの事件のときに、わたしはまのあたりにしているから」
「あ、あのときはアカリにもうしわけないというか、うしろめたさから自然と行動に移せたといいますか――」
「森村さんは混乱して暴走してしまうだろうから、そのときはお願いね」
「お願いって、え? な、なんですか。暴走?」
「柊さんよりも恵まれている人なんてそうそういないのよ? 昨日起こった出来事の話を聞いて、どれほど羨ましく思ったかわかる?」
「……はい?」
 羨ましく?
 羨ましくって?
「森村さんを説得して聴取を延期してもらったのが無駄になっちゃうじゃない。最後まで事件を追って、ちゃんと結末を見届けなきゃ駄目よ。よくいうでしょう? なにがあっても身内の葬儀だけは絶対に参加しろって」
「……葬儀」なんだ? 一体、なんの話をしているのだ、黄山さんは?
「そんな顔しないで。例え話よ。ほら、足を動かして。行って確かめるの。神の判断をたしかめるのよ」
 またもよくわからないことを黄山さんは口にしたが、問い質す前に背中を押されて、強引に歩かされた。もっと話をしたい。質問したい。例え話? 神の判断ってなに?
「ま、待ってください、黄山さんッ?」
 訊きたいことがたくさんあるのに、背中を押される。石段が近づいてくる。
 発しようとした言葉は前進したことによって再び口の中へと戻ってしまう。
 不本意ながらも石段がもう目の前に。足をのせる。顎をあげて視線を上に。
 先に登った森村刑事の姿はどこにも見あたらず、背を押す力はさらに強くなった。


 石段を登り終えてすぐのところに、深角教会は建っていた。
 到着してしまったからには覚悟を決めるしかない。舗装されていない私道の真ん中に立って、わたしは教会の建物を見つめた。建物そのものはさほど大きく感じられなかったが、少し横に移動すると、かなり奥行きがあるようにうかがえる。白壁に三つ並んだ窓。三角形の屋根。屋根の上にはクリーム色の十字架が載っていた。正面入り口の左に軽自動車がとまっているので、石段とは別のルートで建物前までくることができるようだ。建物の右側は木々で覆われているが、左にはドッグランとして使用できそうな広い芝のスペースになっている。スペースの隅にビニール袋とトングをもってゴミ拾いしている白い服を着た若い男性の姿があり、わたしが気づいたのとほぼ同時に、男性もわたしたちの訪問に気づいたらしくて、ビニール袋の口を閉じてこちらへ顔を――

「え?」

 知った顔だった。
 写真で何度も何度も見たから、間違いない。
「結局登ってきたのかよ。あ? どうした? 驚いた顔をして」木の生い茂る建物の右側から姿を現した森村刑事が話しかけながら近づいてくるが、わたしは白い服を着た若い男性から目を離せなくて、正面入り口の扉のそばに立っていた黄山さんもまた歩み寄ってくるけれども、男性から視線をそらせなくて、
「柊さん?」黄山さんが問う。
「おい、どうした」森村刑事が心配そうな声で尋ねて歩調を早める。
 白い服を着た若い男性は、こちらを見ている。
 わたしをまっすぐ見つめてる。
「なに驚いた顔してんだ? そんなに驚くようなものが……誰だ? 教会の者か」わたしの視線を追って男性の存在に気づいた森村刑事が、冷ややかな口調でいう。「行って声をかけてみるか」
 森村刑事はまだ気づいていない。
 男性が何者であるのか。なぜそこにいるのか。
 どうして教会の庭でゴミ拾いをしているのか。
「彼なの? 彼なのね」黄山さんが問う。「庭で平然とゴミ拾いしてるってことは、被害者らにとっては望まない判断が下ったみたいね」黄山さんに目を向けると、その視線は白い服を着た若い男性へ向いていた。いっていることの意味はわからなかったが、黄山さんは気がついた様子だ。
 誰であるのか。
 あの男性が、誰であるのかに。
「なにいってんだ? なんの話を――」言葉が途切れ、森村刑事の表情が見る間に変わっていく。若い男性を見つめた状態で、身体が硬直しているかのように一切の動きを制止して、両目を大きく見開いた。
 あぁあ。
 気づいたんだ。
 森村刑事も、男性の正体に。
「そういう……ことか。そういうことだったのか」
「森村さん」憂慮する声で黄山さんが呼びかけたが、
「わかってる」森村刑事は前を見据えたまま、白い服を着た若い男性へ向けて歩きはじめる。
「ま、待ってください!」わたしは急いであとを追う。
 森村刑事は振り返らない。
 芝に載った落ち葉を踏んだ。乾いた音が靴底で鳴った。
 距離が縮まっていく。
 若い男性がこうべをたれた。
 わたしも頭をさげて、さげながら森村刑事の背中を追う。森村刑事はただ前を見つめて歩き続けるばかりで男性の会釈には応えようとしない。
 わたしは振り返って黄山さんを見た。黄山さんはその場に留まってスマホを操作していた。誰かに電話して〝いま目にしている光景〟を伝えるつもりなのだろうか。だけど耳にあてる様子はない。手にもって操作を続けるばかりである。
 気のせいか、その口元は綻びているように見えた。
 顔を戻すと森村刑事が足をとめたところだった。手を伸ばせば触れることができそうな距離まで男性に近づいた森村刑事は片手を腰に添えて、もう片方の手を上着の内ポケットに差し入れながらいった。似つかわしくない、友好的な声で。

「雛岡さんだね?」と。

 名を尋ねられた男性――見紛うことなき雛岡さんその人は、二、三度瞬きを繰り返して首を傾げたが、ゆっくり礼をして唇の間から大きな八重歯を覗かせた。
「聖典研究祈祷会への参加でお越しになられたのですか」雛岡さんが問う。
 森村刑事はかぶりを振って答える。「いいや。きみと話がしたくて訪ねたんだ」と。
「わたしとですか。どういったご用でしょう。よろしければ教会の中へ」
「ここで構わないよ」抜きだした手に握られたバッジケースを掲げてみせ、再度雛岡さんに本人であるかどうかを尋ねる。
 雛岡さんは深々と頭を下げて、そうです、と回答したが、森村刑事は本人確認の質問を続けざま複数投げかけて、念には念を入れた。友好的に聞こえていた喋りの中には、刺々しさが含まれはじめている。
 わたしはどうしていいのかわからなくて、対峙しているふたりの顔を交互に見て、視線ばかり彷徨わせていて――雛岡さんがいる、目の前に。いくつもの問いで確認するまでもなく、目の前の男性は雛岡さん本人である。ずっとさがしていた雛岡さんが、いなくなっていた雛岡さんが目の前に。
「お待ちしていました」声音をわずかにあげて、雛岡さんは歓迎するようにいった。「いずれ訪ねてこられるだろうと思っていたんです。訊きたいことがおありなのですよね?」
 視線がわたしのほうへも向けられる。わたしは礼をする。雛岡さんが礼を返す。わたしも自己紹介すべきだろうかと思ったところへ、
「筒鳥大学にかよう、柿本と東条というふたりの男を知っているよな」
 森村刑事が本題へ入った。
「あ、あの」堪らずわたしは口を挟んで一歩前進した。雛岡さんとは対照的に、森村刑事の声はだんだんとキーが低く、威圧的になってきている。そのうち激昂して、雛岡さんにつかみかかっても不思議ではない。
「ふたりを殺したのか?」
 森村刑事は直球の問いを投げかけ、
「……ち、ちょっと、森村刑事ッ?」
 慌ててフォローしようと思ったものの、
「はい。殺めました。仰るとおりです。わたしは、ふたりを殺めてしまいました」
「――え?」
 雛岡さんは呆気なく、驚くほどあっさりと自身の犯した罪を認めて、視線を下げた。
「……は? あの……え? なに?」どうして?
「遺体はどうした?」森村刑事が続けて問う。
「どうした、とは?」と雛岡さん。
 なに?
 なんだろう、これは。
「質問に質問で返すな」厳しい口調でいって森村刑事はわずかに横へ動いた。「どこに遺棄したんだ。ふたりの遺体をどこに捨てた?」継いだ言葉からは勢いが失せていて、声は小さくなっている。森村刑事なりに冷静さを保とうと努力している様子らしいが、対する雛岡さんは手応えがないというか、張りあいがないというか、躊躇なく返答していることが、見ていて、聞いていて、異質に思えて仕様がない。
「どこに遺棄したんだ?」と、再び森村刑事。
 問われた雛岡さんは口を開きかけたが、は――と、なにか大事なことを思いだしたような表情をみせて、手にもっていた袋とトングを芝の上に置いた。ゆっくり背筋を伸ばしながら身体の前で指を組み、やや間をおいてから落ち着いた声で回答する。
「治水ダムです。車のトランクに寝かせて、水中に沈めました」
「…………?」肩に下げた鞄の紐が落ちてきた。紐を肩にかけ直す。自身を抱きしめるように腕を組む。また紐が落ちてくる。目の前で行われているやりとりをどう受けとめてよいものかわからなくて、判断できなくて、こういうものなのだろうか。これが普通なのだろうか。警察官と被疑者とのやりとりは、こういったものであるのだろうか。
 あまりに呆気なさすぎやしないか。
 淡々と進みすぎてはいないか。
 怖れていた森村刑事の暴走が起こるよりははるかにいいけれども、罪の告白の場面とは思えないほど冷え冷えとしていて、体温が感じられなくて、たちの悪い冗談なのではないかとの思いがよぎり、わたしはなにを見ているのか、なにを見せられているのか、もしやわたしひとり別世界に紛れこんでしまったのではないかなんてことまで考えてしまって、
「廃屋の中でふたりを殺したのか? どうして殺した? きみひとりでやったのか」
 森村刑事が問い、
「ひとりです」
 雛岡さんが答える。
 わたしを蚊帳の外において、ふたりのやりとりは淡々と続けられる。
「なぜ殺した?」
「なぜ?」
 なんだろう。
 なんなのだろう、これは。
「わたしは殺す意思をもっていたわけではありません。ですので、なぜと問われても回答をもち得ません。死は望まずして訪れた結果です。ただし殴った理由についてはお話できます」雛岡さんの声は落ち着き払っていて、諭すような優しく丁寧な――それでいて不快さを覚える響きを含んでいる。
「理由?」
「柿本くんが突然、気が触れたように破壊行為をはじめたのです。とめなければ、状態が素晴らしかった聖具や、礼拝の品々を、破壊し尽くしてしまうように思えたので、殴るほかありませんでした。その一方で、東条くんの死に関していいますと不慮の事故です。事故といって差し支えないと思います。東条くんには、本当に、申しわけなかったと思っています」
「おい、待て。ちょっと待てよ」森村刑事は笑った。呆れて馬鹿にするように声を震わせて、笑みを浮かべて、鼻を鳴らして、「なにニヤつきながら喋ってんだ。歯を見せるんじゃねえぞ。おい、ニヤつくなっていってんだろ」言葉を重ねるごとに笑みは引っこんでいき、最後は威圧するような物言いになった。
 森村刑事らしい――と、瞬間、わたしは安堵してしまう。本当は冷静なやりとりが続くほうが望ましいのだろうが、不安を抱いてしまう冷え冷えした聴取よりはいい。ただし、行きすぎて暴走へと発展してしまうのはごめんだ。できればここでおさまってもらいたい。口と態度の悪い、見慣れた森村刑事さんの普段の物言い程度で。
「聞こえていますし――」それなのに雛岡さんは、「理解もできています」臆せずに他者を見下すような笑みを保ち続けて、声音をさらに一段階あげた。「家の中に入られましたか? とても素敵な家だったでしょう? リビングに置かれた祭壇はいかがです? ご覧になられましたか。修復と再装飾を行えないほどに柿本くんが破壊してしまったものもありますが、可能な限り、元のかたちに戻したんです」
「おい。黙れ」
「中でも、祭壇の上に飾った――」
「黙れといってんだろうが!」
 森村刑事が感情を露わに距離を詰める。いけない! 怖れていた暴走へと突入してしまう。間に入ってとめなければ森村刑事は雛岡さんになにをするかわからないように思えて、だけどわたしひとりでは森村刑事をとめられるはずもなくて――振り返り黄山さんを見た。黄山さんは胸の位置にかかげたスマホへ目を向けていた。まるで動画撮影をしているかのような――顎があがり、視線が重なった。黄山さんはスマホを固定したままわたしをまっすぐ見つめて、なにもいわずただ見つめるばかりで、そのうち視線を外して雛岡さんのほうを見た黄山さんの目があまりに観察者然としていたので、「……え?」背筋に冷たいものが走り、身体が震え――
「ニヤつくなっていってんだろうが!」
 あぁあ、もうッ! わたししかいない。わたしがとめなければ、ほかには誰もいない。「森村刑事!」慌てて顔を戻す。森村刑事の腕をつかもうと手を伸ばしたけれども、振り払われて、肩に下げていた鞄が芝生の上に落ちて、「――森村刑事ッ!」
「鎮(しず)めましょう」するとここで、「怒りを鎮めましょう。鎮める努力をしましょう」こともあろうに雛岡さんがいった。どうしてそのようなことを平然と口にだしていえるのか理解できなくて、それでいて神や神父の代弁をしているかのように冷静さを失わず、さも当然といった顔をしているから、わたしの思考や判断のほうに誤りがあるような気にもさせられて――
 そう、
 そうだ。神や神父の代弁――ここは教会だ。わたしたちは教会にいる。〈善き羊飼いの信徒〉の教会にいて、宥めるような発言をした雛岡さんは、教団の熱心な信者であるのだ。
 思いだす。
 思い返す。
 わたしは〈善き羊飼いの信徒〉について調査初日に情報収集して、教義や成り立ちや、しきたりなどにも目をとおし、理解はできなくとも理解しようと努めて、多くの時間を費やした。〈善き羊飼いの信徒〉について学んだ知識が次から次へと思い起こされて――思い起こされるたびに、ものの見方が変わっていく
「鎮めろだと? はは。なにいってんだ? なにいってんだ、お前は」
 森村刑事は奇異なものを見るような目で雛岡さんに抗議しているが、ここではわたしたちのほうが理解し難い異者だ。異物だ。マイノリティな存在であるのだ。
「ふざけるな。ふざけたこといってんじゃねえぞ」
 視点を変えれば、森村刑事のほうがおかしなことをいっているように聞こえてくる。突拍子もないことをいっているように聞こえてくる。
 わたしたちこそが異者であり、マイノリティ。

 ――最適なの。柊さんは。

 最適かどうかはわからないけれども、この場にいる〝異物〟の中で、〈善き羊飼いの信徒〉に関する知識を最も多くもっているのはわたしだ。振り返って黄山さんを見る。黄山さんは変わらずスマホに目を向けていて、カメラレンズがわたしのほうを向いている。
「ふざけたニヤけっ面、いつまでも顔に貼りつけてんじゃねえぞ!」
 黄山さんの動向が気になったが、いまは森村刑事を――森村刑事の怒りを抑えなければならない。「やめてくださいッ。さがってください、森村刑事!」
「ああアッ?」怒りの矛先がわたしのほうへ向く。
 苛立つ気持ちはわからなくもないが、雛岡さんは決してふざけてなどいないはずだ。馬鹿にしていない。見下してもいない。柿本さんたちの殺害を悔い、反省しているようには見えないけれども己の犯した罪の重さを理解して、恐怖したからこそ、ここに――教会へと足を運んだに違いない。見える。見えている。それまで見えていなかったものが、いまはわたしにはハッキリと――
「お前こそさがれ、どいてろッ!」
 だから、いわなければならない。伝えなければならない。
 いま、伝えることこそがわたしの役割であり、この場にいる理由であるのなら。
「違うんです、森村刑事ッ! 適(かな)ってるんです。理に適っているんですよ! だから雛岡さんは笑みをみせているんです。治水ダムに車ごと沈めたのも同じ理屈です。文倉家にいたおばあさんが手にもっていた聖句を森村刑事も目にしましたよね? 書かれていた文言を読みましたよね? 主への従順を示すには、あなたの罪は水の中に沈め、ただしき教会で願い求めなさい――雛岡さんは聖句の文言どおり、罪を水に沈めて教会で願い求めたんです」
「…………あぁ?」
「新生の精霊と同じ数の昼と夜を――」雛岡さんがぼそり、と口にした。組んでた指を胸の位置まであげて、わたしを見つめて、いやらしく口角をあげて八重歯を見せつけ、森村刑事のほうへ視線を移す。
 そうだ。
 やっぱりそうなんだ。
 雛岡さんの反応を目にして、そうだったのだと確信した。昼と夜を祈りすごせば――そのあとに続く文言も憶えている。だけれども口にだしていうことは憚(はばか)れる。
 なぜならばそこには、
「許しを乞(こ)うていたんですね?」雛岡さんをまっすぐ見つめて、わたしは問うた。「善き羊飼いの信徒では、悔悛(かいしゅん)を求めることができるのは、神さまだけなんですよね?」
「……悔悛?」森村刑事が口にだしていって、眉をひそめる。
 ややあって雛岡さんが「はい」と答え、半歩ぶんわたしとの距離を縮めた。
 わたしは問う。答えあわせをするように、なおも問い続ける。
「柿本さんたちの死体を遺棄したあと、この教会を訪ねて、それからずっと祈っていたのでしょう? 神さまに悔悛を求めていたのではありませんか」
「はい」さらに半歩ぶん、距離が縮まる。
 嬉しそうに、本当に嬉しそうな笑顔をみせて、ふたつ並んだ八重歯をみせて、雛岡さんはわたしの瞳の奥を覗きこんだ。
 わたしは視線を受けとめて、
 目をそらさずに見つめ返して、
「新生の精霊と同じ数の昼と夜を休まず祈り続けて、祈り続けた結果――」
 充分すぎるほどの間をあけたのちに、すでに答えのわかっている質問を投げかける。

「――赦しを得たのですね」

 雲間から光が降り注ぎ、雛岡さんの背後から地を這うようにひなたが近づく。
 雛岡さんはゆっくり頷いて返して、
 そして、いった。
「仰るとおり、赦しを得ました」と。
 それは、よくとおる、清々しい声だった。

神はわたしの犯した罪をお赦しになられました

 眩しいほどの笑顔が耐えられなくて、わたしは顔をそむけてしう。顔に触れたひなたは暖かく、わたしを押し退けた森村刑事の声は無慈悲なまでに冷淡だった。

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