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善き羊飼いの教会 #4-4 木曜日

〈柊シュリ〉


     *

 黄山さんは昨日のうちに瀬戸内海に浮かぶ島で起こった怪事件の調査を終えて、さきほど戻ってきたばかりらしかった。だったら昨日の電話で留守電にメッセージを残してくれればよかったのに――と、いおうとしたが、わたしの発言は妨げられて一方的に喋られ、再度口を挟もうとしたところでまた黄山さんは話しはじめた。強引に口を挟んで、事件を解明へと導いた(のであろう)イチイさんはどうしたのかと尋ねると、「ふふ」と笑って、膝に載せた鞄の中からピンク色の封筒を取りだされる。
「なんですか、それ」
「預かってきたのよ。イチイくんからの手紙」
「手紙? イチイさんが――」どうして手紙というアナログな手段を用いたのか疑問だが、目の前には実際に手紙がある。ピンク色の封筒はイチイさんのイメージと異なるけれども。「誰宛の手紙ですか」
「事件を担当している刑事課の責任者。スルガくんでもいいんだけどね。金子さんといま一緒にいるようだから」
「…………?」
 わたしが無言で返してしまったせいか、黄山さんは鞄の中へ封筒を戻した。慌てて言葉を継ごうとしたが、それよりも早く森村さんが口を開いて、質問を投げかける。
「おたくの所長はどうしたんだ? 一緒に戻らなかったのか」
 顔をあげてバックミラーに映っている森村さんへ目を向けた。わたしは車の後部座席に黄山さんと並んで座っていて、森村さんがハンドルを握る車で現在移動中なのだ。
「所長は関西方面巡回中です」抑揚をつけずに黄山さんは答えた。「お世話になっている人たちへ挨拶したのちに、帰るそうです」いいながら再び鞄の中に手を入れたので、ピンク色の封筒が再度取りだされる――かと思ったが、姿を現したのは銀色のスマホで、黄山さんは素早く画面に写真を表示して、わたしへと向けた。
 鹿だ。
 鹿と樫緒所長が並んで写っていた。
「え……なんですか」
「さっき所長から送られてきたの」
「鹿にもお世話になっているんですか」
「なにいってんだ、お前は」森村刑事が呆れた声で突っこみ、その間に黄山さんがすました顔で鞄の中へとスマホを戻す。
「鹿、あの、鹿――」なぜいまこのタイミングで鹿の写真を見せられたのかよくわからないが、それよりもっと理解し難いのは、「あのぅ……」どうして黄山さんと森村さんが行動をともにしていて、どうしてそこにわたしが加えられて、どこに連れていかれようとしているかである。乗車前に一度尋ねたのだが、あとで教えると森村刑事にいわれてから結構な時間が経っている。森村刑事の関心がこちらに向いたので、この機を逃すまいと質問してみた。どこへ行くんですか? どこへ向かっているんですか?
「廃屋だよ」ミラー越しに森村刑事は答えた。「藤崎里香を見つけた、あの廃屋だ。廃屋の中のとある箇所に、東条がいま居る場所を示す解答が記されている――んですよね、黄山さん?」
「そんなこといいました?」と、なぜか黄山さんは突き放すように返し、
「ちょっと。なにいってるんですか。あの廃屋に行けば東条の居場所がわかるっていったじゃないですか」
「行けばわかるといった覚えはありませんが」
「は? なにを、なにをいってるんです、いいましたよ」
「いいえ」
「や、いったって。いったでしょうが!」
 いった、いってないの応酬がはじまって、わたしはひとり蚊帳の外に追いやられてしまって、口を挟めるような雰囲気でなくなったので黙って耳を傾けていると、どうやら黄山さんが森村刑事を上手くいいくるめて、文倉家まで車で送るように話をもっていったように思えてきた。森村刑事もわたしと同様、なにが待ち構えているのかわからない目的地へと、真相を知らされずに向かわされているようである。
「ところで、柊さん」
「はいっ?」
「柊さんの頭の中には、いなくなった三人の顔や身体的特徴がしっかり入っているのよね?」
「え、は、はい……顔は、はい。入ってます」顔はともかく、身体的特徴ってなんだろう。どうしてそんな質問を? なんだかまるでわたし、いなくなった三人を目にした際に〝本人であるかどうかの判断を下す確認要員〟として連れてこられたように聞こえてしまったけど……そういうことなのだろうか。そういう理由でわたしは同席させられているのだろうか。
「どんな状況でも見分けられる?」
どんな状況でも?」嫌な想像をしてしまったので、茶化すように尋ね返す。「変装していても見分けられるかってことでしょうか。そういうことを訊いてるんです?」そうあってほしいのだが、最悪死体とか――や、いやだ、いやだ。考えるな。考えないように。「き、黄山さん、あの」
「…………」
「……黄山、さん?」
 問いに返答はなく、ややあって車は目的地に到着した。
 文倉家へ通じる私道の入り口付近でわたしたちは車を降りた。
 わたしも森村刑事も、不信と不安を胸に抱かされたままである。


 文倉家の玄関前には、見知らぬおばあさんが立っていた。
 明るい色で可愛いデザインのポロシャツを着ていて、首には黄緑色のタオルをかけている。おばあさんはわたしたちの姿を見ると笑みをこぼして頭を下げ、ゆっくり近づいてきた。
 誰だろう。
 国道に警察車両がとまっていたので、一般のひとは立ち入り禁止になっていると思うんだけど。
「もしかして〈善き羊飼いの信徒〉のかたですか」黄山さんが先頭に立って、おばあさんへ尋ねた。
 そうなの? と思ったが、
「馬鹿いうんじゃないよ。わたしはただの隣人だよ」おばあさんは機嫌を損ねて、噛みつきそうな勢いでいい返す。「あんたたち、記者かい? 取材しにきたんだろ。一番うしろに立ってるあんた、人相悪いねえ」
「ああア?」
 最後尾にいた森村刑事が不服の声をあげたが、黄山さんに制されてその場に留まる。
「失礼しました。わたしたちは記者ではありませんし、一番うしろにいる男性は見た目ほど悪い人間ではないのでご安心ください」
 再び森村刑事が不服の声をあげたので、まあまあ、と今度はわたしが森村刑事の正面に立って宥めた。見た目ほど悪い人間――って、火に油を注ぐようなことをいった黄山さんに懸念を抱いたが、向きあっていたおばあさんの表情がわずかに和らいだので、和ませる目論見をもっての発言だったのかもしれない。と、考えた直後に、
「あれ? あんたどこかで……」おばあさんがわたしの顔をまじまじと見つめながら尋ねてきた。さすがにおばあさんくらいの年齢だと、妹のアカリとわたしとを重ねあわせて見たとは思えないので、頭を下げて微笑んで返す。「あれ……誰だっけ。誰だったっけ、あんた」とおばあさん。
「はじめてお会いすると思いますけど」
「そう? いやあ、違うねえ。前に会ったよ。会ったことあるよ、絶対に」
 この間に黄山さんはわたしたちから離れて、建物のほうへ向けて歩きはじめていた。まさかとは思うが、おばあさんの相手をわたしに押しつけようと考えているのでは?
「知ってるよ。会ったことあるよ、絶対に」
「いえ。多分、はじめてかと」
「声も聞き憶えがあるねえ。誰だったっけ。あんた、名前は?」
 黄山さんは玄関の扉の前に立ち、肩に下げた鞄の中からコンパクトカメラを取りだして写真を撮りはじめた。兎足氏のエンブレムが彫られている、文倉家の玄関の扉を。
「……おいおい、なんだよ。なんなんだよ、ったく」
 うしろに立つ森村刑事が小声でぼやいた。
 わたしだってぼやきたいのに。なにがどうしてこんなことになっているのか、訊きたいことが山ほどあるのに。
「あれ? ちょっとまった。なに? なんだろうね……」おばあさんが質問を中断して顔をそらし、建物の東側へ目を向けた。
「どうしたんですか」気になって尋ねたが、おばあさんがなにに注意をひかれて余所を向いたのかすぐにわかった。声。声だ。言い争うような声――声が聞こえてくる。建物の東側のほうで、男性ふたりが言い争いをしているようだ。
「まったく、なにやってんだか。あの人らは」はああ、と嘆息して、「ちょっと行ってくるよ」とぼやくようにいい、おばあさんは声の聞こえるほうへ向けて大股で歩きだした――が、数メートル進んだところで足をとめて、玄関先で写真を撮っている黄山さんを指さし、「あんたもなにやってんの」と呆れた口調で注意した。
 えぇっと……なに?
 なんなの、この状況。
 誰だかわからないおばあさんが場の中心にいて、黄山さんはといえばわたしたちを無視して写真撮影に没頭していて、少し離れたところでは言い争う男性の声。
「あ。あのう、どうしましょう」
 振り返って、森村刑事に返答を求める。
「どうするって、なにを」
 逆に訊き返された。うん。そうだろう。そうかもしれない。わたしだって質問で返したことだろう。
 向き直って黄山さんの背中を見つめた。
 なにをしにきたのだろうか、黄山さんはここに。文倉家に。
 わたしと森村刑事を連れ立って、文倉家で一体なにを?


「あぁあ――」
 おばあさんと入れ違いに姿を現したスルガさんが感嘆の声をもらし、まるで嘆き悲しんでいるかのように額を押さえて、扉の前に立つ黄山さんを直視した。
 遅れて金子さんが建物の陰から姿を現し、ややあっておばあさんも再登場。
「建物の裏でなにやってたのよ、スルガくん。まあいいわ。イチイくんから手紙を預かってきているの」
「イチイさんから?」ぱっと一瞬で表情を変え、スルガさんは黄山さんへと駆け寄った。
「おい、ちょっと待て。手紙だと」苛立った声が割りこんで、わたしの横を掠めるようにとおりすぎた。声の主は森村刑事で、あっという間に黄山さんとの距離を縮めた。「まさかとは思うが、おたくの所員に手紙を渡すためだけに、おれを足(あし)として使ったんじゃねえだろうな?」もうすっかり敬語ではなくなっている。かなり苛立っている様子だ。
「どうしたんですか、森村さん」金子さんが不安げな表情で駆けてきた。
 そのあとに続く場違いな登場人物としか思えないおばあさんの手には、文倉家の壁に飾られていた聖句が握られていて、ひとり悠長な足取りだった。
「どうしたじゃねえよ。どういうことだ?」問いは黄山さんへ。「スルガがここにきていることを知ってたのか。手紙を渡すためだけにきたなんていうなよ。東条の居場所の話はどうなったんだ?」
 黄山さんはといえば、落ち着き払った態度で、コンパクトカメラを鞄の中にしまいつつ扉の前から離れようとしていた。
「おい、答えろ。おれを騙してここまで連れて――」
「東条さんの居場所を突きとめるのは、本来、警察の仕事なのでは?」
「あ?」
「東条さんの居場所でしたら、約束どおりお教えします。しかし、本当ならば警察の方々が、早々に見つけだしていなければいけないのではありません?」
「は。はあァ?」
「失踪者の捜査担当は生活安全課ですよね。森村さんは生活安全課でしょう? 三人がどこに消えてしまったかは、ほんの少し調査をすれば、火を見るより明らかじゃありませんか」
「明らか? 東条がどこにいるのかわかってるのか? や、ちょっと待て。だったらどうしてここにきたんだ。この家に重要なヒントがあるようなことをいってたよな? それまのに……あ、そうか、扉か。あの扉か。扉に記されている印がヒントだったのか。だから写真を撮ったのか。そうか、そういうことか。そういうことなんだな?」
「エンブレムの写真は、イチイから撮っておくよう頼まれていたので撮っただけです」ふう、と息を吐きだし、黄山さんは億劫そうにスルガさんのほうへ目を向ける。「エンブレムを写真におさめるときは、扉全体の写真も撮っておくように、だって」
「は? あ、はい……すみません」唐突に注意されたスルガさんが、申しわけなさそうに頭を下げる。
「扉の印と東条の居場所とは、関係ないのか」
「ありませんよ」
「だったら、だったらなんだ? この家に重要なヒントが隠されているんだろ」
「繰り返しますが、わたしはそんなことをいった憶えはありません。廃屋へは手紙を届けにきたんです。ここに金子さんとスルガがいると聞いたので――そういった意味では、森村さんを足として使ったというのは正しい表現ですね。気分を害してしまったのであれば謝ります」
「お、おい。なにいってんだ」
「ただし嘘はついていませんよ」
「ちょっと待て」
「東条さんの居場所はお教え――」
「待てっていってんだろ!」
「ですから、東条さんの――」
「黙れっていってんだよ!」
 普段から人の話を遮ってばかりいる黄山さんが、珍しく相手から圧されて口を閉ざさざるを得なくなった――と思いきや、黄山さんは唇の端をつりあげて意地悪く微笑み、摺り足で森村刑事との間合いを半歩ほど縮めた。
 そして、冷ややかな声でいった。
 森村刑事のウィークポイントを攻めるかのように静かで、冷たく、淡々と。
「森村さん宛の伝言を、イチイから預かっていたことを思いだしました。ホール会場で顔をあわせてから、しばらくお会いしていませんけれども、その後もかわらずかよっているのですか、とのことですが?」
「…………」
「……?」
 え。
 なに? どうしたんだろう。黄山さんがメッセージを伝えるなり、怒りを露わにしていた森村刑事は、落ち着きなくそわそわしはじめて、肩をすくめるように姿勢を崩した。
「最近もまめにかよっているんです?」
「うるせえよ」森村刑事は吐き捨てるようにいい、踵(きびす)を返して、わたしのほうへ歩み寄ってくる。「なんだよ。なんで余計な伝言なんか伝えてんだよ、あの野郎は」恨めしそうに呟き、地面を擦るように足をとめて、舌打ちした。
「あの、ぼく宛の手紙って?」問うタイミングを見計らっていたらしく、スルガさんが一歩前に歩みでた。
 すると黄山さんは鞄の中に手を入れて、「これよ」とピンク色の封筒を取りだし、顔に浮かべていた意地悪そうな笑みを引っこめた。「金子さんも一緒に、手紙の中身をご覧になってください。東条さんの居場所が記されていますから」
「あぁあッ? なんだとォ」裏返った声で森村刑事がいって再度踵を返す。「そこに居場所が書かれてんのか? この家の中にヒントが隠されてたんじゃなかったのか」
「ですから、ずっと〝違う〟といい続けていたでしょう」
「イチイが居場所を手紙に書いてきてんのか?」
「まずは金子さんからです。金子さんに内容を確認していただきます。刑事課のかたが先に見たほうがいいと思いますので」
「……は? はは。なんだって?」呆れた様子の表情で問い、森村刑事は腰に手をあてて首を横に振った。「なんで刑事課が先なんだよ。っていうか、本当にイチイが居場所を突きとめて、そこに書いてよこしたっていうのか。現場を見てもねえのに? はは。冗談だろ。いくらなんでも、あの男――っていうか、手紙ってなんだ。どうして手紙なんだ」
 そうだ、そこだ。わたしも手紙であることに疑問を覚えてしまう。イチイさんは島をでているのだから、電話やSMSなどで伝えることができるのに、どうしてわざわざ手紙というアナログな手段を選択したのか不思議に思う。
「で、イチイはどこでなにやってんだ? おたくの所長と一緒に関西方面巡回中か? 東条の居場所を直接伝えずに手紙なんて方法を……あぁあ、そうか。さては推理が外れていた場合に責められることを恐れて、姿を現わせなかったとか。ははは。そういうことか」
「さっきもいいましたけど――」答える黄山さんの口調は怖いくらいに冷静で、落ち着き払っていた。「東条さんたちのいる場所は火を見るより明らかです寄り道せずに行くべきところへ一番に向かっていれば容易に解答へ到達できたはずなんです
「……?」解答? 解答、って?
 行くべきところ? 一番に向かっていれば?
 黄山さんがなにをいわんとしているのかよくわからなくて、それでもどうにか理解しようと頭を働かせているところへ、手紙を受け取って封を開けてもよいのかどうか迷っている様子のスルガさんが弱々しい口調で尋ねた。どういうことですか、と。ストレートに。
「いい? スルガくん」声のキーがあがる。問いに答える黄山さんの口調にわずかな変化がみられた。「名探偵の推理なんて必要なかったのよ。三人が建物の中に入り、入った直後に消息を絶った。話は至ってシンプルじゃない。多くのヒントを入手しているうえに、三人の〝人となり〟もつかめているんだから答えは明白。イチイくん、いってたよ。遺体の損傷が激しいだろうから、覚悟して行くようにって」
「……!」
「遺体? 遺体って……手紙を、手紙を見せてくれ!」
 割って入った金子さんがピンク色の封筒を奪い取り、素早く開封して手紙の文面を黙読する。
「金子さん?」スルガさんが隣に立って、手紙の内容を横から覗き見した。
 遺体とは? 遺体の損傷って? 頭の中を支配しはじめる嫌な想像を払いたいのだけれども、追い打ちをかけるように聞きたくない言葉が連呼される。
「なんて書いてあるんだ?」森村刑事がよたよたと身体を揺らしながら歩を進めたと思いきや、苛立たしげに地面を蹴りつけて声を荒げた。「おい、無視するんじゃねぇぞッ。なんて書いてある? 金子、手紙になんて書いてあるんだ?」
「……森村さん」金子さんが顔をあげて、苦しげな声で応え、
「くそッ」その場に留まったまま激昂し、森村刑事は再度地面を蹴りつけた。「三人はどこだ? どこに消えた?」
「そんな……それって。それじゃあ、ぼくは……」右手で首元を押さえ、左手で後頭部を出鱈目に搔きむしったスルガさんが、表情を隠すように背中を向ける。
「東条たちは死んでるのか? 殺されたんだな? そうだろ? おい、金子。手紙に遺棄された場所が書かれてるんだろ?」口調は荒く、表情も険しいのだが、森村さんは動かない。どうしてその目で確かめようとしないのか不思議で仕様がないが、もしかすると、先ほど黄山さんから伝えられた〝イチイさんの伝言〟によって行動が抑制されているのかもしれない。
「たしかめて――きますよ」ぼそりと金子さんが呟き、
 その言葉に応じるようにスルガさんが振り返って、二度、浅く頷いた。
「どこだ。なんと書いてあった?」
 森村刑事が問うも、金子さんもスルガさんも質問には答えず、建物から離れて、国道のほうへと歩きはじめる。
「おい、待て、金子! どこだよ、どこなんだ!」
「スルガさんッ?」わたしも呼びかけた。
 だけどスルガさんは立ちどまらず、顔を向けてすらくれなくて、
「東条さんのいる場所へ、確認しに行くのね?」黄山さんが問い、その問いかけでふたりの行動を理解できたけれども、「確認次第、わたしに電話してくれる?」
 スルガさんは答えずに歩き続けた。
 わたしの横を金子さんがとおりすぎる。遅れてスルガさんがとおりすぎる。
「スルガさん?」
 どうしてなにも答えないのかがわからない。
 答えず、振り向いてすらくれないのがわからない。
「……なるほど。あんたの役割は、謎解きの探偵だったってわけかい」
 場に似つかわしくない声がしたので顔を向けると、聖句を手にもったおばあさんが黄山さんへと語りかけていた。額の正面がこちらを向いていたので、書かれた文字に目がとまる。
 
〝主への従順を示すには、あなたの罪は水の中に沈め、ただしき教会で願い求めなさい〟

「手紙には……なんて?」
 無意識に、わたしは口にだして呟いていた。
 スルガさんと金子さんは、どこへ向かおうとしている?
 手紙にはなんと書かれていた? どこと書かれていた?
 その場所に――手紙に記されていた場所に、本当に東条さんはいるのだろうか。
 生きているのだろうか。東条さんは。それともすでに殺されているのだろうか。
『――名探偵の推理なんて必要なかったのよ』
 黄山さんはいった。必要なかった、と。
 東条さんたちのいる場所は火を見るより明らかであった、と。
『――話は至ってシンプルじゃない』
 シンプルなものか。
 どこがシンプルなのだ。
「代理にすぎません」黄山さんが囁くようにいった。「わたしはメッセージを伝えにきた、探偵の代理にすぎません」
「だけど探偵然としてるじゃないか」聖句をもったおばあさんが顎を突きだして、掠れた声でいい返す。
 気がつくとスルガさんと金子さんは、ずいぶん離れたところまで移動していて、その背中を苦虫を噛み潰したような表情で森村刑事が見つめていた。
「あんたたちはどうするんだい? 一緒に行かないのかい? ここに残って、あのふたりの結果報告を待つつもりかい?」
「いえ。できれば、わたしはこれから――」
 続く黄山さんの言葉は耳に届いたのだが、頭の中で理解できず、なにをいっているのか解釈することができなくて、
「お、おい、どういうことだ。いまなんていった?」先に理解したらしい森村刑事が復唱するように問い返し、「被疑者ってなんだ? 被疑者に会いに行くだと? おい、待て。なにいってんだ?」
 遅れてようやくわたしも理解した。言葉が意味をもって、頭の中に入ってきてくれた。
 これから被疑者に会いにいこうと思う――黄山さんはそういったのだ。
 被疑者に会いに行く、と。
「東条ら三人を、誰が殺したのかもわかってるのか? 誰だ、誰が殺した? 誰が三人を殺したっていうんだ?」
「ですから、これから会いに行こうと考えています」
「……あ、あの」声を発するが、誰もわたしを見てくれない。
 東条さんたちを殺害したのかもしれない何者かに、これから会いに行こうって――
「お騒がせしました」
 困惑しているわたしと森村刑事を視界から完全に外して、黄山さんはおばあさんに深く頭を下げて満面に笑みを浮かべた。
「いいよ、別に。ここはわたしの家じゃないんだから」とおばあさん。
「な、なあ、おい」森村刑事が呼びかけながら黄山さんの腕をつかむ。
「わかってますよ、森村さん」手を振り払って再度おばあさんに会釈し、顔を森村刑事へ向けると同時に、黄山さんは笑顔を引っこめた。「車の運転をお願いします。わたしと柊を乗せて、連れて行ってくれますか」
「どこにだよ」苛立たしげに森村刑事が問う。
「ですから、被疑者に会いにです」
 なにをいってるのだろう、黄山さんは。
 どうして被疑者に? なぜ被疑者に会いに行ける?
 被疑者とは、一体、どこの誰なのだ。
「はは……被疑者か。被疑者に、会いに、ねえ」怒りと困惑とが許容量を大幅に超えて頭がオーバーヒートしてしまったかのように、森村刑事は呆れた様子で喋りながら黄山さんの正面に立った。「で? その被疑者には、どこに行ったら会えるんだ?」
 息がかかるほどの至近距離で、森村刑事は蔑むような目をみせて鼻を鳴らす。
 黄山さんは臆することなく、感情をのせずに、低く静かな声で答えた。
「善き羊飼いの教会です」と。

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