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哲學思想日記 2023-W47 — Descartes; hip-hop; twink

※(2024-02-08)加筆修正してPDF化󠄁しました↓

2023-11-20/26


哲學

『方法序説』を読むたびに、自動機械(オートマトン≒哲學的ゾンビ)の不可能性についての論證が馬鹿げているなと感じる.

R. Descartes は哲學史上大變珍しい「謙󠄁虛な哲學者」だと思う。

近世の Descartes らへんの哲學書を讀むとどれほど Ἀριστοτέλης が嫌󠄁われているかわかって面白い。

それと、I. Kant まで續き(G. W. F. Hegel や解釋學あたりを飛ばして)分析哲學に至る「反哲學史」の思想。「自分の哲學が哲學史であるような人がいる」疑惑と「哲學ではなく哲學することを学ぶだろう」主義というか。

私は「近代理性主義」とやらに全面的に贊成しますし、「デカルト主義」というものも他の自然觀よりはるかに好ましいと思います。

以前󠄁、ある實存主義系の講演で、「私は現實逃避のために硏究している面もあったが、右翼の先輩は常々『その思想は現代日本にとってどのように役立つのか』というアクチュアリティを常に考えていてすごいと思った」と講演者が語っていた。私はそれを聞いて、なぜだか、「思想を役立てる」という發想が法外に卑しく下品であるように感じた。

悟りって知識なのかな. 知識じゃなくて感覺だったら言語化できないのは當たり前󠄁だと思うが。

ずっと、哲學科が哲學そのものの硏究ではなく哲學者の硏究をしているのっておかしいと思っていたけれど、よく考えたら心理學にもミシェルの一貫性論爭の硏究している人がいるし、社會學にもタルドの硏究している人がいるし、たとえば化學の敎科書にすら必ず A.-L. Lavoisier が載っているし、歷史學にも史學史があるし、或る學科內に硏究史を專攻する人がいるのはごくごく普通のことだったのかもしれない。

けれどもなおも硏究史以外のことをやっている人が哲學界には少ないというかやりづらい雰圍氣は感じるが。しかしこれはそもそも哲學という學問がなんなのか、それがいかにして可能なのか、よくわからない(あるいは、よく周知できていない)という學問の本性に基づく特殊問題もからんでいる。

Ἀριστοτέλης の硏究ってはっきり言ってそこまで面白くないな。正直に言えば私は大森莊藏とかその門下生とか廣松涉とかを研究したい。Ἀριστοτέλης の硏究をしていいならたとえば中島義道とか永井均の硏究だってしていいと思うのだが。現に存命中にも J. Derrida とか硏究されまくってたはずだし。

學問

「專門性」というのは、硏究史を追うのに費やした勞力と時間のことだと思う。むなしいといえばむなしいが。

ランケを讀みたい。

藝術

Hip-hop に戀愛歌ってあまり合わないと思う。合うのは pop か rock でしょう。Pop と rock は抒情󠄁詩で、hip-hop は敍事詩だから。ラッパーは英雄敍事詩の主人公だから。Hip-hop の歌う性愛はどちらかと言うと愛以前の性慾・所󠄁有慾か、あるいは家族愛だから。定冠詞の付く女じゃなくて不定冠詞の女だから。

尾崎豊の『十五の夜』を聞いて思ったのが、これってお子ちゃまの音樂だなということ。まあこれを rock の例とするのにも問題があるかもしれないけれど。それでも hip-hop はどちらかと言えば大人の音樂で、働く人の音樂だし、成功を目指して禁欲的に勞働するプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の音樂だと思う。

昔『こち亀』を讀んだことがあるが、両さんの商才が部長のせいで潰されてしまうのがかわいそうだと思った。

高校生の頃最も好きだった三つの和歌:

  • 花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身よにふる ながめせしまに

  • 世の中を 憂しと優しと思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

  • つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

高校古典の授業はうかうかしてると無常觀を植え付けられ真面目に生きれなくなってしまうから危ないね。

あとは『古今和歌集假名序』。「力をも入れずしてあめつちを動かし、目に見えぬおにかみをもあはれと思はせ、をとこをむなの仲をもやはらげ、猛きものゝふの心をもなぐさむるは歌なり」! 高校生の頃 LINE のプロフ欄に表示していた。

Meme の中ではこれが一番好きだ。

https://knowyourmeme.com/photos/2498401-twink-death

人として人を愛したいのに
僕は獸になってしまう
君を全󠄁燒に燔祭しそうになる
だから迷󠄁える僕を屠っておくれ

人生

「哲學思想日記」という題名、變えよっかな。「觀想實踐日記」か「週刊所󠄁感日記」か。

最近、良くも惡くも哲學に對するこだわりみたいなものが無くなってきた。だから、哲學以外に何をしたらいいのか、生き方について考えよう。

私はどう生きたいか? まず、今日が最期のように生きなくてはならない。もちろん、ここでの「〜なくてはならない」とは、私の幸福という條件付きの假言命法。なぜ今日を最期のように生きねばならないかと言えば、今日が最期になるかもしれないから。人はいつ死ぬかわからないから。たしかに、いつか科學が發展して不老不死が實現するかもしれないが、その技術󠄁が私の存命中に完成する保障はない。というより、實存しているのは今しかないのだから、常に既に今日が最期だとも言える。

私は何が好きか? 學問が。放送󠄁大學で「記号論理学」、「初歩からの数学」、「初歩からの生物学」、「初歩からの化学」、「初歩からの物理」、「社会調査の基礎」、「中国と東部ユーラシアの歴史」、「中東の政治」、「グローバル経済史」、「近現代ヨーロッパの歴史」を觀てるが、どれも面白い。しかし、こうして竝べると、どうやら法學系と工學系には(まだ)興味がなさそうだ。あとは倫理學はもう結構という感じ。善も惡もないことを悟ったので(『なぜ私は哲学をやめるのか』『哲学における私の問題意識』參照)。

なぜ學問が好きなのか? 何か「不安」のようなものがあるのだと思う。世界に對する不安が。知ることによってそれを癒したいのかもしれない。しかしそれは一つの假說に過ぎない。これは原因なのか、それとも理由なのか? 『靑色本』で L. Wittgenstein は原因を恒常的聯關として暫定的に定義していたが、 一囘的原因、つまり、きっかけとか、經緯とかもあるだろう。ある個體にだけ當てはまるという意味で非客觀な原因が。しかしこの話は關係なかったかもしれない。問題なのは、原因と理由をいかに區別できるかということ。けれどもそれも日常言語の用法を分析するしかないのだろうか。

私は思想が嫌いだ! 私は宗敎が好きだ! 私は呪術󠄁が嫌いだ! 私は科學が好きだ!

私は別に西洋思想が好きなわけではない。好きな思想家はいない。歷史の中なら、私は「近代化」について氣になっているので、近世〜近代あたりが好きかもしれないけれど、特定の國とか地域が好きなわけではないから、だから歷史學者にはなれなかったのかもしれない。

勝󠄁手な想像だが、哲學科にいる敎員や學生は、誰か特定の思想家が好きで、その人の文獻を讀むのが快樂であるような人が多いと思う。私は私の哲學が一番好きだ。アリストテレースを讀みたいのではなく、アリストテレースのように書きたい。私は孤獨だ。

ちょっと言いすぎたかもしれない。上述󠄁の通り、大森莊藏とかならもっとちゃんと讀んで硏究したいと思うので。

私が論理学に興味を持つのは、それがどこか超越論的に感じるからだと思う。これは呪術󠄁的發想であろうか?

人生に惱んだときには、天に意識を向けよう。死んだ後のことを考えよう。人生は長くても80年くらいだが、死後は永遠なのだから。


2023-12-01
2023-12-04: 修正
2023-12-07: 增補
Image by Wolfgang Weiser from Pixabay
今日の一曲:Curtain Call / KANDYTOWN, IO, KEIJU, Ryohu

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