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縦に行く旅

 これはきっと、泣いてしまう。仕事帰りのバスの中で、読みかけの文庫本を閉じた。読んでいたのは、中学生の頃に出会った本。最近、昔読んだ本を本棚から引っ張り出して読み返している。本を読んで感じたこと、思い出したこと。うまく書けるか分からないけれど、言葉にしてみようと思う。

本を開き、心を拓く

 noteに書いた記事を振り返ってみると、今年に入ってからやたらと本の話が多い。きっかけは昨年末の「文学の旅」。太宰治ゆかりの地を訪ね、学生時代に通った文学部のキャンパスを歩き、「村上春樹ライブラリー」を訪ねた。それ以来、文学熱が続いている。
 電子書籍を活用しようと思っているのに、本屋さんを覗く度に本を買ってしまう。村上春樹ライブラリーに行ってから、村上作品を再読したのをきっかけに、昔読んだ本を読み返す、というのにも凝っている。

 村上さんの『ノルウェイの森』誕生の背景を特集していたNHKの番組を見て、この小説の原型となる短編『螢』の存在を知った。読んだことがあるような気がしていたが持っていなかったので、文庫本を買った。確かに『ノルウェイの森』の世界があった。
 東京の大学に進学した主人公が大学生の頃の出来事を振り返る話なので、自分の学生時代も思い出す。タイトルにある螢は、物語の最後に現れる。闇の中に浮かぶ螢の光。淡々と続く描写が胸に迫る。

 この本の中に収められている『めくらやなぎと眠る女』の冒頭の描写にも圧倒された。五月の風についてだ。

 背筋をまっすぐのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実のようなふくらみを持った風だった。

『めくらやなぎと眠る女』村上春樹

 この後に続く文章を読んでいると、目の前を五月の風が吹き抜けていくようだ。昔だったら、さらりと読み流していたかもしれない。

 「村上春樹ライブラリー」の入口に掲げられた村上さんの言葉を思い出した。

物語を拓こう、心を語ろう  Explore Your Story, Speak Your Heart

 読み返して気づいた。誰かの物語ではなく、「Your Story」なんだと。

『キッチン』に再会

 一緒にnoteを作っているNorikoが書いた吉本ばななさんへの思いがあふれた記事を読んでから、ばななさんの『ミトンとふびん』を手に取った。久しぶりに本を読んで泣いてしまった。
 台湾、フィンランド、イタリア、八丈島、物語の舞台を旅するように読み進めた。

 以前は新刊が出る度に買い求めていたけれど、社会人になって読書の時間が減ってからは、少し遠ざかってしまっていた。久しぶりに、ばななさんのデビュー作『キッチン』が読みたくなった。二作目の『TSUGUMI』も。この二冊、人に貸したままになっていて、なぜか私は返してくださいと言えず、手元にないままだった。何となくまた買うのもと思っていたケチくさい私。

 映画館に行った帰り、初めて立ち寄った本屋さんで、ふと思いついて『キッチン』の文庫本を買い求めた。数年前に出版30周年だったらしいので、30年ぶりくらいに読むことになるのだろうか。

私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。

『キッチン』吉本ばなな

 なんて魅力的な書き出しなのだろう。話はかなり忘れてしまっていて、初めて読むような気持ちでページをめくった。この本を読んだ中学生の私は、どれくらい内容を理解できていたのかと思う。でも、今の私の方が大人になった分、感じとることができなくなってしまったものもあるかもしれない。

淡く透明なかなしみ

 『キッチン』の文庫本には、続編となる『満月 キッチン2』と、『ムーンライト・シャドウ』の三編が収められている。私がバスの中で読書を中断したのは、『ムーンライト・シャドウ』だ。高校生の頃に始まった恋を大学生の主人公が振り返る。物語の終盤、かなしくて美しい光景が描かれる。家に帰って続きを読んだら、やっぱり涙が出た。いまちょっと開いただけでも泣けてくる。

 私はだいぶ年をとってしまったけれど、ここに描かれた、みずみずしくて、切ない世界に心が動く。胸の中の柔らかい部分がぎゅっとつかまれるような感じだ。キラキラした眩しい若さのそばには、暗い影も感じる。淡く透明な、かなしみ。そんな言葉を思い浮かべた。

カツ丼と生命力

 『満月』の中で、印象的な場面がある。主人公のみかげが、とても美味しいカツ丼と出合い、これを食べさせたいと思う大切な人の元へ、タクシーを走らせる。『ムーンライト・シャドウ』の中には、かきあげ丼が出てくる。どちらの話でも、あるかなしみを共有する二人が丼に向かう。
 先日見た映画『糸』の中でも、小松菜奈さん演じる葵が、辛い出来事の後で、涙ぐみながらカツ丼を食べるシーンがあった。

 こういう時は、丼なのかもしれない。それもガッツリ油で揚げたカツ丼やかきあげ丼。ご飯と一緒に想いも呑み込む。丼をかき込む姿に、生命力を感じる。

あの頃出会った本たち

 久しぶりに読んだ『風の歌を聴け』も『キッチン』も、どちらもとても薄い本だったので驚いた。でもすごく密度が濃い。

 中学生の頃、熱心に読んでいたのは、吉本ばななさんと辻仁成さん。村上春樹さんの本を初めて読んだのは高校生の時だった。同じ作家の本ばかり読むたちなので、一時期、私の本棚にはこの3人の本ばかり並んでいた。数年前に思い立って本棚を片付け整理した時にも、これらの本は手放さなかった。

 中学時代には、あまりいい思い出がないと感じていた。学校にもあまりなじめず、楽しいこともそんなになかったと思っていたけれど、今も好きな作家や本に出会ったのは、この頃だったと気づいた。友達と本を貸し借りしたり、小説もどきを書き始めたりしていたのもこの頃だ。今はもうない学校近くの本屋さんに、新刊が出るのを待ちかねて立ち寄った。

 私という人間の核になる部分は、中学、高校くらいで出来上がっていったんだなあ、と思う。正直、精神年齢は大学生の頃からあまり変わっていない気がする。

時間をさかのぼる旅

 吉本ばななさんの『TSUGUMI』は、当時は単行本で持っていた。今回、文庫本を手に入れたので、「文庫版あとがき」というものを読むことができた。

 「もう作者にもさわれないひとつの夏がここに生きている」と書いてある。この小説は、初めて恋をした時の世界観で描かれているという。「とどめるのは、とてもむつかしいあの、独特に美しい丸い風景」。

 みずみずしくて、儚くて、甘くて切ない物語。淡いピンク色を帯びた、透明な世界が目に浮かぶ。もう二度と戻ってこない、遠い記憶だろうか。

 本を読むことは、旅にたとえられる。旅というものは、ここではないどこかへ行くこと。そう思っていたけれど、横に向かって移動するばかりが旅ではなく、縦に向かう旅もあるのではないか。時間をさかのぼるように記憶を甦らせることも、旅に似ている。遠い昔に読んだ本を改めて手に取り、そんなことを思った。過去に向かうだけでなく、未来へ向かう旅もあるだろうか。

 うまく言葉にできないけれど、懐かしい本と再会して、そんなことを考えた。心が疲れた時も、目を伏せたくなるような出来事が続く時も、本を開けば心が安らぐ。本の世界の中に閉じこもってばかりいてはいけないなとも思ったけれど、本の中が狭い世界とは限らない。
 本は世界を広げ、心を遠くへ連れ出してくれる。だからまた、本と一緒に、旅に出よう。

(Text:Shoko, Photos:Mihoko&Shoko)©️elia

▼『キッチン』30周年特設サイトがありました。1988年刊行だそうです。

▼Norikoの吉本ばななさんへの愛あふれる記事はこちら

▼「文学の旅」の記録


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