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あえて元気を選ばない

「精神的なリソース」という考え方を書きたいと思います。
リソースってカタカナでかっこつけて意味が的確かは自信ないですが…

たとえばお米が何kgかあって、それを何合ずつ炊くのか、今日多めに炊いて保温しとくのかそれとも冷蔵・冷凍しとくのか、または炊いたごはんを何人でどのくらいずつ分けるのか
モノの場合はこうやって資源をどう使うか、どう分けるかを考えていますが
こころの場合はどうでしょうか、という考えです。
私は心理学を学んできた者なので、もちろん受け売りの部分もあります。

「集中力がない」という表現があります。
やはりお米と同じように、集中も使い過ぎればいつか切れるでしょう
ただ、集中できないとき・人というのは、それが「ない」というよりも
「ある」集中をうまく使えていないのだと思います。
表向きには、目の前のことに集中したいとか、しないといけないとなっている、けど、
今ある集中というリソースは別の気がかりなこととか、本音ではもっと大事に思うこととか、その環境で入り込んでくる音や光などに割かれてしまっている
これは、この言い方だと「うまく集中できていない」ことになりますが、
一点に集中しすぎる人と、いろいろなことに意識が向いて気がつかえる人なら、どちらがいいか?という話になれば、
そりゃちょうどいいくらいがいいのではないかと思います。
さらに言えば、集中力のない人がいるというのはあまり考えにくくて、
それぞれの集中力の使い方に応じて、適した環境や役割が異なるということだと考えます。

気持ちの面での「元気」というのもそれと似ていると思います
言い換えれば「テンション」とか「気力」「やる気」でしょうか。
どうやっても、いつもどこででも元気がゼロの人というのはいます。
そういう方はきっと元気切れをしてしまっているので、ゆっくり休みましょう。
「元気があれば何でも出来る」というのは有名な言葉ですが、捉え方によっては、何をするのにも多少の元気は必要ということになります。
では、今ある元気をリソースだとして、どこにどれだけ、どのように注いでいくのかは、人によって様々です。

私の経験上の話をします。
若い頃…高校を卒業するくらいまでだと思いますが、その頃はとても起伏の激しい人間でした。
常に何かに熱中していて、嬉しいこと・楽しいことがあったら全身で喜び、悲しいこと・うまくいかないことがあれば落ち込む
そのときには自分のことを客観視できないが、誰か何かに迷惑をかけて初めて「とばしすぎた」と気付くのです。
やがて「調子に乗るとろくなことがない」というのを学んでいきました。

これは、周囲に迷惑をかけることを否定してるわけでもなく、ましてや元気であることが迷惑だと言いたいわけでもありません。
言いたいのは、元気というのは水流やガソリンみたいなもので、
今自分がどのくらいの元気を(外内問わず)放出しているのかを客観的に把握していること、その流れを管理・制御すること
歳をとるにつれてその責任が求められるようになってくるのではないかと思ったんです。

大学に入って…その原因とかの話をすると今回のテーマからはズレる気はしますが…気分が沈んだ状態が続いたような感じ、そのときの自分は「ずっと暗いトンネルを通っているみたい」と思ってましたが
ももクロのライブに行くようになったのもその頃からなので、そこで元気を爆発させるようになったからかもしれないけど、
そのあたりの時期から、私はだんだんと「元気を出しすぎない」ことを意識するようになりました
先の学びによるものでもあるし、元気を出すと疲れることがわかったからでもあります。
変な話ですが、これが私の「いつも元気でいる」ための秘訣でもあります。

精神的なリソースも、物質的資源も無尽蔵にあふれてくるわけではありません。
かといって、どう使わないといけないと誰かに決められる筋合いもありません。
だけど、自分は何も考えなかったらどう使っていく傾向にあるのか?というのを把握しておくと、
意識的にセーブしようとか、ここはちょっと頑張りどころだぞとか、作戦が建てられます。
共感してくれる方がいたら嬉しいです。



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