重度認知症救急の世界
認知症は記憶の問題だと考える人がいる。
病院でも、物忘れ外来と銘打っている。
政府広報でも、物忘れについての啓発が中心になっている。
重度認知症の世界は、視界に入らないようになっている。
まず、重度認知症とは何かを伝えよう。
それは、尿失禁、便失禁が出現し、語彙が6つ程度になった状況のことだ。
Functional Assessment Staging of Alzheimer's Disease(FAST)の7と言い換えても良い。この分類は、アルツハイマー型認知症がどのように進行していくかを示す。アルツハイマー型認知症は、認知症の40-60%を占めるから、典型的な認知症の経過と言い換えても差し支えないだろう。
多くの認知症に関する啓発文書は、せいぜいStage 5 までしか触れない。
認知症は笑顔を失い、死に至る病とは、誰も啓発しない。
しかし、認知症は嚥下障害を引き起こし、誤嚥性肺炎により死に至る疾患である。
ここまでで重度認知症がどのようなものか、なんとなく理解できたと思う。
救急要請を契機に入院するのは、たいていFAST6か7の患者さんだ。
典型的な認知機能は、名前は言える。自分のいる場所や今の季節はわからない。食事は準備すれば自分で食べる。入浴、着衣、排泄には介助が必要というレベルだ。
こうした人が誤嚥性肺炎で入院し、1~2か月病院で過ごす。150万から300万円の医療費が使用される。
食事形態を落として、より誤嚥しづらい食事に切り替えて施設に帰るか、食事が食べれなくなって、長期療養型病院に転院する。
何か月かすると同じように誤嚥性肺炎を起こす。
同じくらいの医療費が使われる。
本当に入院が必要だろうか、という疑問が生じるだろう。
別に優性思想というわけではない。施設で抗生物質を内服しながら、接種可能な食事を摂取した場合は入院に比べてどのくらい劣っているのか?という観点だ。
残念ながら advanced dementia pneumonia[Title/Abstract] でpubmedで検索をしても、施設と病院、どちらで抗菌薬治療をするのがどの位優れているかに関する、日本の論文を見つけることはできなかった。
一方で、ブラジルの研究では、進行した認知症患者が気管支肺炎を発症したことを想定したとき、45%の医師が抗菌薬使用しないことを選択すると回答している。
また、アメリカ、ボストンの研究では、重度の認知症患者を入院させることは、施設で過ごすことと比べて、3697ドルのメディケア支出増加と、9.7日分の質調整生存日数の短縮と関連している、費用対効果の低い治療だと報告している。言い換えると、お金がかかって、質的評価も加えた生存期間が短くなる、という評価だ。また、こうした入院を避けるには、Do not hospitalized指示、つまり入院を希望しない事前指示が重要であると、記載されている。
僕は寡聞にしてこのDo not hospitalized指示に類するものを日本で聞いたことはない。
最後に、こちらもボストンの研究になる。2008年から2009年にかけて、進行した認知症の施設入居者225人の肺炎に関する研究だ。ここでは
8.9%が抗菌薬なし、55.1%が経口抗菌薬、15.6%が筋肉内注射、20.4%が入院で静脈内抗菌薬注射を受けたか、単に静脈内抗菌薬注射を受けた。
肺炎後の死亡率は、無治療と比較すると、経口抗菌薬が0.20(95%信頼区間 0.10-0.37)、筋肉内注射 0.26(95%信頼区間 0.12-0.57)、静脈内注射or入院 0.20 (95%信頼区間 0.09-0.42)と、入院による点滴治療と施設での経口抗菌薬で、肺炎発症90日後の生存率に統計学的有意差はなかった(無治療 32.8% 経口 64.5% 筋注 56.7% 点滴or入院 60.6%)
そして、快適性のスコアは、抗菌薬を使用しなかった群が最も高く、点滴静注を受けた群が最も低かった。
彼らの結論は、「抗菌薬による治療は、肺炎に罹患した認知症の施設入居者の快適さを改善せず、積極的な治療は大きな不快感を伴う可能性があることを示唆している」というものだ。
この研究結果を受け入れることは医療従事者にとっては、赤い薬になりえる。重度認知症患者の誤嚥性肺炎の救急医療は、お金を無駄に使っているだけで、かえって患者さん自身の体験を悪化させているのではないか、と疑念を抱くようになってしまうからだ。
一度疑念を抱けば、今までと同じように働くことは難しくなるだろう。
勿論、日本の医療はもっと丁寧なので、患者にとってより良い体験を提供しており、予後改善効果も高い、と主張することはできる。
データさえあれば。
でもそれがない。
少なくとも僕はpubmedで見つけることができなかった。
もしあるなら教えてほしい。
少なくともこの研究は、患者さんが少ないからできない、ということはありえない。
前向きコホート研究であれば、倫理的に不可能ということはない。
予算がない?特殊な医療機器は必要ない。
誤嚥性肺炎患者が一か月入院加療を受けるために必要な医療費(150万円)があれば、十分な研究ができるだろう。
まず何よりも、進行した認知症患者に対する救急医療がどのくらいの規模なのか、救急搬送のうちどれくらいの割合を占めているかを確かめることが必要だろう。
Do not hospitalized orderについて話し合うこと、つまり施設に入所するときや、病院を退院するときに、どのようなときに救急要請をするべきかについて話し合っておくことは、社会保障制度を長持ちさせるために、大切なことかもしれない。