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10/15 怒りの正体

   この日は、なんやかんやファームの「第1回門前町フリマ」と「占いしかうらないマルシェ」の日。
 キッチンの仕込みに行くために朝起きると、目の奥がかすかに痛かった。
 疲れなのか?生理前の体調不良か?何かから逃げようとして体調不良を作り出したのか?という思考がダダダっと頭をよぎった。

 深く呼吸をすると、「この痛みを体験しているのは、私にとって、どんな機会なのだろう?」と自分への問いかけが出た。
 以前のCulgoa Worksさんのボディケア『目の痛み=肝臓からくる=怒り』だ、ということがふわっと浮かび上がってきて、私の肝臓=怒りの感情は、ずっと滞っているということを思い出した。背中の、肝臓の裏に当たるところは、押されると、痛いまで行かず、くすぐったいのだ。
 今日の私は「私は何に怒りを感じているのか」を知る日にしようと決めた。

 キッチンで、この日の私は、工程を進めるための時間に焦ってはいなかったが、なんとなく落ち着きがなかった。
 昨日の講座を受けて振り返った『変化したくない時は、”楽”か”面倒”の二極論を持ち出してきて、”楽”だから、”面倒だから”という理由で過去と同じやり方を採用する=工夫が生まれない、という生き方をする自分』に対して、責める思考が湧いてきていたからだ。
 「ああ、そうだな。一時の楽を取っていて、工夫していなかったな。」と、すんなりと受けとらない自分がいた。

 責める思考が出てくる時は『変化したくない自分』がいる時。
 『何故受け取らないのだろう。何故、そこまで変化したくないの?』

 書きながら再度自分に問い直すと
 「ああ、変化することの喜びよりも、(一時の)楽を選びたい自分がいる 
 んだな」ということを知った。
 (一時の)楽、の誘惑は、私にとっては強烈だ。
 それは私の今世の目的『忍耐』『機を待つ』力をピカピカに磨きあげることを、サクッと忘れるほどに。
 目的を果たせなかった場合、「また来世で向き合いましょう」と、続くことを私は知っているが、持ち越すことが多ければ多いほどいつまでも同じことの繰り返しになることも、私の魂は知っている。
 そして、(一時の)楽を選ぶことは、『身体がただ生きているだけで、魂は死んでいる』ことのゆるやかに確実に繋がっていることも、私は知っている。
 「楽」「面倒」の細部を観ることにする。

 また、キッチンで、
 自分自身が変化する時の『過渡期』のことについて話した。
 ”理想の(未来の)自分”と、”現実の自分”が、揺れ動きながら、
 徐々に『変化する』方向に進んでいっている。
 『今、私は行ったり来たりしながらも、変化を望む、その変化の過渡期にいるんだよ。』ということを自分の意図通りにうまく伝えられることが少ないと感じ、自分自身に腹が立っている』ということを知った。

 私の伝え方では『変化したくない自分を観たくないから、変化している自分の話をしている』という風に伝わることが多い。

 ・・・あ。
 相手に、上記のように伝わっているということは、
 事実私は『変化したくない康子』がいることを知りながら、
 ないがしろにしていた、ということを知った。

 そうか、私の『怒り』の1つに、
 『変化したくない康子』からの
 『私の声も聴いて、私のことをいなくしないで』という、
 無視しようとする自分への怒りがあるのだ、とまた知った。
 すぐ、自分の一部を消そうとするよねー、と、少し自分にあきれるし、
 寂しいと感じる。

【寂しい】
あるはずのものやあってほしいものが欠けており、気持ちが満たされない様子。

「社会人の教科書」より

 じゃあ、聴こうね。
 深くため息をついて、ゆっくり息を吸って・・・・

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 康子『何故変化したくないの?』

 康子A『だって、一時しんどいじゃん、慣れない時はエネルギーを使うじ 
 ゃん。うまくいくこともあるけど、うまく行かないことの方がこの時期多
 いじゃん。しかも今度の工夫は、主に”子供たち””日々の家事””むねじへの 
 愛情表現”に関することだよ。
 自分だけでなく、他者を含んだ変化をするんだよ。また1つ、大きな
 飛躍があることはなんとなくそうだと知ってるけどさ、
 やっぱ怖いんだよ、うまくいかなかったということに、ダイレクトに相手
 を巻き込んでしまうから。』

 康子『関心の輪を広げること、自分と他者が相互に関わり合っていることをもっともっと実感しながら実践していくことで、今までの自分がいかに自分だけに夢中になっていたかを実感するのが、怖くなっているんだね』

 康子A『それな。怖いんだよ。今まで自分だけに夢中になっていた、ということを、無邪気に堪能してきたのに、それを違う視点で見るのが。』

 康子『康子よ。自分とかなり近い価値観の窓を持ちながらも、
 生き辛そうに生きている人を感じた時を思い出すのよ。
 その人たちは康子にとって師だ。
 今までは、そういう人たちと、自分や相手の傷を舐めあう関係だけを築いて生きてきただろう。
 だけど、今は、”自分にもある”価値観だからこそ、
どんな風にその人が世界を捉えているのかを実感しつつも、
今の自分で感じ考えていることを表現することが、始まってきているじゃないの。
 1つ1つ丁寧に実感した先のお前は、自分を保ちながら、体験・経験に基づいた共感を持以て相手と共にいることが、1つ1つ出来るようになってるんだよ。それを誇らしいと、康子が一番知っているでしょう。
今回も、その機会が巡ってきたのよ。』
 
康子A『そうか、そう考えると、恐怖はあるんだけど、足つぼの痛みを大げさに作り出した時と同じで、恐怖を大きく膨らませすぎていたな。子どもたちやむねじと、感じ考えていることをシェアしながら、体験し、検証し、経験にしていく勇気が湧いたよ。』

康子『うん。怖さを増幅させることで、怖い=先送りにしていい、取り組まなくていい、ということにしていた過去が長かったものな。
怖さがあることを知りつつ、自分のことも他者のことも信頼しながらやってみよう。そして、怖いと感じたら、また何度でも話をしようね。』

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  という会話になった。

  さて、どんな変化があるのか、検証するのが楽しみだ。
 
 
 
 


 

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