「常識人間」の命日
前書き
僕のキャラクターをもっともストレートに表しているコラムです。
勤務校で、新クラスを立ち上げた際、生徒保護者にぶつけた文章です。
「常識人間」の命日
「勉強が好きだ!」――僕が君たちと同じ年齢のころ、この科白を教室内で言うことは出来なかった。理由は2つある。あまり勉強が好きではなかったことと、「この空間でそれを言うべきではない」と直感的に理解していたからだ。
だから当時の僕は、自分の意志で部活(バスケ)に打ち込み、自分の意志で勉強をなまけ、自分の意志で塾に行った時だけきちんと学んでいた。
部活を引退した後、本格的に高校受験に向けて受験勉強に舵を切った。
良い仲間と先生に出会えたことで、何とか成績は良くなり、勉強の楽しさも分かってきたが、今思うとそれは、「問題が解けるようになること」が楽しかったのである。
しかし依然として、先述の台詞を学校の教室で言うことは出来なかった。理由は2つある。「この気持ちは、受験が終われば消えるんだろうな」と思っていたのと、「この空間でこの喜びは共有されるわけがない」と直感的に理解していたからだ。
常識――。そう、僕は「常識」に囚われていた。
自分の判断自分の生き方に自信が持てない時、いつも「常識」に逃げたり、責任を押し付けたりしていたように思う。周りと比べてどのような位置にいるか、ということに振り回されていた。
そんな生き方をしている時に、僕は太宰治に出会った。常識にとらわれた男が太宰治にハマり、急に文学にどっぷり漬かるという非常識な逆説的事象。
『人間失格』の中には、
という有名な科白があるのだが、当時の自分に言ってやりたい。「世間と言うのは、俺じゃないか!」
「芸術は爆発だ」という言葉は聞いたことがあるだろう。「太陽の塔」でおなじみの芸術家、岡本太郎の言葉だ。直前の文を君は知っているだろうか。
去年読んだこの本に、僕は魂をえぐられた気がした。全ての迷いや悩みが吹き飛んだ気がした。前例、人間関係、道徳、社会通念・・・そういった「常識」とはなんと下らないことか。
そんな屑みたいなものに囚われて、自分に与えられたチャンスを何度潰されてきたことか!なんと愚かで小さい存在であることか、天秤の反対側には塵しか載っていなかったのに!!
――自分の中の「常識人間」を殺した瞬間だった。
「生徒には本音しか通用しない」
これは教師なら経験から知っている。だから僕は、この僕の生徒たちには本音しか語らない。自分が本気で学んで心から納得したものだけを授業で語り続ける。
前例に囚われず、自分自身がチャレンジし続ける。そんなことを可能にしてくれた君達には本当に感謝しかない。20年後の今、世界は180度逆転した。
だから俺は今なら言える。勉強が大好きだ!そして心から幸せだ!