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心を震わせるのは言葉じゃなく声かもしれない

こんにちは!どさんこ大学生RUNAです。
猛暑の中、マスクで汗が大変なことになっている今日この頃ですが…
マスクをつけて外に出るのは、生活の一部になりましたね。
 
マスクで表情が見えづらいのは、しょうがない。
だからこそ、何を言っているか、どんな気持ちなのか、その人の“声”に注目するようになっている人もいるのではないでしょうか?
 
今回は、そんな“声”にまつわることについて気づくことがありました。

朗読から教わった感情

前回の記事で“感情”について触れ、思い返すことがありました。
それは、「考えすぎな性格」の私になる前、小さい頃のこと…
難しいことを考えず、そのものを楽しむことができていた瞬間がありました。
 
それが、毎週放送されていた「まんが日本昔ばなし」です。
怖い物語ではドキドキが止まらず、悲しい物語では涙を流し、面白い場面では笑いが止まらなくなる。そんな普通の喜怒哀楽がおもしろいくらい自分の中から登場してきました。
 
話自体は絵本で読んでいるから知っているのもあるのに…
なぜ、こんなにも心が動くのだろう?
この疑問に小学生の私は、物語を読んでいる人が理由だと思い、母に聞きました。
 
そして、「市原悦子さん」と「常田富士男さん」を知りました。
『むかぁし、むかし』から始まる。
おふたりの独特な声、ゆっくりな語り口、役柄によってまるっきり違う話し方…
セリフに込められた感情が心の奥底まで届いてきます。
 
声には、そこに乗っかっている言葉以上のものを伝える力があるのかもしれません。

文字の言葉と声の言葉

不安な状態に陥ると、頭の中にバァーっと言葉が流れ込んできます。
誰かに言われているわけではありません。

人がいる静かな空間でも、1人の時間でも、忙しなく誰かの声が聞こえてきます。
ですが、ぜんぶ自分の声です。

「また内容の無い意見言っているよ」
「もう少しわかりやすくしゃべればいいのに」
「今日もダメダメだなぁ〜呆れる」
 
ほんとうに全くその通りです…。

アイデアを出さないといけない時、集中しないといけない時……。
ふと浮かんできた自分の嫌なところが再生され始めたり、批判的で否定的な言葉たちを並べたりして、自分にネガティブな言葉を浴びせてしまいます。
 
生まれた頃、言葉を文字ではなく、“音”として、“声”として耳と口を通して覚えたはずだけれど…今は文字としての言葉を見る機会、文字をコミュニケーションのツールとしてやり取りする機会の方が多くなっている気がします。
 
誰も言っていない自分への言葉は、きっと文字として見たものだったのでしょう。
または、前に言われたことだったのでしょう。
 
コロナ禍を機に、ネット炎上などで言葉が凶器になることや、はたまた誰かを救う安らぎを与えるものにもなることが以前より可視化されるようになりました。
 
声はその人だけのものだから、その言葉を使う人の心や思いまでもが現れます。
ですが、文字で見る言葉に絵文字や記号がついていたとしても、その言葉では相手の気持ちを想像するしかありません。

その上で、事実ではない言葉は受け入れる必要はないですが、言葉から相手の気持ちは受け止められるかもしれません。
 
でも、私の場合は文字としての言葉に対する想像が自分の声となって頭の中をごちゃごちゃさせていたのです。
 
私は、同年代の友達に驚かれるほど、SNSよりも電話など声を聞きたくなります。
 
「元気にしてたかい?」
「うん、元気だけど」
 
あれ?元気に「だけど」が入っている。
何かあったのかもと要らぬ想像をしてしまいます。
 
だから、「落ち着いたら電話しよう」っていうんです。
電話をすると、やっぱり感情がわかりやすいと感じます。
それは、その人の気持ちを声が代弁しているからかもしれません。

自然の音、ただ聞いていませんか?

子供の時は、すべてが新鮮だから聴き入ることができました。
 
ミーンミーン、リンリンと鳴く虫の声。
ビュービューと音を立てる風の声。
ぽつぽつ、ザーザーと降る雨の声。
これらの自然の声には、すぐ反応していました。
 
ある時、甥っ子に話しかけても、ぜんぜん聞こえていないことがありました。
「あ、あそこにセミいる! あ!あそこには…」
自然の音に没頭できているからこそ、逆に人の声が聞こえないのかもしれません。
 
それに比べ、私は、自然の音を“ただ聞いている”ことが増えたように思えます。
色んなことを聞いているけど、本当に聴いていることって、少なくなっているのかもしれない。
 
音や声など、自然に耳に入ってくるのは、“聞く”。
積極的に、理解しようとして進んで耳をかたむけるのが“聴く”。
 
SNSの普及で、私たちの声にのせた言葉が行き場を失くしたように思います。
だからこそ、コロナ禍になって、以前よりラジオを聴く時間が増えた人がいたり、オーディオブックが人気になったりなど、聴く時間を自ら増やす方がいるのかもしれません。
 
私は、コロナ禍になってからサンボマスターのライブに行く機会がありました。最後に行ったのはコロナ禍以前で、約3年ぶりのサンボマスターでした。

朝や落ち込んでいる時、元気を出すためによく聴いているはずの歌たちが、その空間ではまた違っていました。
 
歌が、ボーカルの山口隆さんの言葉たちが、心に触れているように感じたんです。
声のふるえ、かすれ、感情が振動して心に伝わってきました。
そして、私はびっくりするほど号泣していました。
 
その時、詩人の谷川俊太郎さんの言葉を思い出しました。

「声は触覚的だ。声になった言葉は脳と同時にからだ全体に働きかける」
 
ほんとうに声と心が触れていると感じることがあるんだと、そのライブで実感しました。
 
自分の声を1番近くで聴いているのは、自分自身ですが、言葉をかける相手が自分でも知らない人でも同じように声帯振動させ、声の通り道が共鳴し、私たちの声が出ています。
からだを使って奏でられているその声は、自分に影響を与えています。
 
山口隆さんが全身を使って奏でた声は、山口さん自身だけじゃなく、ライブ会場全体の人に届いていました。
きっとずっと消えないで、私のからだ全体に宝物として残っています。

記事のなかの声

歌詞を見ていなければ、音楽を聴いている時、ただその曲に感動してしまいます。
小さい頃から好きな市原悦子さんと常田富士男さんの朗読を今でも覚えています。
セミの声を聞いて、「夏だなぁ」と感じます。
 
声や音には、“考える”よりも前に“感じる”という感覚があります。
その声や音を聞き逃さないように、誰かの言葉を積極的に聴いていたいと思います。
 
記事に込められる文章や言葉たちは、声としては伝わりません。
ですが、私が心から感じた”声の言葉”を”文字の言葉”として記事のなかに書き、読んでくださる方がさまざまな感情を持ってくれたら、それは記事のなかで言葉を交わすことになるのではないかと思うんです。

心の声は大きい声にして叫びづらいので、溜め込んだり隠していたりすると何を感じ、思っていたのか忘れてしまいます。
そんな時、記事のなかの声に共感したり、しなかったりと「話して」みて、少しでもみなさんがご自身の心の動きに気づけるような記事を届けられたらいいなと思います!
 
最後まで、読んでいただきありがとうございました。
 
Text by どさんこ大学生RUNA



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