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【自己紹介】幼少期から人生を赤裸々に振り返ってみたら、大卒ニートがなぜ起業に至ったのか分かった

はじめまして、株式会社ブレイク代表の小川と申します。

紆余曲折(詳細は本編で)を経て2016年10月に起業し、現在はWebマーケティングを主軸に事業を展開。主にWeb広告運用代行やLP制作をメインに、Google・Yahooの認定代理店として様々な業種・業界のクライアントを支援しています。

また、そのノウハウを活かして、年間500名以上が参加するオンラインWebマーケティング講座"BMP(Break Marketing Prgram)"を運営。未経験・他業界からWeb業界に転職したい方や、副業・フリーランスを始めたい方、Webマーケティング人材の育成や専門部署を立ち上げたい企業の支援を行なっています。

様々な教育機関で登壇、講師を担当
くまモンを着て熊本のニュース番組に出演
内閣府が推進するデジタル田園都市国家構想のプロジェクトに採択されました

今回ふと思い立ち、自己紹介も兼ねて幼少期から現在まで、自分の人生をまとめてみる事に。

弊社は「Break The Border」という理念を掲げているのですが、これは僕自身の原体験から来る「人生そのもの」でもあり、なぜ自分がこの言葉にたどり着いたのか?を改めて振り返る、とても良い機会になりました。

弊社理念

かなり赤裸々に書き連ねているのですが、写真だけばーっと見ても、なんとなくどんな人間だか分かっていただけるかと思います。

当時のリアルな悩みや失敗談も結構書いたので、

・進路に悩んでいる学生や社会人
・これから起業を考えている方
・未経験からWeb関係の仕事を始めようとしている方

には参考になるかなと。

ラストには、僕がこの会社・事業・人生を通じて創りたい未来について書いています。お時間ある方はぜひ最後まで読んでみてください^ ^


基本情報(家庭環境・性格等)

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手前の一番左、四人兄弟の長男として生まれる

名前:小川佳祐(おがわけいすけ)
生年月日:1985年10月27日
血液型:B型、動物占いは狼
出身地:東京都小平市
主な出没地域:東京、大阪、熊本、岐阜、大分
最終学歴:早稲田大学社会科学部(2009年卒)
好きなもの:サッカー、旅、読書、漫画、麻雀、サウナ、宇宙
嫌いなもの:パクチー、レバー、細かい作業

サラリーマンの父親と専業主婦の母親の元に4人兄弟の長男(男・男・女・男)として生まれる。基本優しくてサッカー大好き、つまらないギャグを連発する父親と、「うちはお金がないのよ(怒)」が口癖の教育熱心な母親。
子供の頃から「いい学校に行って、いい会社に就職するように」と言われる環境で育ちました。人見知りで目を合わせて話すのが苦手で、コンプレックスだらけの幼少期。

サッカーへの情熱と異性に目覚めた小学生時代

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小学校の卒業アルバム

ザリガニ取りとポケモン・ミニ四駆にハマる普通の小学生。父親と友達の影響を受けて、小2でサッカーを始めたが、太っていて足が遅く、劣等感の塊だった低学年。Jリーグ開幕でプロサッカー選手になる夢への情熱が着火し、朝6時起きで自主練を始め、上達したことをコーチや周りの友人に褒められたことで、サッカーにますますのめり込んでいく。

この時期から女の子にモテたい願望が目覚め、横浜マリノスのウインドブレーカーがカッコイイ服装だと勘違いして毎日着て登校。

本気でプロになりたいと思った中学時代

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中学校の卒業アルバム

入学した地元の中学校はサッカーが強く、上下関係を叩き込まれた最強かつ最恐な先輩方(都大会ベスト4)と共に、鬼コーチのもとで、徹底的な走り込み × 基礎練習 を何度も繰り返す日々。(いわゆる昔の体育会系部活そのもの)

練習は死ぬほど嫌だったけど、その甲斐もあってか徐々に上達。サッカーの面白さにどっぷりハマり、夜中まで公園でボールを蹴り続ける。レギュラーにも選ばれ始め、中学3年生時には地域トレセン選抜候補に選ばれたことも。

学校生活ではヤンキーになりきれない反抗期が到来し、中途半端に先生や親に歯向かうダサいやつ。中3で人生初めての彼女ができるも、シャイすぎて半年間手も繋げずフラれて終了。

挫折して夢を諦めた高校時代

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高校の卒業アルバム

ギリギリ間に合った高校受験の末、サッカーの強い地元の進学校に入学(都立国分寺高校)。念願のサッカー部に入ってみるも、部員が120人以上在籍する各地のうまいやつが集まる環境。中学時代はちょっと選抜に選ばれて天狗になっていたが、上には上がいる事を嫌と言うほど思い知らされる。

高校3年時には1軍に選ばれず、サブチームで過ごすことに。そんな中、部内で「こいつには勝てない」と思う一番上手い奴でも都選抜までしか選ばれない現実を知り、自分の限界を感じ、諦めてしまったサッカー選手への夢。

途中で部活をやめようかと迷うも、なんとか苦悩葛藤しながら最後までやり切った高3の夏。

彼女にフラレる恐怖から死ぬ気で勉強した受験生活

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早稲田大学の受験票。受験直前で死んだ目をしている

勉強面でも入学してすぐに挫折。中学では上から数えた方が早かったので調子に乗っていたけど、所詮自分は井の中の蛙だった事を実感。勉強嫌いになり、遅刻・サボり・赤点を繰り返す(常に学年 350位代 / 360人)。

ダメ学生過ぎて「周りのやつが勉強できないのはお前のせいだ」と教師に言わたことも。

高2の時、文化祭のミスコンに入賞するくらい可愛い彼女が奇跡的にできる。彼女は勉強でも学年TOP5に入る才色兼備なダンス部の人気者であり、かたや自分は高3春の時点で全国模試の偏差値40台の落ちこぼれ。彼女は推薦で大学進学が早々に決まり、もし浪人したら捨てられるという危機感を本気で持つ。

とにかく彼女にフラれたくない一心で1日18時間の勉強生活スタート。部活を引退した夏から坊主にし、狂ったように全エネルギーを勉強に集中。

上昇気流 → どん底から奇跡の早稲田大学現役合格

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早稲田大学の入学式。14号館前

時間的、経済的な理由で3教科で受験できる公立大学(都立大学)に狙いを絞って猛勉強。彼女・家族にも支えられ、順調に成績が伸びて偏差値40台後半→60台まで一気に上げることに成功。

そして迎えたセンター試験当日。英語、世界史は合格点をクリアするも、国語でまさかの回答する問題自体を取り間違えるという凡ミスを犯す。終了直後の自己採点時に気づき、帰り道に本気で線路に飛び込もうかと考えた。

時間はかかったが、ここまで努力してきてこのままでは終われないと切り替え、親に頼み込み4校だけ私立受験をさせてもらうことに。彼女と同じ大学・学部を受けるも、あっけなく撃沈。

次々と不合格の知らせが届く中で浪人の準備をしていた頃、早稲田大学社会科学部だけ奇跡的に合格。職員室へ合格報告に行くと、全教員に「まさかお前が早稲田に...」と驚愕される。

サッカーへの情熱が再燃、ガチンコ体育会系サークルへ

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大学3年時、サッカーサークル日本一決定戦直前の練習風景

夢の大学生活がスタートするも、結局彼女にフラれる(号泣)。最初は遊び系のサッカーサークルに入ってみるも、何か物足りなさを感じる。

結局、超体育会系でメンバー100人越えのサッカーサークルへ入る事に。全国経験者やJユースなど、全国の上手い人が集まるハイレベルな環境。創設50年以上、元日本代表の岡田監督も所属した「稲穂キッカーズ」。目標はサッカーサークル日本一を含む春夏秋の三冠達成。

自分のサッカー人生への後悔を、泣きながら先輩に話した
ある日の飲み会で、大学生活で自分のサッカー人生を完全燃焼すると心に誓った。

典型的なダメ学生としての生活を満喫

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雑誌発売からしばらくの間「今日も毛先がキュートじゃん」といじられた

週3回、朝8時からの練習と、毎週末の試合に明け暮れていたため、授業は単位の取りやすさを最優先して選択(必修は英語のみ)。朝サッカーの練習をしてそのまま仲間と昼飯、一応授業に出るがほぼ昼寝、そのまま夜はバイトor飲み会を繰り返す日々。この頃に麻雀の奥深さを知り、授業をサボって雀荘に入り浸る。

サークルの飲み会はめちゃくちゃ激しく、酔い潰れて気付いたら財布無し・靴無しで新宿駅ホームで目覚めた事も。合コンにも参加し、女性への苦手意識を克服したが、ゼミの中で三角関係に巻き込まれ、居場所を失う事件発生。

いわゆる「大学生活」を桜花するも、漠然と感じていた将来への不安。

苦しみながら達成したサッカーサークル日本一

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サッカーサークル日本一達成時の集合写真

大学3年、副幹事長として迎えた自分たちの代。

仲間のモチベーションの差に苦しみ、チームマネジメントの難しさを実感。メンバー100人越えの大所帯のため、飲み会や合宿等の運営にも苦心。悩みすぎて心療内科に行って精神鑑定を受けるも、正常と言われる。

春・夏と勝てず、やっと一致団結し始めた冬のリーグ戦前。毎試合ギリギリの戦いの中でなんとか関東1位になり、埼玉スタジアムで開催された日本一決定戦で勝利。念願の日本一を達成し、最高の形でサッカー人生に幕を閉じることができました。

漠然とした将来に悩み苦しんだ大学3年生の後期

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ゼミの研修旅行@香港

大学3年になると、それまで誰も触れなかったのに、急に話題に上がる「就職活動」。周りの仲間がOB訪問や企業分析を始める中、全然やる気が出ない自分。サッカー選手の夢を諦めて以来、これからの自分の人生について初めて真剣に考えた結果、昔からの夢だった海外留学を決意。

親に相談するも「うちはお金ないから」と即却下され、なんとか自力で行く方法を探していると、ワーキングホリデーという制度を見つける。ほぼ毎日サークルに熱中する傍ら、バイトを3個掛け持ちして渡航費・生活費を貯める。

人生を変えたオーストラリア「流学」の1年間

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田舎町で羊や鶏の世話。屠殺を経験

ワーホリでのオーストラリア行きを決断したきっかけは、完読後に衝撃を受けた岩本悠さんの「流学日記」。己の肉体ひとつで世界を冒険する姿に憧れを抱き、普通の留学では絶対に出来ない経験をすると心に誓う。

サークル引退後、バイトで貯めた費用を基にメルボルンへ。所持金10万で渡豪したため、すぐに現地で仕事を探してなんとか生き延びていた。サッカーを通じて出会った人達に本当に助けてもらいました。

メルボルンで働いていたバー

滞在期間残り3ヶ月で所持金5万円で始めたAUS大陸半周の旅。命について学んだ、ド田舎の牧場での鶏・羊の屠殺経験や、旅資金をガッツリ稼いだ野菜工場での生活。地球の大自然を体感したスキューバ・スカイダイビング、多国籍な仲間と野宿しながら旅したウルル(エアーズロック)への道。

野宿していた仲間をディジュリドゥで起こす

どんな状況でも生きていけるという漠然とした自信と、自分の力で稼いで自由に生きる楽しさを知る。1年間の流学生活で得た英語力と根拠のない自信を胸に、意気揚々と帰国。

社会の中での自分の現在地を思い知らされた就職活動

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地元メンバーと2008年年越し@お台場

帰国後、すぐに就活を開始するも、早々に海外で身につけた自信をへし折られる。自己分析にどハマりし、「自分の本当にやりたいことって何?」という悩みにハマり続ける。この時に自分のルーツを探りたいと思い、家系図を作り先祖がどんな人たちだったのかを深掘りし、曽祖父が大分空港の創設に関わった経営者・県議会議員だった事を知る。(大分県国東市に銅像あり)

どうせやるなら徹底的に就活をやり切ると決め、100社以上の説明会に参加。とりあえずマスコミや大手企業を片っ端から受けるも全滅。こじつけの志望動機に、自分の薄っぺらさを思い知らされる。

自分の将来に幻滅していた中、ベンチャー企業に就職したサークルの先輩との飲み会で転機が訪れる。社会の中でチャレンジする「経営者」という生き方を知る。

色々なベンチャー企業の経営者に話を聞きに行き、自分と同じような感性を持って、社会の中でチャレンジし続けている社長たちに憧れを抱く。

自分の軸を「起業」に定め、就活を再スタート。1日中都内を走らされた「超ブラック企業」の選考体験。自分の軸が明確になった影響か、最終的にはびっくりするぐらい簡単に4社内定を獲得。

4社から内定を貰うも苦悩の末、全て辞退

丑年の初日の出を牛で迎える

リクルートなど数社の内定をいただくも、どこに進むか決められず悩む。いろんな人に相談するも、意見がバラバラすぎて余計に決断できなくなる。

社会のレールから外れる恐怖が強かったため、お世話になっていた経営者の方に「とりあえず大手企業に入って3年間修行を積もうと思う」と相談したところ「本当に起業して成功するやつは今すぐやっている」と言われて凹む。

悩みすぎて原付で富士山の麓に行き、野宿しながら2日間瞑想(迷走?)をした結果、やはり自分の原点は「チャレンジ」にあると悟る。

会社のブランドではなく自分自身の力で勝負したいと考え、全ての内定を辞退し、卒業と共に起業をすると決意。両親に自分の決断を伝えるも「なんのために大学まで行かせたと思ってるんだ」と勘当される。

大学を中退しようと考えたが「自由にしてもいいが、とにかく卒業だけはして欲しい」と言われ、約束は守ることに。

心の赴くままに、思いついた事に挑戦・即実行してみた

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ヒッチハイク日本一周やイベント開催など、思いついた事を即実践

就活終了後、とにかく自分がワクワクする事をやると決める。

東京から無一文・徒歩5日間で富士山の頂上を目指す「富士バカ」に参加し、自分以外にも同じような感性を持った人たちがいっぱいいる事に気付く。一緒に富士山に登ったメンバーで、一軒屋で9人のシェアハウス生活スタート。

そのままの勢いで、単身ヒッチハイクの旅に出発。各地で色んな方のお世話になりながら、約2ヶ月で北海道から沖縄まで日本一周(費用5万円)。

人の優しさに触れ、出会いで人生が変わった経験をもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思い、友人と共にイベント団体 Break The Border " を立ち上げる。人と人が心の壁を越えて繋がり、自分の限界を超えて新たな事に挑戦するきっかけを作れるよう、企画を考え、実行。

代々木公園での100人ケイドロ大会や、ティッシュから物々交換でルイ・ヴィトンの財布を目指す「わらしべ長者バトル@渋谷」、年末年始に大人数で干支の格好をして初詣に行くなど、様々なイベントを開催。渋谷でのイベント中に偶然スカウトされ、TBSのドキュメンタリー番組「ワンステップ」に出演。

また、自分の経験を活かして、学生たちが「就活の枠に捉われず本当にやりたい事を見つける」きっかけを作るために「超」就活セミナーを考案。

夢に向かって行動している20~30代の起業家やアーティスト、旅人、格闘家、会社員などのパネラー数名と、学生100人をMixして「サラリーマンになるだけが人生の選択肢ではない」事に気づくきっかけを作るためのイベントを開催。参加者の満足度が異常に高く、全国各地にイベントを主催したいという学生団体が出来て、自然発生的に活動が広まった。

自分の想いを語り、行動し続けることで共感を生み、大きなプロジェクトが動き出すという成功体験を得る。

大学卒業からモラトリアム期へ突入

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早稲田大学社会科学部 卒業証書

大学5年生になり、ほぼ授業に出ていなかったため、単位ギリギリで迎えた後期試験。当然全く問題が解けず、悩み抜いたあげく、解答用紙に自分の夢を書き殴り、血判を押して提出するという荒技を使う。教授に思いが通じた(恐怖を感じた)のか、まさかの卒業確定。

就職はしないと決めたため、何の肩書きもないニートになる。自称アクティブニートを名乗るが、今まで自分がいかに社会や親に守られた存在だったかを思い知らされる。自由と責任の葛藤、社会との隔絶感を感じる。

「起業する」と決めたが、具体的に何をどうすればいいのか分からず模索する日々。

友人と起業 → 仲間割れで離脱

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友人と起業して立ち上げた麻布十番のパーソナルジム

イベント団体を一緒に立ち上げた、高校サッカー部から大学まで同じ友人に、これからの人生について相談。

彼は先に起業準備をしていて、某大手ジムからトレーナーとして独立していていた。「今から起業するので一緒に手伝って欲しい」と声を掛けて貰い、営業・集客担当として参画することに。麻布十番のタワーマンションの一室を借りて、パーソナルトレーニングジムを創業。

友人の強い推薦もあって、元マッキンゼー(今となっては本当かどうかも分からない)を名乗るKさん(5歳程年上)がコンサルとして関わる事に。社会について何も知らなかった自分達は、尊敬の眼差しで教えを乞う。

しかし、時間が経つと横暴な態度になり、時に暴力的になる事が増え、不信感を覚えはじめる。Kさんが原因でメンバー間の仲が悪くなり、色々考えた結果、自分はこの会社を抜けることを決断。

後で聞いた話だと、Kさんが会社のお金を勝手に使い込んでいたことが発覚。結局様々なトラブルがあり、会社も半年ほどで倒産する結果に。

起業してゼロから事業を立ち上げる苦悩や、自分が社会の中で使えるスキルが何もない事を身を持って知った。

「意識」について探究するために単身渡米

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アメリカで受講したワークショップ。世界中から参加者が集まっていた

就活中や旅の途中で本を大量に読んだ中で「思考は現実化する」「アルケミスト」「原因と結果の法則」など、ビジネス書や自己啓発本にめちゃくちゃハマっていた。友人の会社を抜けて次に何をしようか考えた時に、当時興味のあった人の「心理学」「意識」について極めてみたくなる。

もっと具体的に習得出来る方法を探していた中、世界72カ国で開催されている意識の使い方を学ぶワークショップに出会い、直感で受講を決め、銀行から個人融資で100万円借りて単身渡米。自分の意識を客観的に分析し、メンタルブロックを外して自己実現する方法を習得。

人の夢や目標の実現をサポートする仕事がしたいと思い、再び渡米してワークショップの講師ライセンスを取得。講師として全国を飛び回り、受講生が自らの殻を破り挑戦し、夢や目標を達成する支援を行う。

小学生からお年寄り、会社員や経営者まで様々な受講生を支援。人が輝く瞬間をサポートする事に自分は喜びを感じることに気づく。
また、人生は自分次第であり、好きな人たちと好きな場所で好きなことして生きていこう、と改めて決意。

京都移住からのドン底極貧生活

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京都在住時の写真。おこしやす ちゃんこ

25歳の時、昔から住みたかった京都へ移住を決断。イスラエル人が運営していたボロボロのシェアハウスに入居(清水五条駅の近く)。外国人のバックパッカーが定期的に入れ替わり、毎日英語でコミュニケーションする環境で暮らすことに。

それまで個人事業主の講師として活動していたが、やはり社会はそんなに甘く無かった。この頃から仕事がうまくいかなくなり、収入が激減。奨学金も合わせて総額約500万円以上の借金の返済が滞り、極貧生活を強いられる。クレジットカードの支払いを飛ばしてしまい、ブラックリスト入りを果たして社会的信用を完全に失う。保険料が払えず、保険証を執行して病院にも行けず、人としての尊厳すら失う。

お金が無さすぎて、ほぼ毎日茹でたモヤシ塩パスタ小麦粉だけ焼いたかたまりを食べていた。携帯が止まり、家賃を滞納しすぎて部屋に南京錠をかけられ鴨川沿いで寝泊まりするなど、最底辺の生活を送る。

人生のどん底を経験し、このままでは社会に復帰出来ないという危機感を本気で感じ、他の道を探すことに。

再燃する起業願望と、牛乳・携帯を売る日々

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営業会社のメンバー達

どん底生活の中、起業して一発逆転したいという思いが再燃。ただ、以前いきなり友人と起業して失敗した経験があるため、今度は一度会社に入って修行しようと考える。

まずは就活時に色んな社長に身につけろと言われた「営業力」を極めようと決意し、たまたま出会った独立支援制度がある完全歩合の営業会社へ入社。
「大阪で新たに事業所を作るので着いてきて欲しい」と言われ、京都を後にして大阪寮に入居することに。(3LDKに9人で雑魚寝)

職場は超体育系で、毎朝大声でミーティングし、ハイタッチして現場に向かうような環境。扱う商材は明治乳業の宅配サービスの契約獲得や、携帯ショップ・家電量販店での新規回線の獲得

訪問販売では毎日200軒以上の飛び込みを繰り返し、個人宅やオフィスビル、警察署、病院など、エリア内にある全ての建物・ドアを一軒も飛ばさず突っ込むよう言われる。

個人事業主でそれなりにやっていたと自負していたため「たかが100円程度の牛乳なんて簡単に売れるだろ」と舐めていたが、全く売れずコテンパンにやられ、プライドがズタボロに。

とにかく売らないと生活ができないため、結果を出している人を徹底的に分析。鏡に向かって練習し、1軒でも多く廻れるように毎日現場を走り続け、失敗を繰り返す中で徐々に結果が出るように。最初の頃は断られる事に恐怖心を感じていたが、この頃から人に拒絶される事に抵抗が無くなった。

入社から2ヶ月程で昇格基準をクリアし、リーダーポジションへ。毎朝ミーティングや営業同行を繰り返す日々。通信関係の事業責任者になり、関西全域の携帯ショップやショッピングモールで毎週末イベントを実施。

どんな商品でも売れる営業力を身につけられたが、早朝から深夜まで休みなくほぼ毎日働き続けるハードな生活。とにかく早く独立して、お金の悩みから解放されたい一心でがむしゃらに頑張っていた。

マネージャーへの昇格 → 独立して会社起業

通信キャリアのイベント。謎にバルーンアートの才能が開花

入社から約4年、常時20名以上のチームを抱え、ほぼ毎日飛び込み営業をしながら、人材育成や人事採用に関わる。チームの人数も増え、一通り経験し尽くしたと感じるように。

社長に会社を辞めて独立したいと直談判したところ、前職から責任者だった通信関連の営業代行事業を分社化して法人にしようという話に。

自分の会社を創れるというワクワク感に突き動かされ、会社の作り方など何も知らないまま、手探りで登記を完了。

2016年10月27日、31歳の誕生日に株式会社ブレイクを創業。
社名の由来は、学生時代から理念として掲げる「 Break The Border 」。

"BREAK Inc. Since 2016.10.27"

代表取締役」の名刺を見た時、ついに学生時代からの夢を実現したと感動したのを今でも覚えている。両親にも感謝と共に報告。

理想を打ち砕かれた創業期、苦悩の日々

創業時に借りた大阪・谷町四丁目の事務所

やる気と希望に満ち溢れた状態でスタートし、前職からの経験と繋がりを頼りに独立したが、甘すぎた事業計画

創業と同時にいきなり正社員3人、アルバイト10名以上を雇用してしまい、人件費が毎月固定でかかるのに、想定していたよりも仕事が確保できず、赤字垂れ流し状態がずっと続く。

絶対にスタッフの給料支払だけは遅らせまいと、半年間自分の報酬は未払いにして働き続ける。現状を打破したくて、他の事業展開を模索し続け、なんとか売上を増やすために、前職から得意だった研修を事業として立ち上げるも、思うように販路拡大が出来ず。

当時流行っていたハンドスピナーを手売りしたことも

なんとか生き延びて2期目を迎えるも、収支が改善せず、役員報酬を月5万円に設定(年収60万円)。所得が低すぎて支払い能力が無いと判断され、家賃の低い家への引越しすらできず。

24時間365日赤字の悩みが消えず、ストレスでアトピー発症。スタッフの前では絶対に出さなかったが、今すぐにでも経営者を辞めたいと毎日考えるように。

各地の営業現場に直行直帰で、スタッフとも全然会えない生活が続き、会社全体のモチベーションも下がって離職者も出るように。目の前の状況をなんとかしたい一心でがむしゃらにやっていたが、物理的、メンタル的に限界が来る。

「そもそも何のために会社を創りたったのか?」を改めて考え直し、

高収益のビジネスモデルに転換して、スタッフにもっと豊かさを還元できる環境を作りたい」
「場所や時間、お金の制限に捉われず、自由な働き方ができる会社にしたい」

という自分の想いを再認識。ど底辺からのリスタートを決意。

人生のターニングポイント、メンターとの出会い

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シンガポールで初めてメンターに会った日

そこから「時間や場所に捉われず、自由で豊かな生活をする」という自分の理想を実現している成功者達を調べていくと、共通点が「Web関係の事業をしている人」だと気付く。

とにかく現状を変えたくてWeb関係の本を読み漁ったり、色んな人のセミナーに参加するも、具体的に何をどう実践すれば事業に繋がるのか分からず、全く進まない状況が続いた。現状を打破するためには成功者から直接学んだ方が早いと思い、いろんな人に紹介してほしいと聞いて回る。

最終的に繋がったのは、20社以上のオーナーをしながら、セミリタイアしたシンガポール在住のビジネスオーナー。ご自身だけではなく、グループ会社の代表達の多くが自分と同世代であり、圧倒的に稼いでいたため「この人は本物だ」と直感的に確信。「雑用でも何でもやるのでWebで成功する方法を教えて欲しい」と伝え、ライティングのテストを受けるも断られる

このままでは終われないと思い必死に粘ってお願いし、数々のテストをクリアしてなんとか教えてもらえるチャンスを得た

ど素人未経験からWebマーケティングの世界へ

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初めて買ったポンコツPC(メリカリで3万円で購入)

東京にあるグループ会社を手伝わせてもらいながら、Webマーケティングの事業に携わるチャンスを得る。

スタッフ達の給料を確保するため、既存の営業事業はそれまで同様にまわしながら、新規でWeb事業を立ち上げる為に、まずは社長である自分がWebを覚えるために、東京にあるメンターの会社に通って学ぶことに。

Web関連はそれまで全くの未経験だったので、何を買えばいいのか分からないまま初めてパソコンを購入。(メルカリで見つけた中古のacer製ノートPC、約3万円)

当時主流だったオウンドメディア(SEOサイト)の立ち上げ責任者をいきなり任される。会議に出ても専門用語が飛び交い、全くついていけず、自分だけ完全に蚊帳の外状態。一緒に働いていた20歳の学生インターン(師匠と呼んでいた)に教えを乞い、なんとか必死に食らいついていく。

「大人の男が本気で遊ぶ」をテーマに未経験からメディアを立ち上げ

週末は関西で営業現場に出た後、終電で東京へ。お金が無いのでカプセルホテルに泊まりながら平日は朝から深夜までWebの仕事に没頭。そのまま金曜の終電でまた大阪に戻って営業現場に立つ、という生活を1年以上繰り返した。

なんとかSEOサイトが少し軌道に乗り始めた頃、同時進行でWeb広告運用ランディングページの制作新規事業のローンチ方法などを教えてもらい、やっとWebマーケティングの全体像が把握出来て、独り立ち出来るレベルになる。

営業会社からWeb会社へ完全移行

この頃、現在の大阪本社オフィスに移転

自分が東京で学んできたことをスタッフに教えながら、SEOサイト運営や、Web制作、Web広告代行をメインとしたWebマーケティング事業を立ち上げる。

苦労しながらもなんとか立ち上がりつつある状況で、全スタッフに「株式会社ブレイクは既存の営業代行事業をやめて、Web会社に完全に切り替える」ことを宣言。(3期目)

なぜ今までの事業をやめてWebに切り替えるのか、これからどんな会社を作りたいのか等、自分の想いを腹を割って伝えるも、ついていけないと辞めていくスタッフもいた。

それまでお世話になった各クライアントに謝罪しに行き、営業代行事業からは完全に撤退。退路を絶ってWebマーケティングに全てを掛けることに。

場所や時間に捉われず自由に働ける会社を実現

ワーケーション@淡路島。スタッフの子供も一緒に作業中(塗り絵)

徐々に実績もでき始め、教育関連の企業や美容サロン、医療系クリニック、飲食店、物販、システム関連、選挙支援など、様々なクライアントから依頼をいただけるようになる。

Web広告代理店としての実績も増え、Google・Yahoo!の認定パートナー資格を取得。

Google・Yahoo!の認定パートナー資格取得

Web関連の事業を始める前の営業時代に比べ、スタッフ数が圧倒的に少ないにも関わらず、売上は8倍以上に成長。

起業前から元々創りたかった「関わるスタッフや家族を大切にし、時間や場所に囚われず自由に働ける会社」を実現するため、スタッフが好きな場所に住み、旅をし、子育てや介護をしながらでも働けるよう、完全テレワーク・フレックス勤務制度を導入。

スタッフが全国に点在しているため、バーチャルオフィスを導入し、テレワークでもリアルタイムで密にコミュニケーションが取れるよう環境を整備。

oViceを導入

また、コミュニケーションを深めたりリフレッシュ出来るように、年に数回、希望スタッフ+そのご家族で全国・海外にてワーケーションを実施。

地方創生テレワーク推進運動 Action宣言

昔から夢だった、サッカーチームのスポンサーにもなることが出来た。

元日本代表の高原直泰選手が経営する沖縄SV

「今まで人並み以上に努力してきた自信はあったが、間違った方法でいくら努力しても結果は出ない。成功するための正しい情報適切な努力が組み合わさって初めて結果が出る」と改めて認識。

コロナをきっかけにWebマーケティング講座開講

BMP(Break Marketing Program)公式サイト

2020年にコロナが蔓延し始めた状況下で、Webマーケティングに関する相談が急増。

飲食店の店長をしている弟が休職を余儀なくされ、給料が支払われない状況や、以前一緒に通信キャリアの営業代行をしていた会社が仕事を一気に失い倒産している状況を見て、困っている人たちをなんとか助けたいという思いと同時に、非対面のテレワークで仕事が成り立つWeb系職へのニーズを実感。

自分自身が全くの未経験からWebマーケティングを学んで結果を出してきた経験と、創業当時からやっていた研修ノウハウを活かして、オンラインWebマーケティング講座 BMP(Break Marketing Program)を立ち上げる。

知り合いのWeb会社数十社に対して「何のスキルがどのレベルまで習得出来ていれば、未経験者でも採用したいと思うか?」を徹底的にヒアリング。

また、Webを学び始めた当初、メンターから業界最先端の情報ハイレベルな環境を与えてもらっていた状況の中で、なんとか自力で実務をこなしていた時に「この順番で教えてくれたら、もっと分かりやすくて早く習得出来たのに」と考えていた内容を、カリキュラムに全て反映。

全くの初心者でも分かるよう段階的にレベルアップ

徹底的に競合会社が主催するWebマーケティング講座の調査を行い、Web関係に未経験でもゼロから短期間でWebマーケティングが習得でき、具体的な次のキャリアに繋げられるよう、サポート体制を強化した講座を構築。

学生時代から読んでいた新R25にも出演

ありがたいことに立ち上げ当初の想定よりも受講希望者が多く、開始から3年半で日本全国・海外(欧州、米国、東南アジア等の在住者)から約1,700名以上が受講卒業生が続々と転職や副業、起業に成功しているのを見て、これこそ自分の天職だと悟る。

BMP受講生コミュニティが日本全国・海外で拡大中
未経験から転職・副業・独立に成功した卒業生多数

この講座を通じて受講生の皆さんと関わり「受講後に人生が変わった」「受講して本当によかった」という喜びの声を頂けて、やはり自分は難しいことを分かりやすく伝えるのが得意であり、人が夢や目標に向かって挑戦するきっかけを作り、その実現をサポートをする事に喜びを感じると再確認。

2024年1月には、経済産業省の「リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業」に採択される。より多くの受講生がご自身のキャリアアップに繋がる機会を得られるよう、国から支援を受けられるようになりました。

受講料の最大70%が国からキャッシュバックされる制度

熊本市との協定締結、地方創生プロジェクト始動

熊本県庁で行われた、熊本市との立地協定調印式

講座受講者全体の約20%は、法人の経営者やWeb担当者が占めており、特に地方の中小企業からの参加が多く、日本国内におけるデジタル化普及率の地域格差を実感。

また、対面でのサポートを希望する方も一定数いるため、これをマーケターのコミュニティを広げるためのビジネスチャンスと捉え、スタッフが好きな場所で仕事が出来る拠点としても使えるよう地方へのサテライトオフィス開設を考え始める。

様々な自治体から情報を収集していた中、たまたまご縁をいただいて2022年1月に熊本県庁を初訪問。これからITベンチャーを積極的に誘致して県内を盛り上げていきたいという熱意と、自然に囲まれた環境に魅力を感じ、その日のうちに熊本進出を決断。

たまたま進出のタイミングで熊本市が初めて開設するスタートアップ支援施設「XOSSPOINT.に、第1社目として入居することに。

2022年3月、熊本県熊本市と立地協定を締結し、同年4月に熊本オフィスを開設。様々な地元メディアで取り上げていただき、くまモンの着ぐるみ姿でTV番組への出演デビューを果たす。

メディア掲載(新聞、雑誌)
メディア掲載(TV番組)

進出から数ヶ月で県内在住の受講生が一気に増え、コミュニティも着々と拡大中。

進出から1年で県内在住受講生が10倍に

講座卒業生と地元企業を繋ぐ「地育地活」の取り組みでも実績が出始める。

また、地域貢献の一環として、地元の高校(熊本信愛女学院)で通年のマーケティング授業を担当。

講座卒業生と地元企業を繋ぐ「地育地活」も始動
学生の頃からマーケティング思考を学ぶ機会を作り、将来の選択肢を増やす
県内開催の様々なイベントに登壇

日本には素晴らしい商品・サービスがあり、普段から営業努力をされているにも関わらず、Webマーケティングの知識がなく、ビジネス機会を損失してしまっている企業がたくさんあると認識しています。

そのような企業に対して、弊社が得意とするWebマーケティングに関するコンサルティング・実務代行・人材育成・企業研修・IT人材マッチングサービス等を提供。日本全国、世界に魅力を発信するための支援していきます。

また、Webマーケティングを身につけた受講生の皆さんが、好きな場所に移動し、稼ぎ、暮らせるよう、行政と連携した移住支援等も実施。

地域で人材を育成し、地域で人材を活かす「地育地活」を創る

日本全体のデジタル化促進に貢献すべく、他府県の自治体とも連携しながら、全国にサテライトオフィスを展開。

2023年4月には岐阜県庁からオファーをいただき、地元有力企業と連携した地方創生プロジェクトを岐阜県内でスタート。

デジタル田園都市国家構想に基づき、岐阜県庁と連携した事業を展開
母の故郷である大分県で自治体と連携した事業を展開
香川県高松駅前にあるスタートアップ施設に拠点展開
アフリカ・ケニアのIT展示会に参加。JICAや現地VCを訪問。

海外にも支店を作り、デジタル人材の教育事業を通じて様々な地域の発展に貢献し、より多くの人が地球を自由に飛び回りながら好きな場所で働き、暮らせるような仕組みを作っていきたいと考えています。

1年間の闘病生活の末に迎えた母の死

白血病が寛解して一時的に帰宅した母と姪っ子

事業が軌道に乗ってきて収入も一気に増え、創業当時に作りたかった状況が出来はじめ、これから本格的に親孝行していこうと考えていた矢先の2021年1月末、母が倒れて緊急入院したと連絡が来る。

精密検査の結果、急性骨髄性白血病が発覚し「余命数日」とその日にいきなり告知される。家族全員その事実を受け入れられず泣きじゃくる中、治療を頑張るという気丈な母。

コロナの影響で対面での面会が出来ない中、いつ何があるか分からない状況下で、とにかく家族の側にいたいと想い、出来るだけ東京の実家に戻って暮らすことに。

テレワークでPCとネットさえあれば仕事が成り立つ環境に心から感謝し、同じような状況の方の力になりたいと心から思う。

脳出血や血栓など様々な合併症を起こして何度も危篤状態になったが、その度に復活。入院から約半年後には奇跡的に寛解して実家に帰ることが出来た。脳出血の影響で半身麻痺になり車椅子が必要だったが、食事や買い物にも一緒に行けるように。

TVに出演した次男を見守る両親

「これからリハビリを頑張ろうね」と話していた矢先、白血病が再発し、脳梗塞を併発して緊急入院することに。

そのまま抗がん剤治療を続けたが容態は悪化し続け、約1年間の闘病生活の末、2022年2月26日早朝に永眠。

しばらく事実を受け入れられず無気力になり、人間はいつか本当に死ぬという事実を嫌というほど思い知らされたと同時に、なぜもっと普段から感謝を伝え、早く母に親孝行をしてあげなかったんだと後悔して涙が止まらなかった。

母はいつも無償の愛をくれていました

両親にもらったこの限られた命を使って、まずは自分自身が夢に向かって全力で挑戦し続け、より多くの人が制限を超えてチャレンジできるように支援、貢献していこうと改めて覚悟を決める。

【終わりに】この人生を通じて創りたい未来

弊社ヴィジョンマップ

母の死を経験して、人生で何よりも貴重なのは「時間」であり、この限られた人生の中で最大のリスクは「いつかやろうと思っている事、実現したいと考えている事に着手せず、挑戦しない事」だと思い知らされました。

「関わる人の成功に貢献し、喜ばれる仕事をしながら、好きな時間に、好きな場所で、好きな人たちと、自由に過ごす」

Webマーケティングは、そんな理想を実現するための一つの最適な手段であると、自分自身の経験を通じて確信しています。

・自分の選択肢を広げるために新しい分野に挑戦したい
・将来性のあるWeb業界に転職したい
・副業や、起業、フリーランスで自由に働けるようになりたい
・子育てや介護をしながら在宅も働けるようになりたい

そんな想いを持った方へ、少しでも力になれたらと思い、3時間の無料オンラインセミナー「ゼロから始めるWebマーケティングの授業」を開催しています。(現在までに2万人以上が参加)

Web関係の経験が全く無い方でもご理解いただけるよう、出来るだけ分かりやすく解説していますので、興味がある方は是非参加してみてください。

無料体験セミナーはこちら

左上のクマは、スタッフが書いた小川(らしい)

今後も株式会社ブレイクは、皆さんがご自身のBroder(壁)をBreak(突破)し、より自由で豊かな生活を実現できるよう、様々な事業に挑戦していきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。このnoteが、どこかの誰かの挑戦を後押しするきっかけになれたら嬉しいです。

皆さんの人生についても教えて欲しいので、ぜひ気軽に繋がってください^ ^
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「小川」を訓読みすると「ちいかわ」

Facebook:小川佳祐
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