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どれだけ遠くからでも。


前回に引き続き、企画メシ2021 の再挑戦ログ。
第2回は、九龍ジョーさんの『伝統の企画』。


「伝統芸能」は遠い世界にあるものと思っていて、
なんとなく壁を感じていて
どうせわからない、面白くないだろうって
遠ざけてきたなぁって想いがあって。


全部選り好みせずに受けようって決めていたから
受けると決めたものの、
ちゃんと興味を持って
課題できるかなぁって不安もあった。


でも、

遠いなって、思うものだったとしても。
関係ないって思ってたとしても。

ハードルが高いとか、
ちょっと心理的に遠いなって、思うことも。

今は、大丈夫だよ〜!といってあげたい。


今回は私の伝統芸能への歩み寄りの軌跡を
これからのヒントに残しておくことにしました。


自分の足で。


今回の課題は 
「伝統芸能」を調べて、
あなたが見つけた魅力を説明してください。
というもの。

どこから手をつければいいか
あまりに何も思い浮かばなくて
YouTubeと本にヒントを求める。

九龍さんと神田伯山さんの対談映像を見て、
本屋さんで九龍さんの著書を手に取って。


ワンピース歌舞伎のこととか、
読んでるだけでイメージできてわくわくして
興味が湧いてきた。

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でもなんとなく、読む前から
九龍さんが本当に伝えたい面白さや感覚は
これを読んだだけじゃ
わかったとは言えない気がしていたし
ここはあくまで入り口、って感じてた。
目の前にいくつもの扉が現れた!という感覚。

その奥の<何か>は、
自分で進んでいかないと見えてこない。


自分の中に動くもの、あるかなぁと
落語の棚を見ていたとき
『ふらりと寄席に行ってみよう!』なる本を発見。
超初心者入門。
イラストばっかりだから読みやすい。

コスモオナンちゃん(企画生のひとり)、
生で寄席行ったって書いてたなぁ〜!
と思いながらパラパラめくっていて、

プログラムの組まれ方のこととか、
寄席の間、飲食もできる。とか
ちょっとした寄席での
楽しみ方のいろはがわかってくると

伝統芸能に対しての心理的なハードルが
めちゃくちゃ下がっていることに気づいた。

わたしも行ってみようかな、、、!

早速近所の寄席の予定を調べる。
新宿末廣亭なら行けるかも、、

翌日。

小雨ですこし肌寒いなか、
地下鉄に揺られて新宿三丁目で降りて。

大好きな追分だんごのお団子を調達し、
末廣亭に乗り込んだのでした。

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興味ないとか言ってたのが嘘のように、
ここから昼夜ぶっ続けで8時間末廣亭にいることになる。笑

(この時期だということ、すっかり忘れて
お団子はお持ち帰り。残念・・・!)



目の当たりにすることで動いた心。

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その日一番印象的だったのは
高座の空気や流れで発することばや演目が
チャッと変わっていく様子。

はじまりは講談・神田伯山さん。
元々は侠客(いわゆる任侠)の話を
するつもりだったようなんだけど、

お客さんの顔ぶれや空気感を見て、
侠客は口が悪すぎるんだよな〜
なんか違うな〜、やめたっ!と
寛永三馬術という出世話の演目に。
(パッと変えたのに、すごい、臨場感!)

それを受けて、
その後の浪曲・玉川太福さんが、
さっき伯山がやりたいと言ってた
侠客をやろうかと思います〜、
とまたまた演目変更。

台本があるわけでもないのに
なんとも淀みなく、するする流れていく。

これを生で見て、感じたこと。

その場で観客の顔ぶれと反応を見て、
言葉を紡いでいく。演目を変える。

それができるということは
コミュニケーションありきの芸で、
寄席=芸の発表会じゃないってことを知れたのが
一番大きかったの。
(ものすごくプロを感じたってこと)
(勢いで書いてて言い回し下手すぎる)

大御所の人たちは観察眼と瞬発力、
空気を感じ取る力がものすごくて、
引き込まれるような言葉のセンスとか間の取り方を
それぞれが持っているように感じたし、
その人の話をまた聴きたいと思わせる何かがある。

同じ15分がうそみたいに短く感じられた。

偶然か、必然か。

目の前で予定調和を崩して
その場でドン!と新しいものを作り上げて。
さらに他の人がバトンを受け取って
次につなげていく。

その日の演目も、その日の観客も、
その時間や空気も、
もう2度と揃うことがない。

この感覚がもうめちゃくちゃライブに似ていて。

伝統とか歴史とかって
堅苦しくて難しいものだけのイメージだったけど

即興で歌い方を変えたり、
いきなりアカペラでカバー曲を歌ったり
するはずのなかったMCが入ったり、

そういうライブ会場で見ていたものと
感覚的に同じだ!と思ったら
急に身近なものに感じられた。

今日みたいなハプニングも
日々積み重なって伝統になってると思ったら
今日まで繋がっていることも奇跡に感じたし
歴史ってそんなに遠い大きいものじゃなくて
私もその中にいるんだ・・!って感じた。

伝える相手は誰なのか

自分の目で見て、音を聞いて、
場の空気を肌で感じながら
伝統芸能が持っている魅力を感じはじめていたものの、
こんな漠然としたものを魅力として表現していいのか。

まだ、表現すると決めるには
知らないことが多い気がして。
情報集めだ!と、国会図書館に行って、
いろんな落語解説の本や雑誌を見てたんだけど



そもそも、わたしが伝えたい相手
九龍さんって、どんなことをしている方なんだろう。

ぽんと、自分の中に湧いてきた疑問があって。

九龍さんをキーワードに
著書や雑誌のアーカイブを追っていくと

文學界っていう分厚い雑誌。
大森靖子特集本。
落語と演劇。
対談やインタビュー1つ1つのボリュームがすごい!

じっくり読みたいのに、閉館時間が迫ってくる。

(時間ギリギリにコピーコーナーに持っていって
ちょっと多すぎる、
計画的に持ってきてくださいと怒られる… 笑)

ポップカルチャーから伝統芸能まで、
そんな幅の広さは調べながら見えていたけれど、
九龍さんの一人一人、ひとつひとつの
関わり方の深さは主にここで読んだ雑誌で知ることになる。

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もう詳しすぎるほどの人に、わたしがちょっと
調べたことを伝えても何にもならないような気がした。


忘れたくない相手へのリスペクト


言葉の企画2019で取り組んだ課題、
『とあるアーティストの人たちが
世の中に知られるきっかけを作る』


わたしの中でずっと残り続けている後悔。

講評で、阿部さんから
こんなニュアンスの話があった。

本人たちも、周りのスタッフさんたちも、
もうずっとずっと、たくさん考えている。


頭を捻って、時間を費やして、
もう嫌になるほどそのことばかり
考えてきた人を想像してみただろうか。
そこにリスペクトはあっただろうか。

自問自答すればするほど、
これやったら面白いんじゃないか?
ってなんとなくのアイデアで突っ走ってしまった
自分の企画が配慮に欠けていて
とても恥ずかしくて。


見返すと、その回の振り返りのnoteがない。
それくらい自分が自分で恥ずかしくて、
自分にがっかりしてたんだと思う。

もう相手は同じような案を思いついているし、
考えているかもしれない

そうだとしたら、どんな視点があれば、
わたしが伝える意味があるのか。

それを考え抜くことが、
企画を作る時に一番大切な誠実さであり
相手への敬意と尊重なのかもしれないと思って。

今回は、それだけは忘れたくなかった。


知識よりも、感じたことで勝負する。


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わたしが伝える意味を考えていて思い出したのが、
大学時代、ゼミの先生に何度も言われてきたこと。

『調べればいくらでも情報がある時代に
意義や価値があるのは

自分で手足を動かして取りに行った一次情報だけ。』

わたしが入っていたゼミは、
学部の中で一番厳しいと言われてたし、
実際に厳しかったと思う。
本気でやらないと浮く。
他の人からは敬遠される、その熱量が好きだった。

1週間以上かけて作り込んだ資料も、
前の方が良かったです。
の一言で白紙に戻ったりもしたし、
体育大会も、競技そっちのけで
PC持ち込みで資料を作っていた。笑

しんどすぎて先生を恨んだりしたこともあったけど、
今なら先生がなぜそこまでの
やり直しをさせるのか意味がわかる気がする。

もう世の中にあるものをまとめるだけなら、
私たちだから作れるものを作らないなら
私たちだから書けるものを書かないなら

それはただの誰かのコピーで、
私たちがやる意味がない。


就活の時、ゼミの先輩が
かけてくれた言葉も思い出した。

『知識じゃなくて、経験を語りなね。

知識じゃ絶対に勝てないけど、
経験や感じたことは、誰にも否定できない。』


それが、わたしの勇気になった。

自分の目で見てきたこと、感じたこと、
わたしだけの小さなリアルな体感を言葉にして
九龍さんに届けよう。

もし、わたしが一対一で
九龍さんに会って伝えるとしたら
いちばんに話すと思ったことを。


講談を見に行ったこと、
なんの話を聴いたのか、それよりも。

少しでも知っている可能性のある情報よりも
わたしの中に残った感覚を
表現することにスペースを割きたかった。


それで書いたのがこれ。
(あまりに省きすぎたので、
Twitterには少し補足を入れました)


魅力は周りに落ちているのかもしれない


答え合わせ当日。

この日、九龍さんが伝えてくださってたこと

・自分という演算機を使わないともったいない。
まず、自分にぶつけてみればいい。
そこから出てきた反応を形にする
・どれくらい、自分で真に受けてるか


講評の時間に体現しているのを見せてもらって
私は九龍さんも、企画生も
さらに好きになれた。

どうしてそれを表現しようと思ったのか、
実際何を見て、何を感じたのか
九龍さんはどんどん企画生に質問を重ねる。

そうすると、企画書には表れていなかった
どれだけのめり込んでたのか?みたいな
熱量とか、表現の葛藤が聞けて

それがまさに雑誌のインタビュー記事みたいで
すごく面白くて
それを本当にそのまま素直に、
受け止められた自分もいて。




嫉妬とか焦りとかで
真に受けるのを避けていた
他の企画生の面白さや魅力を、改めて
見つけられたのが嬉しかった。

もしこれから斜に構えたくなったら、
この時のこと、思い出したい



表現として表れているものに
どう辿り着いたのか、とか
入りきらなくて泣く泣く削ったもの
なんだったのか拾おうとする。

聴いてみる、知ろうとする、
そういうことの積み重ねで
もっとその人や物のこと本当の意味で理解できて、
そのうちふと気づいたときに
魅力を感じられたり
歩み寄れている、距離が縮まっている、
と結果的に、わかるのかもしれない。


1回目の気づきと、すごく近いなぁ。


これが、今回のわたしの歩み寄りの軌跡。


実は、時間切れでこの表現で届いたかどうか
確かめられなかったの。
ちょっとだけ不完全燃焼。


ただ、

どれだけ遠くからでも、
手を伸ばしていっていいし、
わからなくても飛び込めばいいし、
そこからだからこそ見つけられることがある
っていうことは見つけられた。


これからも
小さくて大切なものを見落とさないように
ひとつずつ、丁寧に感じていこう。

びびっていた私へ。



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ありがとうございます!! 何度も感じたことを言葉にさせてもらってきた モスバーガーに還元します〜!!笑