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ひとやすみ

最近は、どうも疲労があまりにも蓄積している。

自分の調子が上向きでないときの感覚が、だんだん分かるようになってきた。朝起きた時に、普段だったらすぐに動かせる体がなぜだか鉛をまとっているかのように重たい。歩きだしても、心が地面の重力に常に引っ張られ続けている感覚を覚える。常にしんどいので思考がだんだんネガティブになってきて、ため息をつく回数が増える。

昔に比べて今はその状態をメタ認知できているだけまだましになったけど、酷くなってくると、こうした悪い思考のスパイラルは知らず知らずのうちに自分を間違っている方向に導いてしまうことがある。だから、少しでも自分の疲れを実感したら、そんな自分のことを労ってあげようと思いつつも、やることの多い大学生活において、なかなか急にそれを実践するのはこんなんだ。


しかし、それにしても直近は本当にタフだった。

シーズンが佳境で自分が最上級生として引っ張らなければならない部活、死にものぐるいで頑張らないと春までに基準に届かなそうな英語、案件が加速して人手の足りないインターン先、期限が迫っているのに永遠に進まない卒論、そして将来を見越した人付き合い……

そんな日々に「忙殺」されていると、気がつけば私の大切なアイデンティティまで「殺されて」しまいそうになる。押しつぶされそうになるのをこらえるのに必死で、自分から外に出ていこうとしなくなる。

まあ、この「自殺」に抗うために始めたのがこのNoteであるので、それができるようになったということは一歩成長をした証なのかも知れない。


ところで、私が何故こんな話をしたかというと、私は今日自分自身が原因で頭を強打し怪我した。直後は脳震盪気味で、仕事が手につかないくらいめまいが酷く、人生で初めて救急車に乗った。かなりの痛みを伴いながら5針縫った。明日が部活のかなり重要な公式戦であるにも関わらず。

この話を聞いたある人は、私に「ツイてないね」と言った。慰めのつもりでも合ったのだろう、確かに自分は痛い目を見たわけだし、不運を呪いたい気持ちにもなる。


だが、これは本当に不運だったのだろうか。
不運とは、所詮人間の主観に過ぎない。その全てに恣意的に意味を見出すことができれば、それは不運でも何もない「幸運」へと変貌するのである。

5針縫ったが、後遺症が残るようなひどい怪我ではなかった。ツイてる。
今日はたまたま、部活の練習は休んでも大きな影響はないものだった。ツイてる。
しかも、明日の重要な試合は夕方開催なので、怪我24時間以内は安静にしても試合に間に合うことができる。ツイてる。
そして私は、怪我により本来やるべきだった仕事から開放され、つかの間の休息を手に入れた。ツイてる。

いや、これが「幸運」なのかどうかも怪しいと思う。
もし、人間の思う「運」とは、ただ人間が仕組みを感知できていないだけですべてがなにかの仕組みに基づいて働いているものだったとしたら。
神様(人間の上位存在)が、今回の怪我を意図的に起こしていたのだとしたら。

「ちょっと、最近色々無理し過ぎ。そんな張り詰めすぎずにやりなさい」

慈悲の現れだったのかも知れない。あるいは

「このままだと体壊してもっと酷い目に合うぞ」

という警告か。

どちらにせよ、致命傷にならない範囲でこの怪我を与えてもらったのは、現状を変えよ、というメッセージに違いないのだ。


だから今日は思いっきり、ひとやすみをしよう。
きっと、この怪我は神様が私に「休みなさい」と与えてくれた機会出会ったに違いない。最近は色々気を張り詰めすぎてしんどかったのだろう。

体調を崩したり変な怪我が多いときは、たいてい疲れている。自分は何かに囚われていると、たいてい注意力が散漫になりがちだ。
まだこの程度の怪我で済んでいるうちに、いい加減自分の体をいたわるようにしよう。神様の堪忍袋の緒が切れて、自分の身に取り返しの付かない火の粉が散ってからでは、遅いのだ。


明日から、また頑張ろう。

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