『映画を早送りで観る人たち』②
序章 大いなる違和感
ひとつめの背景、映像作品の供給過多。
2002年2月現在、NetflixやAmazonプライムをはじめとした定額制動画配信サービスの料金は、月々数百円か千数百円、それで見放題。これに、従来からあるTVの地上波、BS、CSや、YouTubeなどの無料動画配信メディアもくわえれば、映像作品の供給数はあまりにも多い。
二つめは、コスパを求める人が増えた。
ここで著者は、「鑑賞」と「消費」の違いをあげて、その言葉の定義をこう書く。
「鑑賞」は、その行為自体を目的とする。ただ作品に触れること、味わうこと、没頭すること。それそのものが独立的に喜び・悦びの大半を構成している場合、これを鑑賞と呼ぶことにする。
「消費」という行為には、実利的な目的が設定されている。
食事に例えるならば、鑑賞は食事自体を楽しむこと。消費は、栄養を計画的にとるため、あるいは、想定した筋肉美を手に入れるといった、実利な目的を達成するために食事をすること。
三つめは、セリフで説明する映像作品が増えた。
本来、映像作品は映像だ語るものなのだから、役者が悲しそうな顔をしていれば悲しいことが伝わる、モノローグで語る必要はない。しかし、昨今の(特に日本の大衆向け)映像作品には、自分が悲しいのか嬉しいのかを、台詞で説明してしまうものが多い。
倍速視聴者たちの動機の大半が「時短」「効率化」「便利の追求」といった、きわめて実利的なものであるのは明らかだ。
以上、2021年3月「現代ビジネス」というサイトに寄稿したものの加筆で、この記事は大きな反響をよんだが、同時に少なくない量の不快感表面もあった。
曰く。
「細かいとこはどうでもいい。ストーリーさえわかれば」
「どういうふうに観ようが私のかって」、など。
しかるに、著者は、彼らには同意できないかもしれないが、納得はしたい、理解はしたい。
そうして、
第1章早送りする人たちー鑑賞から消費へ。
これは、この本のための書き下ろし。
序章での「鑑賞」と「消費」の掘り下げ。
倍速視聴は、(とりあえずの)情報収集。
定額制動画配信サービスは、映像コンテンツを「鑑賞」する機会を増やすよりもずっと大きなインパクトで、コンテンツを「消費」させる習慣を我々に根付かせたのかもしれない。
第2章 セリフで全部説明してほしい人たち
ーみんなに優しいオーブンワールド
「解りやすい」ものが増えた要因の一つに、映画製作委員会(製作費を出資する企業群)がある。
製作委員会方式は、利潤を求める。そのために出資するのだから。売り上げが上がらなければならない、解らないものは注目されない、当然、最大公約数的解りやすいものになる。
もう1つは、観客の幼稚化だ。
といっても、昔からある程度の「幼稚な観客」はいた。ただ、その顕在化が台頭してきている。それはSNSによって。
しかも、面白かったとか賛同するよりも、クレームを言う方のが賛同を得やすい。
SNSの誕生によって、どんな民度やどんなリテラシー(ある分野に関する知識・判断力)レベルの人間も、ごく気軽に「被害報告」を発信できる様になった。それが、多くの人に「わかんなかった(だからつまらない)」と言われない、説明セリフの多い作品を生み出した可能性は高い。
更に。小説投稿サイト、もある。
そこでは、サイト内やTwitterなどから直接感想が届く。わかんなかったとかのツッコミをうけたら、作者はつつかれたくないと、どうしても説明過多になりがち。
更に、更に。
スマホゲーム原作のTVアニメについても、説明過多傾向が見られる。
TV番組にもテロップが多い。
「説明の多さに慣らされた結果、説明セリフの少ないドラマや映画を観ると、情報が少ないと感じて物足りない、それで、早送りする」
説明セリフを求める傾向は、観客の民度や向上心問題というよりは、習慣の問題なのだ。
情報・説明過多、無駄のないテンポの映像コンテンツに慣れてしまえば、それが普通となり、長回しシーンや意味深なカットやセリフなしの沈黙から、何かを汲み取れといわれても戸惑うしかあるまい。
そうして、オーブンワールドゲームをあげる。
第3章 失敗したくない人たち
ー個性の呪縛と「タイパ」至上主義
ここでは、外的要因ではなくて、内定要因について。
彼らが、倍速視聴したくなる、そうせざるをえない理由とは?
大学生を中心とした若者世代にとっては、仲間の和を維持するのが重要課題。だそうだ。
ここで、Z世代の特徴が出てくる。
①SNSを使いこなす
②お金を贅沢に使うことには消極的
③所有欲が低い(モノ消費よりコト消費)
④学校や会社との関係より、友人などの個人間のつながりを重視
⑤企業が仕込んだトレンドやブランドより、「自分が好きだから」「仲間が支持しているから」を優先する。
⑥安定志向、現実維持志向で、出世欲や上昇志向があまりない。
⑦社会貢献志向がある
⑧多様性を認め、個性を尊重しあう
全ての若者がそうだとは言わないが、とりわけZ世代には「回り道」「やコスパの悪さ」を恐れる傾向が強い。
第4章 好きなものを貶されたくない人たち
ー「快適主義」という怪物
第2章で触れていた「観客の幼稚化」に関して、「快適主義」の観点から掘り下げる。
つまりは、見たいものだけを見ていたい、ということ。感情を揺さぶられたくないのだそうだ。そして、自分の好きなものを貶されたくない。
私にはよく解らないのだが、ライトノベルとかスマホゲームとかの世界では、確実に「解りやすいもの」「心地よいもの」が売れる、そうだ。
その「快適主義」を掘り下げているけれど、略。
この章でことに私が興味深かったのは、若者たちは映画で監督が誰かは気にしない、ということ。
「快適主義」の側面からとして、昨今、映画の評論本が売れない、というところから入っていっているのだが。
出ている俳優とかストーリーで選んでいるだけだから、監督(その裏方)に関心はない、そうだ。
(上から目線?の)評論で体系的な論考なんかより、消費なのだから、監督が誰かなんて知らなくていい、となる。。!
第5章 無関心なお客様
ー技術進化の行き着いた先
ここで、著者は「リキッド消費」という概念を紹介している。
2000年にポーランドの社会学者ジグムント・バウマンが発表した「リキッドモダニティ」を基礎として、2017年に、フルーラバーディーとギアナエカートという二人のイギリス人が、「リキッド消費」という現代的な消費の概念を提唱した。
バウマンは、社会全体が、安定的で持続的な仕組みによって形づくられている個体(ソリッド)状態から、特定の形を持たず、その姿を自由に変える液体(リキッド)状態へと、変化してきていると指摘、バーディーとエカートは、こうした変化が消費にも生じていることを指摘した。
「リキッド消費」の特徴として、「特定のブランドに拘らず『役に立つ』ことや『コスパが高い』ことを重視して、簡単にブランドをスイッチする」点をあげるのは、青山学院大学の久保田ゆきひこ教授(経営学部マーケティング学科)
これはコンテンツを短命化するものだが、「特定のブランド」を「監督」に置き換えても成立する。つまり「映画を監督で観ない」
リキッド消費需要が高まり、特定のブランドに拘らない「ファンではない消費者」が増えてくると、ビジネスモデルのメインターゲットはそこへ向かわざるをえない。
これまでお金を沢山使ってくれるコアファンに支えられていた構造が、変わってきているという。
例えばアプリ課金。ヘビーユーザーから、高機能の提供で月額料金を徴収し、ライトユーザーには無料サービスを提供していた。
ところが、ファンではない消費者をメインターゲットにする料金体制になっている、定額制動画配信サービスがある、という。
例えばAmazonプライムは、プライム会員向けにいち早く新作を見放題対象で提供。逆に、古いものを見たい場合には追加料金がとられる。
これまでは、「新作は高く旧作は安く」だったのだが、そうではなくなっている。
定額月額料金によって運営されているAmazonプライムビデオにしてみれば、旧作がどれだけ観られようとも会員料金の売り上げはかわらない、会員数を増やさねば収入は増えない。すなわち、既存の映画ファンを料金面で優遇するより、ファンではない消費者をより多く会員にする方のが、商売として割りがいい。
では、ファンではない消費者がどうして増えたか?
コンテンツが多すぎて選ぶのが億劫だから。
「先進国では、3~4割の消費者が情報収集をしないままに製品・サービスを購入する、いわゆる無関心状態にある。先進国の中でも、特に日本はその傾向が強い」、との、大手コンサルティング会社のレポートもある。
現在の倍速視聴環境は、スマホやPCといったデジタルデバイスの進化や多様性をぬきにしては語れず、スマホやタブレットでの「ひとり観」が、倍速視聴を助長した、として、その歴史(人類の映像視聴史)を振り返る。
映画館へ出かけて行って観るものが、1960年代後半からTV放映が始まり、1970年代後半にビデオデッキが登場、1980年半ばに一般家庭に普及し始めた。
そのビデオデッキ機能の充実によって、早送り中でも音声が聞き取れる様になった。この機能は、1990年代後半以降に登場したDVDデッキや、2000年代初頭に普及したハードディスクレコーダーにも引き継がれた。
2000年代後半に動画配信サービスが登場。映像視聴での流通的煩わしさが排除され、視聴に必要な対価も大幅に下がった。
その動画配信サービス会社が、2010年代後半に倍速視聴や10秒飛ばし機能を実装し始めた。
19世紀末にパリで、映像を有料で公開する世界初の映画館が誕生して以降、その映像視聴環境は、『場所的・時間的・物理的・金銭的、制約』を、取り払ってきた。
後に「芸術」の属性を勝ちとった映画ですら、登場時は芸術にはなりえない見せ物だったし、ラジオ放送が始まって数年間は、それを聞かないことが教養ある人々の態度だったし、TV放送開始から4年後の1957年、大宅壮一が『一億総白痴化』という流行語を生み出しているし、PCやインターネットの登場時にも、この種の抵抗感や嫌悪感が「良識的な旧来派」から表面された。
新しいメディアやデバイスが登場するたび、あるいはそれらの新しい使い方が見いだされるたびに、「良識的な旧来派」が不快感を示す歴史は、繰り返されてきた。
今のところ、倍速視聴や10秒飛ばしを手放しで許容する作りては多数派ではないが、それも、いずれ多くの作りてに許容される日が来るのかもしれない。
おわりに。
倍速視聴について調査をすればするほど、考察を深めれば深めるほど、これはたまたま地表に表出した現象のひとつにすぎず、地中にはとんでもなく広い範囲で根が張られていると、著者は確信したそうで。
『一見して別の現象に見えるものどうし(倍速視聴ー説明過多作品の増加ー日本経済の停滞ーインターネットの発達、など)が、じつは同根で繋がっていた。
その様な根をはびこらせた土壌とは、?
それを明らかにしたかった。倍速視聴が現代社会の何を表していて、創作行為のどんな本質を浮き彫りにするのかを、突き詰めて考えた。』
そうして、力添えをいただいた方々(編集者や博報堂・メディア環境研究所員や脚本家やZ世代インフルエンサーや大学教授や若者たちや光文社新書編集部員など)をあげて、
「同意はできないかもしれないが、納得はしたい、理解はしたい」との当初の思いは達成したとしながらも、
それでもやはり、こう思っている。
『映画を早送りで観るなんて一体どういうことなんだろう?』、と。
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