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ヤバいかも? 岡田将生×川口春奈の“異質ホラー”【次に観るなら、この映画】11月6日編

 毎週土曜日にオススメ映画をレビュー。今週は2本です。

①岡田将生と川口春奈が共演し、「22年目の告白 私が殺人犯です」「AI崩壊」の入江悠が監督を務めたホラー映画「聖地X」(11月19日から映画館で公開)

②「客途秋恨」「女人、四十。」など幅広いジャンルで数々の作品を手がけた香港映画の巨匠アン・ホイの映画人生を追ったドキュメンタリー「我が心の香港 映画監督アン・ホイ」(11月6日から映画館で公開)

 劇場へ足を運ぶ際は、体調管理・感染予防を万全にしたうえでご鑑賞ください!

◇“記憶”の正体を問いかけながら、入江悠が個性を殺さず伝えたかった真意(文:映画com副編集長 大塚史貴)

「聖地X」(11月19日から映画館で公開)

 本編冒頭から拭えぬ違和感は、今作がオール韓国ロケで撮影されたからという理由だけでは説明がつかない。これは観る者が抱く入江悠という映像作家の“記憶”を、入江本人が自らちゃぶ台を引っ繰り返して消そうとしていることに起因する。

 どこで撮ろうが、どんな題材を手がけようがアップデートを繰り返す貪欲な個性が、「安住」を許さぬからこそ招いた事態といえるのではないだろうか。

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 「聖地X」は、劇作家・前川知大が率いる劇団「イキウメ」の人気舞台を映画化するもの。2010年に初演された際のタイトルは「プランクトンの踊り場」で、鶴屋南北戯曲賞などを受賞している。これをブラッシュアップして再演したものが表題作になるわけだが、底知れぬ胸騒ぎを舞台空間で結実させた前川の個性が、「太陽」に続き2度目のタッグとなる入江監督の世界観に紛れることで、まるでドッペルゲンガーのように作品世界を独り歩きするようになる。

 科学的な根拠の有無はともかく、ドッペルゲンガーと呼ばれる奇怪な現象は「世の中には自分にうりふたつの人が3人存在する」「自分と姿かたちが一緒の存在を目撃すると死んでしまう」といった俗説にまみれ、世界中のクリエイターたちの好奇心を刺激し続けてきた。これまでに数多くの映画の題材にもなってきたが、観客は今作で一味異なるドッペルゲンガーを目の当たりにする。

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 本編では、夫との生活に嫌気がさし離婚を決意した要(川口春奈)は、日本を飛び出して兄の輝夫(岡田将生)が暮らす亡き父の遺した別荘へ向かう。輝夫は妹の突然の来訪に驚きながらも、要の傷が癒えるまでは共同で生活することにするのだが、ここまでは、あくまでも序章である。

 要が着の身着のまま街をさ迷い歩く夫の滋(薬丸翔)を追いかけるうち、巨木と井戸が目印の奇妙な力の宿った未知の土地に知らずに足を踏み入れてしまう。その場所こそが「聖地X」で、輝夫と要は土地に根付く奇妙な力から解放されるために恐怖と対峙していく。

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 今作で描かれる恐怖は、いわゆるホラー的な要素とは趣が異なり、「こういうことであれば起こり得るかも?」と思わせる類のもの。パワースポットで説明しようのない気配を感じるのと同質ともいえる、畏怖の念をどう捉えるかで解釈の幅が広がりを見せてくる。

 ただ、スピリチュアルな方向へ舵を切るのではなく、思い込みが形になり現実を歪ませていくことで古典ホラーの方程式は踏襲している。「記憶」とは情報なのか、実在する生身のものなのか……という問いかけに意識を向けたとき、入江が今作で何を伝えたかったのかが見えてくるはずである。

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◇浮沈の激しい香港映画界を果敢に生き延びてきた名監督の秘密が垣間見えてくる(文:ライター・編集者 高崎俊夫)

「我が心の香港 映画監督アン・ホイ」(11月6日から映画館で公開)

 1970年代末期に現出した香港ニューウェーブを牽引した代表的なフィルムメイカー、アン・ホイの刺激に満ちた一代記とも呼ぶべきドキュメンタリーである。同時代にデビューしたほとんどの映画監督たちが、もはや引退同然の不遇をかこっているのに、なぜ彼女だけがエネルギッシュに新作を撮り続けていられるのか。この映画を見ると、その秘密の一端が垣間見えてくるようだ。

 全篇にわたって映し出されるアン・ホイの人懐っこい飛びきりの笑顔が印象的だが、その豪放磊落な語りを通して、常に国家、民族といったさまざまな境界線を行き来する、漂泊者としての彼女の生の軌跡が浮かび上がってくるのである。抗日戦争のさなか、中国人の父、日本人の母のもとに中国本土で生を受け、幼少期をマカオで過ごし、5歳の時に香港に移住する。

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 香港大学ではシェイクスピアを暗唱するほどの文学的な素養を身に着け、ロンドンの映画学校で学んだ後、武侠映画の巨匠キン・フーの助監督を務める。アン・ホイの映画的キャリアにおいて、この最初期のキン・フーとの僥倖ともいうべき出会いは決定的なものだったのではないだろうか。

 「映画は私の妻か夫で、文学は私の愛人なのよ」とアン・ホイは語っているが、たしかに彼女の映画にはキン・フー以来の伝統ともいうべき、文人的な深い教養ときわめて映画的な閃きとのうるわしい共存が見られる。それは、たとえば、「客途秋恨」(90年)、「黄金時代」(14年)のような自伝的な色合いの濃い作品にも、移民問題に鋭いメスを入れた「望郷/ボート・ピープル」(82年)のような社会派的なメッセージ性の強い作品にも等しく見いだされる美点といえるだろう。

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 その一方で、アン・ホイは娯楽奉仕の構えに徹したホラー映画や他愛ないコメディも平気で撮り上げてしまうバランス感覚も併せ持っている。そうした妥協と柔軟性に富んだ映画作りを積み重ねることによって、アン・ホイは浮沈の激しい香港映画界を果敢に生き延びてきたのである。

 アート派の巨匠ホウ・シャオシェンやジャ・ジャンクーからも、そしてツイ・ハークやアンディ・ラウのようなジャンル映画のヒーローからも、アン・ホイが手放しで称賛されるのは、まさに、その作家主義と商業主義のはざまで、見事に折り合いをつけ、自己の個性を貫き通した不屈の精神に他ならない。

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 しかし、今や、香港映画界は、合作か莫大な中国市場に依存しなくては、映画作りは不可能といわれるほどに困難を極めている。ラスト近く、新作のキャンペーンで中国本土の映画館を駆け回るアン・ホイが時折、見せる疲弊し切った表情がひときわ印象に残るのは、香港映画の行く末がそこに暗示されているからかもしれない。

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