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HIROSIMA(後編)

翌日、私は一人宮島を訪れた。船に乗り島が近づいてきた。25年ぶり(だと思う)の上陸だが、良い意味でほとんど何も変わっていない、というのが私の感想だった。ただただその幻想的な景観と情緒ある街並みは変わらぬ姿を維持していた。宮島に下船した時間帯は9時台だったが、外国人の観光客を中心に多くの人でにぎわっていた。運がよいのか悪いのか(悪くはないか)前回訪れた時はたまたま干潮時で、歩いて鳥居まで渡れて触ることもできた。今回は海の上に浮かぶ鳥居をしっかりと臨むことができたので、これだけで大満足であった。

港から厳島神社を目指して歩いた。時々鹿と遭遇した。鹿は下ばかり見て歩いており人間を警戒していないどころか、存在に気付いていないようにも見えた。餌を持っている人がいるとのんびりと近付きむしゃむしゃと食べる。ぼんやりとした瞳でそれを繰り返していた。やがて鳥居が大きく見えてきた。私は近くの浜におり、鳥居の正面に近づいた。すると、鳥居を背景に自撮りしているブロンドガールがいた。ひとしきり撮影が終わるのを待ち、私から「写真を撮ってくれますか?」と話しかけた。彼女は「もちろん!」と快く引き受けてくれたので(会社の)スマホを手渡した。何枚目かで私がダブルピースと満面の笑顔を浮かべると、笑いながら「So coool!」とシャッターを切った。私も撮りましょうかと伝えるとありがとう!と答えたので彼女からスマホを受け取った。とても良い国際交流だ。それにしても外国の女の子は写真の撮られ方の意識がとても高い。シャッターを切るたびに、かわいらしいポーズをとる。最後の一枚を取り終え、goooooood!といいながらカメラを渡した。すると彼女が私の背後に視線をむけ、やや真顔になった。振り返るとウィル・スミスのような彼氏(たぶん)がどーーーーんと仁王立ちして私を見下ろしていた。二人にとびきりの苦笑いで「は、はぶあぐっどとりっぷ」と伝え、そそくさとその場を去った。

宮島を後にして、電車で西広島に移動した。先生の息子君のばあちゃん(奥さんの実家)の家は山の中腹にある住宅地にあった。丁度バスがいってしまった後だったので徒歩で向かうことにした。広島の暑さは京都とはまた少し違い、より湿気を含んでいた。それでも時折頬をなでる海風が心地よかった。運動がてらジョギングで丘を駆け上がり、20分程度でばあちゃんの家に到着した。「いらっしゃい。孫がお世話になっています。前回はご長男と一緒にきた時よね。その前は自転車で来た時だったかしら」と笑顔で迎えてくれた。10年ぶりのばあちゃんは少しやせたけどその姿はほとんど記憶の中と変わらなかった。昨日ばあちゃんの家に泊まった息子くんが起きてきて3人で話をした。御年87歳、年相応に物忘れも全くない様子だ。この間大病を患い、10年前のように自分で車を運転して毎日スポーツジムに通う生活はもうしていなかった。それでも健康に気を使い体力を回復し、今年の春、孫(息子くん)の東京の大学の入学式には足を運んだという。孫の成長を見たい気持ちはなによりの健康の秘訣なのだろう。ばあちゃんは別れ際に「次はそんなに時間を空けずにまたきなさいね」と告げ、笑顔で見送ってくれた。

息子くんと広島の街におり、お母さん(先生の奥さん)の職場に足を運んだ。少し遅い昼休みに近所の広島風お好み焼きをごちそうになった。10年ぶりだがばあちゃんと一緒で見た目はほとんど変わりなく、あいかわらず元気で朗らかでよくしゃべるキャラは健在だった。この人には周りを明るい雰囲気にさせる能力がある。先生は「もともと良いお家柄じゃけ苦労も世間も知らんのじゃろ」というが、この人をみているとそれなら世間を知っていることは重要ではないと感じる。昔話をしているうちにあっという間に休憩時間が終わった。彼女は別れ際に「この子は東京にえいじくん一家以外に身よりがないけん、なんかあったらよろしくね。」と笑顔で私の肩をたたいた。

新幹線の時間までまだ少しあったので、息子君と二人で原爆ドームと平和記念公園を歩いた。はじめて広島を訪れた19歳の5月、私は平和記念資料館に足を運んだ。そして、原子爆弾により広島の街がどのうように壊滅し、多くの人の命が奪われたのか、その詳細を知った。何よりも衝撃的だったのは世界の平和が核爆弾という地球を滅亡させることが可能な兵器を基盤とした軍事力の均衡の上で成り立っている事実であった。

原爆ドームをながめながら息子君がいった。「あの日は、今日みたいにとても天気が良かったそうです。そして、この建物のほぼ直上600mで原爆が炸裂しました。この建物が残ったのは縦方向からの爆風しか受けなかったことがまず一つ大きな理由といわれています。横から爆風を受けていればこの建物も跡形もなく消えていました。あとは窓が多かったので衝撃と共に窓ガラスが全損して内圧が外に逃げたこと、それから建物が鉄骨だけでなく一部が銅版だったことで熱に耐えられたからともいわれています。原爆から1年以内に、広島で16万の人が亡くなりました。日本が降伏するタイミングはいくらでもあった。でもその判断がされないまま核爆弾は使用された。僕は将来、国が間違った方向に行ったときに発言する力を持った人間になりたいです。」そう話した。

広島駅の近くで先生と合流して、行きつけの立ち飲み鉄板焼き屋に入った。新幹線が出るギリギリの時間まで話し込み、3人で駅まで走った。あわててロッカーから荷物を引っ張り出し、売店でもみじ饅頭を買い、改札を駆け抜ける。まあ、毎度毎度こんなことばかりしているから、物を落としたり忘れたりするわけだ。改札越しに「ほんじゃえいじ、またの。息子を頼むけえ。」と先生がいった。

東京行最終新幹線の中で、今回の旅を振り返った。そして、そういえば私は小学生のころからずーっと先生にはお世話になりっぱなしだった、そう思った。勉強以外のたくさんのことを教えてもらったし、自分がどんな状況に陥ってもいつも通りのなににも動じない姿で話を聞いてくれた。お師匠様のような存在だ。そして奥さんにもばあちゃんにも、事あるごとに世話になってきた。そんなみんなから、東京に一人出てきた息子について頼りにされることをうれしく思っている自分に気づいた。与えてもらったことは、いつか恩を返すチャンスをきちんともらえる。人生とは本当によくできたものだ。自分用に買ったもみじ饅頭を頬張りながらそんなことを考えた。

おしまい

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