見出し画像

【エッセイ】それが「好き」で「そこそこ掘り下げられる」ものがある幸せをnotoで再確認!

 子どもには、好きで、そこそこ掘り下げられるものを抱いて生きていってほしいと思っている。
 
 それが将来的に、収入源となるかどうかは別の話。

 ひとりの人として、日々を生きていくための活力源になるものは、しつこいけれど「好きで、そこそこ掘り下げられるもの」だと信じている。
 
 そこで今日は、親でも子でも妻でも、とくに大人でもない、ひとりの人として、私の「好きで、そこそこ掘り下げられるもの」に関する、ほとんどひとりごとの話。

************

 私は、ミステリーと映画が好きだ

 ミステリーは、ゴリゴリの本格ものが好きで、密室とか叙述トリックとかアリバイなんかが大好物だ。金田一耕助や御手洗潔やポアロやエラリー・クイーンや古畑任三郎や刑事コロンボが大好きだ。

 ・・・大好きなのだが、今まで生きてきて、本当に身近に、同じ趣味の人がいない
 性別のことはあまり言いたくないが、特に女子で、中学生から刑事コロンボを見ていた…なんていう人には会ったことがないし、古畑任三郎については「あのドラマ好きだった」と言う人にけっこう会うことはできても、
「あの回のあのトリックはコロンボのあの回のオマージュだよね」
みたいな話をできる人は、リアル世界では会ったことがない。

 クリスティーの傑作を三谷幸喜が日本版にアレンジして脚本を書き、ドラマ化されたことに対して、鼻血が出るくらい興奮した・・・という人にも、リアル世界では会ったことがない(しかも、オリエント急行殺人事件→アクロイド殺し→死との約束・・・という超絶ラインアップだ。神すぎる)。


 島田荘司の御手洗潔がスクリーンで見られると思って死ぬほど興奮し、映画「探偵ミタライの事件簿 星籠の海」を張り切って観てはみたけど、「この脚本・・・どうなの? この設定変えたら、根本的に原作の良さが生かされないと思うんだけど・・・」という感想を語れる人も、リアル世界ではいなかった。

 ・・・それはいい、それはいいんだがしかし、生まれ変わったら、ミス研のある大学に入学してみたいと思ったりもする。


 冒頭から話がまとまらないが、何が言いたいかというと、notoを始めたことによって、「自分の好きなこと」を思い出し、そしてそれを「自分でそこそこ掘り下げられる」ことの幸せに、思い切り気づいたのである。
 気づいたというか、再確認した。
 そうだ私は、こういうことが好きだったんだ、と。


 notoは始めたばかりで、正直いって毎日書くのはまだ無理だと実感している。すぐに子どもが帰ってきてしまう。パソコンすら立ち上げられない日も多い。
 「みなさんの投稿を読むだけで終わった」日もある。それでも、なんとなく、ほんわりとした幸せを、今感じている


 ――それは、改めてわかったからだ。


 人は一人ひとり、こんなにも「自分」を持っているということ
 このnotoのなかに、何万人もの人が住んでいて、自分を表現しようとしていること…。
 なんというか、素直に感動する。人ひとりの生きる輝きだ。


 そんな感じでじんわりと感動しているうち、何日か前に「子どものお受験問題」みたいな記事を読んだことを思い出した。
 志望校合格や、それに向けての勉強を子どもの生活の優先順位第1位・・・としている家庭では、「いいんです、うちの子はとにかく勉強だけしていれば」という親もいる・・・という話。

 衝撃だった。

 いや、各家庭の問題だし、それを悪いと言いたいわけでは決してない。
 ・・・ないんだけど、「勉強だけしていればいい」子どもなんているのかな? と思う。


 勉強系のことが好きな子どもは、確かにいる。調べたり、読んだり、自分で考えて書いてみたり。でもそうじゃなく、あくまで「試験勉強」だけしていればいい、なんてことがあるんだろうか? 
 そう言われる、子ども本人はどう思っているのだろう。


 子ども時代は、その宝石箱のような感受性をフル稼働して、「好きなもの」「わ~これ楽しい!」というものを発見する時期じゃないんだろうか。


 人間にはそれぞれ「理屈じゃなく、好きなこと」「それをやっているだけで時間を忘れられること」がある。
 おもしろいことに周りを見渡すと、けっこう大ジャンルとしては「子どもの頃から好きなこと」を、「今でも好き」な人が多い。けっこう多い。

 
 子どもには、勉強などの「やらなければならないこと」のほかに、「やりたいこと」もやってほしい(当たり前だね)。受験をする子は、時間のやりくりが必要なんだろうけど。
 

 だって、好きなことは、自分を救うからだ。何歳になっても。


 そしてここが大切なのだが、好きなだけでなく、「そこそこ掘り下げられるくらいの」知識や技術があると、もっともっともっといい
 

  ーーで、今からマニアックなことを書きます。
  例えば私なら、「金田一耕助シリーズで、有名作品はどれも面白いが、『本陣殺人事件』『犬神家の一族』『獄門島』『悪魔の手毬唄』『八墓村』『悪魔が来りて笛を吹く』・・・のなかで本格ミステリーとして突出した出来栄えの作品は『悪魔の手毬唄』である。なぜならば・・・」というテーマを長々と語れる。
 自分ひとりで、考えているだけでも興奮してしまう。今のところ、これを聞きたいという友人はまだいないが、それでもいい。自分自身が幸せだ。


 例えばうちの夫なら、囲碁や将棋や麻雀が好きなので、テレビで対局を見ていると「わ~この一手はすごいぞ!」と盛り上がることができる。一人でも。
 私はルールがあまりわからないので、「今の一手のどこがすごいか」がわからない。だから、「感動できる人」のことを羨ましいと思ってしまう。 
 「教えてくれる?」と頼んでも、ルールと「今の一手」のポイントを聞いたところで、自分のなかに「そのものに対する蓄積」がないので、「そうなんだ!すごい!」と感情までは動かない。
 だから悔しい。知っていれば、感動できる人になれたのに、と思う。


 自分でそのことにどれだけ時間をかけ、おもしろいと思って積み重ねてきたかとか、自分の頭と心に蓄積されたものが重要なのだ。

 
 例えばサッカーが好きな人なら、試合を見て「今の角度から打ったシュートがどれだけ技術的にすごいか」・・・みたいなことが、わかるんだと思う。だから、「うわ~すげえ! 今の見た!?」となるが、なんとなく眺めているだけのにわかファンには、わからない。


 野球ファンが世の中に多いのは、たぶん、自分なりに「そこそこ掘り下げられる」要素が多いからだろう。
 投手、打者、守備、試合の流れ、対戦カード・・・考えるポイントが多いんだろうな。「今のは〇〇だろう!」「この監督はダメだな・・・」なんて言いながら観ている人を見ると、自分なりにそこそこ掘り下げられておもしろいんだろうな、と思う


 また、私は草花を育てるのが苦手で、いわゆる「枯らす手」の人だからガーデニング等には手を出さないようにしているが、得意な人は「ここは間引きをしたほうがいいの」とか、「この花はこうしてあげなきゃ」・・・と、生き生きと語る。


 それはみな、プロになるほどではないけれど、そこそこ掘り下げられるだけの知識や技術を持っている人達・・・だ。


 私は趣味で合唱をやっていたから、美しい和音を聴くと感動する。
 もう声はまったく出ないが、うまい合唱団の演奏を聴くと、「この曲を仕上げるのにアルトがどれだけ苦労したことだろう・・・わあ、今のソプラノ、声の出し方すごい!」とかがわかる。それだけで、ワクワクするし、涙が出そうになることもある。でも、たまたま一緒に聴いていた友人は、「ごめん、ぜんぶ同じに聴こえる」という。そうだと思う。私も、彼女が大好きで趣味にしている多肉植物の育て方が、まったくわからない。


 「自分でそこそこ掘り下げられる」ことは、おもしろい。
 これがあるだけでも、生きている喜びというものは、違う



  趣味を持つというと、ハードルが高いと感じる人もいるのだろう。
 でもただ「好きで、そこそこ掘り下げられるもの」でいいんだと思う。


 だからそれが、芸能人でもいい。推しの芸能人がいる人は、その出演作を何本も見たりして、知らず知らず(?)のうちに研究していると思うし、その人に関する知識や情報を蓄積し、ファン同士で語れるほどになるだろう。


 人はそれぞれ、「好き」で「そこそこ掘り下げられるもの」をいくつか持っていて、そのどれかがお金になればそれが職業になるけれど、別にお金にならなくても、それを持っていることは、生きる活力になる。


 だから私は、子どもにも一人ひとり、そういうものがあるといいなと思う。
 まだ「個性」「個々の能力」なんていうものは、おぼろげにしか見えない年齢や状況であっても、その片鱗は必ずあり、生きるのが楽しくなるように大人が一緒に見つけてあげられたらいいな・・・とも思っている。そんな社会になったらいいのだけれど。


 だからうちの子どもの達にも、普段からできるだけ聞くようにしている。


「ねえ、今読んでる本、あなたにとってどういうところがおもしろいの?」
「今やってる習い事は、あなたにとってどういうところが難しくて、どういう瞬間がおもしろい! って思えるの?」


 たま~に鬱陶しがられるけど、でも言語化させると、自分でも気づく瞬間があるみたいだ。
 ああ、自分ってこれの、こういうところ好きだと思っているんだな、という確認は、時々しておくといい。


 ――そう、notoをやるようになって、日々こんなことを考えるようになったのだ。


 相変わらず、書きたいことを書くのには時間が全然足りない。


 一体いつになったらたくさんの「掘り下げたい」ことを書けるようになるのか、先も見えないけれど、「好き」なことがあるのは素晴らしいのだと、私は最近、つくづく思い出したのだ。


 みなさんの、たくさんの投稿のおかげで。 notoという場のおかげで。


 好きで、そこそこ掘り下げられるものがあるのは、楽しい。
 そして、同じものを持っている人達と繋がれるのは、もっと楽しいのだろう。


 いつも、ありがとうございます。あなたに感謝しています。


 ーーちなみにいつか、「三谷幸喜氏に感謝していること」、を書けたらいいな・・・と思っているのであった。


#noteでよかったこと

この記事が参加している募集

#noteでよかったこと

48,204件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?