見出し画像

信頼と期待、人の壊し方

 自分が生きてきた中で、自分がした選択については、後悔というものを感じないくらい、最善手を取り続けてきた自信がある人間です。常に、自分にできる限りの全てを尽くしていると思います。
 だから、周りの人にこうしてもらえれば、あの人がああだったら、っていう、自分ではどうにもならない部分での不完全燃焼は、かなりあります。

 特に、あとになって「あの時こうすればよかった」と言われた時の無力感は、途方もないものですね。
 そう思うくらいなら、どうしてできなかったんだって気持ちになります。

 私が助けを求めていたのなら尚更。
 「たすけて」を、ただ素直に聞き入れることができていたのならば。

信頼で人は壊れない

 誰かや何かを信じることって、とても難しいことだと思います。
 何かを信じることができる以上、感情があることになりますからね。信じる気持ちも感情の一部ですし。

 神仏を信じる、いわゆる『信仰』というものは、『信じる』という気持ちの中でも、一番リスクの低い安全なものかなと思います。

 私は、妖怪や八百万の神々が好きです。人の暮らしととても密接なものだから。
 ものを大切にして欲しい作り手の想いから、付喪神(つくもがみ)という神様が生まれたのだろうし、狐が餌を求めて山を下る姿を見て、山の神が人里に使わせた神使として崇められたという説があったり。
 誰にでも馴染み深い話ならば、トイレの花子さんとか。一人でトイレに入るのは怖いから、丁度良い言い訳として”花子さん”を生み出したのかなって思います。想像ですけど。

 話を戻して。
 ここでは、ありもしないものに対する信頼のことを、ざっくり『信仰』と一括りにしましょう。わかりやすいですし。

 信仰が向けられる対象って、実在しないものなわけです。
 神でも仏でも妖怪でも、死んだおばあちゃんでも、なんでもいいです。
 相手が実在しなければ、その感情がどれだけ苛烈なものだったとしても、信仰された相手が傷つくということはあり得ませんよね。相手が存在しないのだから。

 そして自分もまた、傷つくことはないと思います。
 花子さんを信じて3番目のトイレを避けても、別に自分が傷つくことはありません。初詣に行って一年の良運を願っても、傷つくことはない。

 結局、『信仰』って自己完結した感情だと思うんです。
 信じているからいる気がする、そしてそれを都合よく使っている。

 信頼に含まれる、『信』と『頼』ですが。
 信じるのも頼るのも自分のすることで、実際に相手が応えるかどうかまでは含まれていないと、私は思っています。
 だから神仏同様に、実在する人や物に対して『信頼』を向けたとしても、相手を壊すようなことはないと思います。

 相手を壊すのは、『信頼』ではなく『期待』です。

期待で人は壊せる

 信頼は先述した通り、自分のすることです。
 期待もまた「期待する」という文章に関しては自分のすることになりますが、そのために実際行動する人物は、自分ではない誰かになります。

 誰かがこれをしてくれることを、私が期待する、といった感じ。

 自分が相手に対して、「こうして欲しい」「こう在って欲しい」「こうなって欲しい」という、自分の感情を押し売りしているのが、『期待』だと思っています。
 『信頼』との違いは、「あの人ならこれできそう」と思うだけで、実際してもらうかは別の話だという点。自分の『期待』という感情には、「あの人にこれをしてもらう」という動作が含まれるので、自分の感情に人を巻き込んでいると思うんですよね。

 なんてはた迷惑な。

『できる』と『やる』は別

 能力があるなら、それは社会のために生かされるべき、的な前時代的な考え方もあるようなないような。でも、個性が尊重される今のこの風潮の中では、滅ぶべくして滅ぶ考え方なのかなと感じます。

 できるならやってあげればいい、できるのにやらないのは意地悪だ、という価値観の人とは、お近づきになりたくないですね。
 自分の意思が尊重されないので。

 そういう、弱者に対し加護補になる考え方はあまり好きではありません。
 今は弱者というだけで、適切な指導を受ければ能力が開花することは、誰の身にも起こり得ることだからです。
 「かわいそう」という感情は、一見すれば正義に則っているように感じますが、実際のところ、暴走した身勝手な正義を振りかざしていますよね。暴力と同じ。

 さらっと話を流してしまいましたが、「できるのにやらないのは意地悪だ」というのは、期待(できるならやって!)の先で裏切られた失望(やらないなんて意地悪だ!)まで含まれていて、感情のフローチャートとしてはとても興味深い。

 そう、『期待』には『裏切り』がセットなわけです。

裏切りで関係が壊れる、そして人が壊れる

 誰だって、人に裏切られた経験はあると思います。もちろん私にもあります。
 裏切られた時は誰だって感情的になるので、裏切ったあいつが悪い!となりがちですし、根本的に裏切る側が悪い場合も十分にあり得るのですが。

 予防策として一番良いのは、初めから『期待』をしないことですね。
 「あなたならこうしてくれる」という甘えた『期待』が初めからなければ、裏切られたという気持ちになることも、あり得ない。

 まあ、理論的にはというか、言葉の上ではそうなりますよね。

 個人的に、人間関係が拗れる理由は、突き詰めれば『期待』と『裏切り』しかないんじゃないかなぁって思うんです。
 何かを言われて傷ついたとか、相手と馬が合わなかったとか、相手に何かを求めていますよね。この人ならこんなこと言わないだろうとか、この人にこうして欲しいとか。よくある、少し拗れかけの人間関係。
 つまり『期待』をしているわけです。期待する以上、裏切られる可能性はどこまでもついてまわる。

 すがるものが欲しくて『信頼』する、見返りが欲しくなって『期待』する、歯車が狂って『裏切り』が生まれる。
 ひたすらにその繰り返しだから、渦に巻かれすぎて目が回ってしまう。疲弊してしまう。しんどくなって、辛くなって、たどり着く先は壊滅。

円滑な人間関係を守るために

 まあ、ここまでわかったところで、『期待を一切しない』というのは、ほぼ不可能だと思うので、『裏切られるリスク』をゼロにするのは無理ですね。言い切っちゃいます。

 現実的な範疇で一番理想的なのは、相手とちゃんと『すり合わせ』をすることです。
 その辺をなあなあにして、「まあいいや」を繰り返していると、どこかで関係性が破綻します。「私はこんなに尽くしているのにあなたは…!」って方向に、拗れていく。これは『期待』と『裏切り』の典型例。

 そうならないように、「これをしてくれますか」「いいですよ/いやです」と、相手の意思を問う必要があります。これが『信頼』です。
 信頼関係を築くとはよく言いますが、要約すれば、相手の意思に耳を傾けるということなのかもしれませんね。

 言葉って、言葉を交わすって、とてもとても大事。

壊れた私

 かつての私は、そうやって言葉を交わすことができなかったなって、思います。
 でも、後悔にはなりません。というか、できません。
 なぜなら、過去の私は未熟すぎるからです。今ほど言葉にならないし、声を上げる勇気がないから。

 私以外にも要因があります。
 言葉を交わすことが、誰にとっても「時間をかけるべきもの」という認識ではありませんからね。そもそも、お互いに言葉を交わすこと自体を億劫に感じる人の方が、割合多いのではと思います。
 私がいくら言葉を交わしたくとも、相手に拒絶されてしまってはどうにもならない。そこが難しいところ。

 その果てに、私は病気になったし、働けなくなったし、何年も薬を飲み続けています。
 まあ、ここまで行くのはかなりレアケースだと思いますがね。
 期待に応えられなくて攻撃的になってしまって、どちらか或いは互いに病気になってもなお、ちゃんと言葉を交わすことができなかったり意思表示ができなかったりて、また期待が裏切られて攻撃的になって…を、延々繰り返した結果です。仕方ない。

 もう少し、私の言葉を聞き入れてくれる人がいたら。
 適切な援助や休息が得られていたら。
 どれほどよかったことか。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。