”当たり前”な気持ちなんて無い
いよいよ秋といいますか。
気温がだいぶ落ち着いて、湿度もだいぶ落ち着いて、天気が不安定気味だったり、虫の声も風情を感じる優しいものに変わったり。
私は、春夏秋冬、その間の梅雨や秋雨などの期間も含め、どの季節も好きな方だと思います。
春や秋は気候的に過ごしやすい上に、桜や紅葉といった世界の姿に癒されます。春はこれから新しいことが始まりそうなワクワク、秋はどこか寂しいけれど、心機一転頑張るぞ!と気合が入る時期。
夏は暑いですが、私は比較的暑さには強い方ですし、少し気温の落ちた夕方ごろ汗をかく運動をすると、お風呂がとても気持ち良いんですよね。また、虫が活発に動いているのもいいなぁと感じます。
冬は何よりスケートができる!私の趣味の一つですから、とっても大事。年末年始に帰省すれば家族や親族に会えること、私の誕生日が1月にあることも、冬が好きな理由の一つかも。
どんなものにも、小さな幸せが実っている。
これが好き!あれは嫌い。
私って、内心好き嫌いがかなりはっきりしている方だと思うのですが、許容できる範囲がそこそこ大きいからか、もしかすると『あまり好き嫌いの無い子』という認識をされているのかもしれません。
あまり、自己主張はしないタイプですね。
とはいえ、もともとしないタイプだったわけではなく、むしろ小さい頃は、自己主張の激し過ぎで色々と問題を起こすタイプろ厄介な子でした。
保育園の頃、グループの名前を決めましょうという時間で、今回のお題はフルーツですみたいなことがあったのですが。
ありきたりな、リンゴとかぶどうとかってのがなんか嫌で、一捻りした面白い名前がいいなって思ったんですよ。色々案は出ていたと思うのですが、どれも全部「嫌だ!」って突っぱねてて、他のグループはとっくに決め終わって遊んでいるのに、私たちのグループだけはずっと席に座ったまま。
先生が来て、「じゃあパイナップルはどう?」と聞かれて、パイナップルは好きだったし、なんとなく納得できて、パイナップルになりました。
何かを強要せず、全員が納得できる答えを提案してくれた先生の機転が素晴らしいのは言うまでもありませんが、私って本当に頑固だったんですよね。
本題に戻って。
人間って、本質的には変わらない生き物だと思うんです。様々な経験をして、その結果、成功しても失敗しても、挫折など人生を大きく変えてしまうレベルだったとしても、変わらないと思うんです。
だから私も、幼少期の頑固さは、今でも相変わらずだと思うんですよね。
ただ、様々な経験をしていく中で、器が大きくなっていくというか。
幼い頃は、嫌なものはとことん嫌!好きなもの以外はダメ!だったとしても、ほんの少し歳を取れば誰しもが、嫌だけどいいや、好きじゃないけどやってみよう、くらいに許容できるようになっていきます。
器が大きくなると言うよりかは、シンプルに『成長』と言った方が伝わりやすいかもしれませんね。
でもここで大切なのは、成長したからといって、やはり本質的には変わっていないということ。
正義感の強い人は、自分なりの正義を持って生きていくし、リーダーシップのある人は、どこへ行っても何をしていてもみんなを率いていく。
人見知りの人は、街中のティッシュ配りから目を背けるし、共感性の強い人は、周りからの影響をとても受けやすい。
そういう根っこの部分は、絶対に変わることはないと思います。
でも、それが『自分』
そんな自分が『好き』か『嫌い』かもまた、人それぞれかもしれませんね。
リーダーシップを発揮するのはいいけれど、たまには自分も気を抜きたいのにな、とか。
人見知りのせいで、本当は友達と遊びたいのに、誰にも声がかけられなくて寂しいな、とか。
個々人で、まあ色々あると思うんですよ。私にだってあります。
私だって、私の好きな部分・嫌いな部分があります。
でも、そういうの全部丸々一つの身体に詰まったものが、『自分』っていう人間なわけです。
好きでも嫌いでもいいんですよ。ただ、「こんな自分は、自分ではない!」みたいな、頭ごなしの否定はしないで欲しい。
私はまあ、総じて、自分のことが好きな方だと思いますよ。
いいところなんてほとんどないし、思い描いた人生なんて1mmも歩めていないし、やりたいことも9割ができていない。ただでさえ不運が多かったのに、頑張ってもこんな人間で、不満爆発しそう。生き地獄!
それでも私は、私のことを好きだなと思いますよ。
なんでかって、まあ理由は一つではないし、一つに定める必要もないと思っていますけれど。
あえていうなら、とち狂ってて面白くね?って感じ。
私みたいな人生、そうそうないと思うんですよ。本当に、不運が過ぎていたと思います。
あの時あの人がこうだったら…、あの時こうすることができていたら…、なんて、誰の身にも心当たりがあると思いますが、私の場合、それが人生を狂わせるくらいのそこそこな事件でしたからね。例えば結果として、高校を辞めるとか、ODして救急搬送されるとか。
ね?とち狂ってて面白いでしょ?
静かな世界
これだけとち狂ってたら、まあ正気でいられるわけがない。
ストレスというか、心理的負担というか、色々なものに耐えかねて発狂しそうになる時があります。いやマジで、リアルに。叫び散らしたくなるし、ものとかぶっ壊してやりたくなるし、自傷方向に走って、なんならついでに死ねたらハッピーみたいなテンションになる時があります。
そうなる直前、まあ色々なことに耐えてる期間ですね。実はつい先日までそんな感じの期間だったのですが。
なんていうか、世界から全てが消えたような静けさがしたというか。
全てが喧騒でしかないけれど、興味がないからどうでもいい。どうでもいいから、認識しない。
お腹が空いたも、眠いも、疲れたも、しんどいも、それら喧騒が全てシーンと静まり返った心地がしました。
この時は別に、発狂しようとか何もないのですが、強いて言えば、死ねる機会があったら死にたいなと思っていましたね。
心が、動かないんですよ。
感動しない。嬉しくない。楽しくない。つまらなくない。面白くない。辛くない。悲しくない。しんどくない。幸せじゃない。不幸せじゃない。
全てがどうでもよくて、なんでもない。
これが波風一つない、凪いだ世界の心なのかなぁなんて思いました。
それを超えてから、「もう限界だ」と感じて、自分の感情を手当たり次第ぶっ殺していくようになりました。
しんどいな、んなわけねぇだろやるべきことをやれ。辛いな、対して何もしてないだろ何言ってんだ。悲しいな、勝手に傷つくなキモい。虚しいな、お前が何もしてこなかったのが悪いんだろ。
それで、死にたくなりました。死んでもいいと思いました。死ぬ方法を考えました。すごくリアルに、死んだらどう腐敗するかなとか、この死に方はどんな死体になるかなとか、そういうことも考えていました。
どんなに死にたい時でも、棺に入る私は、できる限り綺麗な私がいいとかいう謎の欲求があるんですよね。だから、自殺したいと思いつめていたとしても、私にとって”死に方”は大切なわけです。
凪いだ世界から、喧騒の世界へ
色々とありましたが、ほとんど恋人のおかげで、凪いだ世界で死ぬ方法を思案していた私は、喧騒溢れるこちらの世界へ帰ってきました。
要するに、死にたかったけど、死ななくてもいいかなくらいに心が復活しました。
復活したてだからふと思ったことなのですが、人の心って、自然と動くのが自然なことなんだなぁと。
当たり前のことなんですけどね、それって意識したことありますか?
何かを見て、或いは聞いて、感動したり、怒れたり、悲しくなったり、面白く感じたりする。
同じものを見たり聞いたりしても、誰もが同じように感じるとは限らないし、それが言葉で表せるとも限らない。むしろ、言葉で正しく表すことのできる感情なんて、ほんの一欠片しかないでしょう。
それでふと、タイトル通り、『”当たり前”な気持ちなんて無い』んだなって、思いました。
自分が何か刺激を受けて、自分が何かを思う。
それだけのことが、なんていうか…心の代謝なんだなって。
日常生活って、心が動く出来事で溢れていると思うんですよ。
お笑いを見れば楽しい、仕事をすれば疲れる、スポーツをすればすっきりする、特別な日は嬉しい、でも長期休み前の終業式はめんどくさい、みたいな。
どれも当たり前みたいにいつもそこにあるけれど、人は時々、それが当たり前でなくなる時があるんだって、少しだけわかったから。
今こうして、もう少しで記事が完成しそうで『嬉しい』気持ちも、この後記事を投稿した時の『やり切った!」って気持ちも、当たり前のようで、全然当たり前ではなく、むしろ全てが特別なもの。
だから、せめて自分だけは、自分の心に正直でいてあげたいなと思いました。
言葉で伝わる私の想いは、ほんの少しだけだから。
一番わかる私自身が、ちゃんと向き合ってあげなくちゃ。
疲れた時は疲れたって思う。しんどい時はしんどいって思う。やることなんて全部忘れて眠っちゃおう。
楽しい時は楽しいって思う。嬉しい時は嬉しいって思う。いっぱい笑って、いっぱいはしゃいで、いっぱい喜んじゃおう。
今は、今この瞬間しかないから。
いつだってその気持ちは、”当たり前”じゃないから。
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