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型破り

林檎はふぞろいでいい。特定の「型」にハマる必要はない。そう思うようになったのはいつからだろう。例えば年賀状。どうせ書くなら楽しまなければと思ううちに、どんどん型破りがエスカレートしていった。喪中葉書にも「喪中につき…」の文面を使ったことがない。受け取った人から「もしかして、ご家族亡くなった?」と尋ねられたり、「なんであの写真?」と言われて、ひとり悦に入っていた。我ながら、つくづく変なヤツだと思う。

元興寺で撮った写真をなんとなく使ってみたり…

賀状作成はお歳暮やクリスマスプレゼント、お礼状執筆に続く作業のため、師走はいつも追われていた。そういえば以前はイルミネーションにまで手を出していた。そのためやわな私は年末年始に風邪で寝込むことが増えていった。さすがにまずいと思い、ようやく数年前から年賀状卒業プロジェクトを始動。SNSやメールが使える方から順に「賀状やめます宣言」をさせていただき、大幅に負担を減らした。

おかげで風邪こそひかなくなったものの、不思議と師走の忙しさは変わらない。これまで気にする暇もなかった「型通り」のお礼状がやけに気にかかる。やめておけばいいのに、息子が使い古した図工セットから絵筆を取り出す。こうして今度はお礼状の「型破り」が始まる。

林檎16個を贈ってくださった方への礼状
ヘタクソなりに心を込める🎨

いっそのこと「型通り」で済ませていたら、もっとらくに生きられたかもしれないと思う。それなりに義理も果たせて、もっと無難な人生を送っていたことだろう。それでも私はその気楽さが怖くてならないのだ。

あれは中学時代の運動会前の全校練習だった。丸ごと1時限を使って校庭で開会式の入場行進練習をした。左、右、左、右…と踏み出すこと。頭は常にまっすぐ前を向くこと。トラックを曲がる時は首を動かさずに横目で隣りの人の肩を確認し、横一列にまっすぐ並んで曲がること。そのため内側の人は歩幅を狭くし、外側は大股で歩く必要があった。これをひたすら練習すると、1000人余りの生徒が美しく揃って歩けるようになった。私はその練習がなんてらくなんだろうと嬉しかった。(たぶんイワシのトルネードでも、中のイワシは必死で皆に付いて行くというより、案外、気楽に泳いでるんじゃなかろうか?)あいにく行進練習はそれきりだったけれど、全校生徒が一体となったような高揚感とともに記憶の奥に沈んだ。

社会人になってから、とある研修施設で某企業の新人研修を目にする機会があった。中学生の私と同様、新入社員が黙々とあの行進練習をしているのだった。その様子は外から眺めると異様そのもので、組織からはみ出さない人材を育成しようという意図が透けて見えていた。ショックだったのは、中学生の自分はその意図にまったく気づいていなかったという事実だった。怖いと思った。知らず知らずのうちに周囲に合わせる生き方を身につけていたことに、その時、ようやく気づいたのだった。

この歳になって思う。私の無駄に力の入った型破りは、らくを好む自分自身に対するささやかな抵抗だったのかもしれないと。


🍏追記🍎
aosagi31さまが当記事を素敵なマガジンに加えてくださいました。どうもありがとうございます。同じく年賀状を記事にされているので、ぜひご覧ください。毎年の習慣だけに aosagi31さんならではのセンスが光っています。賀状のお写真にも注目です。