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地上1.7mの銃眼から(Disc4) -創作大賞2024 お仕事小説部門

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21.ハルちゃんのこと


 今の職場も男が半分以上だけど、女性社員も少なくない。
 業種の必然っていうか、男はたいていオタク気質で服や髪型に無頓着だ。女の方は東京カレンダーや韓流アイドル、それかロンハーマンなんか好きそうなタイプが多い。飲み会で夜を明かすのはほぼ前者の男連中だよ。

 けどハルちゃんはいつも最後までいる。
 まだ20代のハルちゃんは、中途入社からグループマネージャーの宮沢さんと社内結婚した。
 宮沢さんはイケメンの東大卒で最年少の役職者だ。そろそろ30になる。他のやつみたいなギーク臭さはかけらもなくて、パーカーを着るときは紐を抜いてガキっぽくならないようにする垢ぬけた男だった。
 二人でタバコを吸ってる時、宮沢さんはぼやいた。何もない地方で育った自分の10代はとことん勉強漬けで、新卒でここに入ってからは仕事ばかりしてたから趣味に乏しいんです、って。
 楢崎さんの自虐的な口調とはどこか違ってた。そのとき俺は左右非対称の変な髪形をピンク色に染めでかいピアスを入れてたから、半分は当てこすりなんだろう。
「自分も酒と女しか興味ないっすね」
 吐いた煙は街灯の明かりから出るとすぐに見えなくなった。

 ハルちゃんをハルちゃんと呼ぶのは俺だけじゃない。でもそれを耳にするのは男連中でいる時だけだ。みんな面と向かっては"安田さん"と旧姓で呼ぶ。
 中途社員歓迎会の日、ガルフィーのピンクのジャージで遅れてやってきたハルちゃんは俺の隣に座り、挨拶もそこそこにボディタッチを始めた。髪は金とシルバーグレーの二色だった。
 フルネームで自己紹介したら俺は"シンちゃん"になり俺もハルちゃんと呼んでたけど、他の人らにとって"ハルちゃん"は三人称らしかった。

「こないだの日曜、ハルちゃんハイキング部に顔出してたよ」
「あー、社内報で見ました。うちの会社のロゴT、なんかサイケな色に染めて着てましたよね。何だっけ、タイダイ?自分でやったんですかねぇ」
 ここにきてから喫煙所のやりとりは好きじゃなくなった。楢崎さんに世話になる人でさえたまに陰気な笑みを浮かべる。半開きの口から押し出される無声音の笑いは、煙をまずくした。

22.#REF!


 社内ウェブの自己紹介ページはハルちゃんが誰よりも派手だった。
 たいていの人はどの欄もほどほどに書いてある。趣味なら、マンガ、アニメ、オンラインゲーム、フットサル、ソロキャンプ、スキューバ、野球観戦...、一人につき2つ3つ、それも特にまとめようとはせず、ボルダリングとオタ活を同時にやってる人もいた。
 本当に、本当にいろんなヒトがいる。
 楢崎さんは別枠として、俺はカルチャーショックを感じたよ。知らない価値観にふれたというより、雑多な感性が共存してて、一人の中にも様々な要素がないまぜになってる。これじゃ誰かと話すたびブラウザを開かなけりゃいけない。
 ハルちゃんのやつは、経歴、趣味、好きな○○、マイブーム、座右の銘…、すべて手書き文字を画像化したものが貼られ、思い出のスナップショットもふんだんに使われてる。その派手さはビデオ屋のアダルトコーナーが遠目からも分かる、あの感じに似てた。同じ部の人のページにざっと目を通し、こういうものは中身より書き方に人柄が出るって教わったのはハルちゃんからだ。
「あたしはそこらの子とは違うから」
 そんな声が聞こえてくる。
 どうにかなりたいとは思わないけど、そういうタイプはなぜか引っかかる。
 ハルちゃんに抱きつかれるのは俺だけじゃなくて、たいていの男だ。そういう時うちの会社のたいていの男は素早くあたりを確認して、そっけないふりをしたり、あるいは頭をちょっと撫でたりする。旦那がいてもハルちゃんは躊躇しない。

 いつもの飲み会のタバコ部屋で、たまたま男だけになり悪い話で盛り上がってた。宮沢さんはかなり酔っぱらってて、こないだの出張先が地元の近くだったから幼馴染を呼び出して寝た話をしてた。
「なんかもう、冷めちゃってるっていうか、一緒にいてもつまんないんですよね」
 飲み会は来るやつと来ないやつがはっきりしてるけど、皆勤賞のハルちゃんは今日も壁一枚隔てた部屋でみんなと飲んでる。グループマネージャーがこんなバカな隙を作るのには驚いた。酔ってもあまり顔に出ないんだろう。宮沢さんはそのまま壁にもたれかかって目を閉じた。
 ハルちゃんがああだから宮沢さんが冷めるのか、宮沢さんが冷たいからハルちゃんがあんなんになるのか、それは卵とニワトリどっちが先かの話と同じだ。でもハルちゃんは生まれた時からハルちゃんで、誰だってそうだ。
 酒だけアホみたいに強い俺は無理やり飲ませてくる先輩のいない飲み会が少し物足りなくて、ウィスキーをそのままあおってた。

 間違ってばかりだけど、ハルちゃんは今も全力で宮沢さんの気を引こうとしてますよ。
 そう口に出す前に、宮沢さんは寝息を立てていた。

23.On da Wasteland


 タバコ部屋の男たちのテンションが落ちてくると、俺はグラスを掴んで元の座敷に戻った。
 俺の座ってた一角は村上春樹の話で盛り上がってた。
 人間観察が趣味だなんて思われたくないけど、俺はしばらくみんなの様子を見てた。喋る中身より、口調や表情やテンションに目を向けた。
「古河さんはどんな本読むんですか?」
 会話の中心にいた女の子にふと聞かれた。そのとき俺はたまたまマトモな髪型で、気を遣われてたならしくじった。
「大江健三郎が好きだよ」
 職場で本の話を出すなんて初だった。
「あぁタイムリーですね!来週ノーベル文学賞出ますもんね」
 マッシュルームヘアのメガネが口を挟む。
 確かに読み始めたきっかけはそこだった。ノーベル賞作家ってのはつまりワールドチャンピオンで、キングオブキングで、スーパーヒーローだからだ。
 その子はちょっと引いたみたいだ。
「大学で周りの子たちがみんな難しいって言ってて、でも戦後を代表する作家だからちゃんと読まなきゃと思って...」
「そうなんだ」
 間があいた。その子は気まずそうに目を瞬かせた。こういう時は気を遣わなけりゃいけない。
「酒強い?」
「強いですよ」
 自信ありげに言った。
「まぁ飲みなよ」
 こんなんでいいのか?と思いながら、ピッチャーからウーロンハイを注いだ。
「大江のどういうところが好きなんですか?」
 そう聞かれ、俺はふとヒデキを思い出した。細かいやり取りを億劫がるあいつは、テンションが上がるとGSのアクセルをウービーウービーふかしてた。シンプルだった。
 要点を手短に伝える大事さを楢崎さんはよく強調してたから、俺は考えた。
「"粗にして野だが卑ではない"を地でいってるとこ」
「え?」
 自分でも意味がよくわからなかった。
「クルマが出てくると必ず車種で呼ばれるけど、酒が出てきても銘柄は書かれないから」
 その子はなぜか落ち着きを取り戻し、
「へぇ、そうなんですかぁ」
 と言って笑った。
 俺はその子の名前を聞き、どんな小説が好きか尋ねてみた。
「谷崎潤一郎が大好きです」
 その子は目を輝かせて話し出した。
 落ち着いた声を聴いてると、職場を含めたすべての居場所が欲のサイズにピッタリ合ってる気がした。女優みたいな美人じゃなくても似合う服を似合うサイズで着てる、そういうのと同じで、惚れた男は世界一キレイだって心から言うんだろう。俺が好んで関わる人には少ないタイプだった。
 谷崎は、盲目の姐さんが火傷でカオを台無しにしたから、みずからの両目を潰してかしずく男のストーリーが有名で、ファンがたくさんいる。
 でももし俺がそいつだったら、目は潰したことにしといて後はアドリブでしのぐ。どうせ見えないんだから何とかなるだろ。
 そんなことをありのままを伝えたら、その子はがっつり引いてた。茶化したわけじゃないけど俺の感想の幼稚さに呆れて、本の"読み方"ってものを教えてくれた。
 書き手が人と状況を動かし組み上げた箱庭全体を、つぶさに眺めること。それが作品への敬意なんだそうだ。
 本好きにその手の話をされるのは初めてじゃない。現実に妄想を持ちこんだらアブナイやつだけど、空想の世界に現実を持ちこむのもつまらないやつだ。でも、愛する女を守りながらそんなウソをつき通すやつがいたら、俺は嫌いじゃない。
「マジメだね」
 本音を言ったつもりだけど、その子ははぐらかされたような、釈然としないカオをしてた。
 本やマンガを読むたび、映画を見るたび、こんな時自分ならどうするだろう、ガキの頃からそればかり考えた。日々の積み重ねでかたどられるたった一つの箱庭さえ知ることができれば、俺は十分だった。
 鳶の人たちが強いのは腕っぷしなんかじゃない。闘う時も逃げる時もためらわないことだ。
 俺はふいに、重力の弱い星に来たみたいな、漠然とした不安に襲われた。このまま何も変わらず老いて死んで、あの世でせっせと答え合わせするなんて勘弁だった。

 でもその子は俺についてひとつ確かなことを言ってたみたいだ。
「核戦争でゴキブリまで滅んでもしぶとく生きてそう」
 あとで人づてに聞いたとき、俺はGSにまたがり北斗の拳みたいな荒野を走る自分を想像した。不思議と悪い気はしなかった。

24.カラオケ&アフター


 二次会はカラオケだった。
 宮沢さんは疲れてるらしく、酔いを醒ましたらタクシーで帰ってった。
 俺はまだ飲み足りなかったけど、すでにいい感じになってる人が多くてコスプレコーナーが気になった。セーラー服でも着て福山雅治のしっとりした歌を歌おう、そんなことを思ってたらみんなそこを素通りし部屋に向かってく。
 ヤベぇな、三十半ばになっても昔の癖が抜けない。こんなん面白がるのはよくてケンスケくらいだ。
 とはいえ部屋に入ったら入ったで、男連中がエヴァンゲリオンを熱唱してた。ハルちゃんも混ざってる。大して変わらないノリじゃんと思いながら、鳶のころとは少し空気が違う。あそこでは男しかいないから場が温まると誰かしらスッポンポンになった。最初に脱いだやつが勝ちだ。
 脱ぐのはNGでも、悪ふざけがしたいならやりきりゃいいのにと思う。ハイテンションで騒ぎながらマラカスやタンバリンでオタ芸するのをはばかられる理由が分からなかった。
 デンモクを回され、俺はブルーハーツの「青空」を入れた。
「古河さん、いいとこいくねぇ」
 タメ年の部長が肩に手を回した。この人はいつ見てもデンハムのブルージーンズの上下と白Tを着ててブレない。人の顔を覚えられない俺はこっそり"デンハム"というあだ名をつけた。家の書棚にはサファリやオーシャンズが置いてあるかもしれないけど、ガタイが良すぎてアイダホの農家のおじさんにしか見えない。でも本当いうとそれが少しうらやましい。

『運転手さんそのバスに僕も乗っけてくれないか。行き先ならどこでもいい』

 やさぐれてはないけど、俺の地声の低さで新しめの歌は歌えないんだ。
 でも特に陰のなさそうなデンハムにとっても「青空」はいいとこいってるみたいで、俺もそれはわかる。BOØWYとかバンプオブチキンやブルーハーツは鉄板だ。ドラゴンアッシュと湘南乃風は歌がちょっと難しい。学生時代ホストをやってたとうそぶく新卒が米津玄師を歌ってて楽しそうだった。若い女の子にもウケてる。
 俺は氷室京介のマネをしながら「Kiss Me」を歌った。テーブルのふちに足をかけ、歌いながら片手をゆっくり広げたらトシくった人には大ウケで、若い子もつられて笑ってた。鳶のころ日曜深夜に呼び出され、先輩の地元のスナックに連れてかれた時とっさにひらめいた技だ。
 能書きなんかいらなくて、ただ流行ってるからとか、昔なじんでたとか、そんな薄っぺらい、でもすごく強い力に身をゆだねてひととき分かち合えればそれでよかった。歌はそのためにあって、歌詞はおまけみたいなもんだ。
 旧車會に連れてってくれた鳶の先輩が、ホンダのCBX400をすごく大事にしてることを思い出したよ。今そこそこのランクのクルマが買える値段まで上がってるけど、先輩は売っぱらう気はなかった。
「関係ねぇ、CBXはCBXだからカッコいいんだ」

 終電をすぎて各自解散になった。
 三次会に行くんだろうけど、みんなほぼベロベロだった。
 路上にたむろする宴会担当が、会計についてなんだかんだ話してる。ヒラ社員、リーダー、マネージャー、支払いをどんなふうに塩梅するか迷ってるみたいだ。飲み放題を入れず長い時間いたから思った以上の金額になってんだろう。スマホをいじって六千円だの七千円だの言ってる。酔っぱらってるからいつまでも結論が出なかった。
 俺は急に白けた気分になり、ふっと息をついた。
「見して」
 かたわらにいるハルちゃんが持ってた領収書をつかみ、だいたいの頭数で割った。
「めんどくさいんで俺これで帰ります」
 万券を一枚渡し俺は背をひるがえした。
「あ!お疲れ様でした」
「週明けもよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
 どこかで夜を明かせる場所を探そうと、駅の方へ足を向けた。
 秋風はまだわずかな夏の残滓をまとい、それが不思議と心地よかった。道端にへたり込む男や女がそこかしこにいて、そばには2~3人の仲間が腰をかがめてる。街はぐでんぐでんだった。

「シンちゃんもう一軒行こうよ!」
 後ろから駆けてきたハルちゃんに俺はヘッドロックされた。
 つま先立ちでプルプルしてたから、俺は太ももに腕を回し子泣きジジイみたいに負ぶってやった。ハルちゃんはあはははははは!と笑ってた。似たような酔っ払いに囲まれて俺らはその場をぐるぐる回った。
「他のみんなは?」
「えー、知らない?」
「どこ行くよ。テキトーでいい?」
 懐が寂しいから路地の方へ向かった。路地の入口には赤い提灯が並んで飾られてて、始発までの居場所に困ることはなさそうだった。
「さっきカッコよかったよ」
「あっそ」
「いつもお酒何飲んでんの?ウィスキー?」
「店にある一番強いやつ飲んでるよ」
「何でもいいんだ」
「味分かんのなんて2杯までじゃね?」
「そうかもー。シンちゃん背ぇ高いね、180ある?」
「2センチ足りないんだよね」
 俺らは路地の端で場末っぽいおでん屋を見つけ、のれんをくぐった。

25.エゴイストプラチナム


 カウンターに徳利とお猪口が並んだ。二枚のおでん皿の片方にははんぺんとちくわぶが積まれてて、もう片方は大根とこんにゃくから始まる素直なオールスターだ。
「そいつさぁ、会社のお偉いさんやってっからLSもベンツも新車で買えんだけど、俺はクラウンしか興味ねぇっつってて、アッタマくるけどなんかかっけぇんだよね」
「その人いくつなの?」
「タメなんだよ。でさ、今年出たセダンがマジださいからめっちゃ悩んでたんよ。そんで結局、年季の入ったアリスト買ってた」
 写真を見せたらハルちゃんは興味津々で、気分がよかった。俺は4個目のちくわぶを丸ごと口に入れた。
「シンちゃんめっちゃ食べるやん」
 ハルちゃんは笑った。
「飲むとすっげぇ腹減んだよ」
「お腹減ってたら、何でもいいの?」
「そやねぇ」
 そのセリフがなんだか意味深に聞こえ、俺は言葉を探した。
「朝から晩までクタクタになるまで働いてさ、家帰ってきて食う飯にマズいもんなんてねぇよ」
 俺は日本酒をあおった。
「白飯だけでもご馳走だよ」
「そっか」
 酔いのせいか、この子はずっと迷って、間違って、溺れて、遠回りして、途方に暮れる、そんな日々を重ねてるように見えた。
 誰かを喜ばせたくてもうそれしかアタマになくなるあの瞬間を、この子が知らないはずない。俺も現場で限りなくそれに近い日々を送ってた。自然体で、心のままに振る舞えるなら得難い才能だけど、俺らみんな途方もなく凡人だ。泥にまみれるしかない事をこの子は受け入れられるのか。
 ハルちゃんはいつも通り俺の肩にもたれかかりうっとりしてた。
「すっごいいい匂いするー」
 そのまま腕を回して胸に顔をうずめる。二色に分かれた髪が喉元にふれた。パサついてる。間をおかず何度も染めてるんだろう。
「なんて香水?」
「トムフォードってやつ」
「ふーん」
 ハルちゃんは俺とは違う。この子は見た目ほど欲張りじゃなくて、誰かに死ぬ程愛されればそれで足りるんだろう。俺はなんだか好きなようにさせてやりたかった。
「貰いモンなんだけどね」
「そうなんだ」
 気になるのかならないのか曖昧な言い方に、俺はふと家を出るときのためらいを思い出した。
 トムフォードの瓶の隣にはシャネルのエゴイストプラチナムを置いてて、俺はいつもそっちを使ってた。ケミカルたっぷりのド派手な香水だ。国際線のターミナルに充満してるあの空気、外人とすれ違った時ワキガと一緒にぷんぷん香るような、けばけばしくあられもない匂いだ。
 でも今日、俺はそれよりずっと上品で格のあるトムフォードを選んだ。
「なんかこれスカしてない?」
 俺は聞いた。
「そんなことないよ、全然カッコいい」
 トシを考えたから?違う。今日が職場の飲み会だからだ。
 とうとうヤキが回ったと思い、言葉を失ったような沈黙が生まれた。何が好きで何に憧れ、どうすりゃご機嫌なのか、選択肢なんて無意識に消しちまう感覚が消えかけてて、最後まで正直なのは本当に嗅覚だけだった。
 俺は、今、ここで、どうしたい?
 トムフォードの瓶を屑かごへ突っこめば済む問題じゃない。
「便所行ってくる」
 俺はハルちゃんの身体をそっと離した。

26.☆☆☆☆☆☆☆


 永遠に続くような長い小便を済ませ便所のドアを開けると、怒鳴り声が響いた。
 俺らの席だった。ハルちゃんがうつむいて小さくなり、泣きそうな声で謝り続けてる。
 そのとき俺はとっさにロンTの袖をまくって駆けつけ、そこいる二人組の片われ、黒シャツを着た小男の胸ぐらをつかんだ。ハルちゃんが酔っぱらっておでん皿をひっくり返し、そいつに汁をひっかけたのは後から知った。
「てめぇ何調子くれてんだ!」
「んだコラ!」
 男は手首をつかみ振り払った。俺はよろけそうになり後ろ足で踏みとどまる。
 俺は背筋を伸ばし、地上1.7mの高さから睨みつけて言った。
「どこのモンだてめぇ、あ?」
 俺の身体はデンハムとは違う。少しでも目を泳がせたら最後、舐められて負ける。
「ガキがぁ、んなタトゥー入れて粋がってんなら知ってんだろ。俺らOBだよ、西東京の」
 そいつは暴走族の名前を出した。何度か聞いたことのある名だった。二人は見た感じ俺と同世代だけど、"西東京"なんてざっくりした言い方が気になる。それに暴走族やってたやつが額のついた和彫を"タトゥー"なんて呼ぶのは一度も聞いたことがない。
「それカズマ君のとこだろ?」
 俺はすぐに切り返した。
「兄貴がずっと世話んなってたから知ってんだよ。カンバン出すなら表出てやんよ」
 男は言葉を詰まらせ、視線を外した。少しの間が空いて、下を向いたまま聴きとりづらいひとりごとをはじめた。
「…ったくよ、気持ちよく飲んでたのに汁かけられてよぉ、気分悪ぃよクソ」
 まるでここに二人きりでいるみたいに相方へ告げた。
「よぉ、河岸変えて飲み直すぞ」
 二人はもう俺らの方を見なかった。ぶつくさ言いながら相方が財布を出し、勘定を済ませるとさっさと出ていった。ほんの数十秒の出来事だった。

 俺は席に座りセッターに火をつけた。安堵のため息にならないよう細く長く煙を吐く。
「大丈夫?あんなん気にせんでええよ」
 ハッタリが決まらなかったらと思うと胃がぞわぞわした。
 ハルちゃんはおずおずと俺の腕に触れた。
 前腕と同じ太さの華奢な二の腕だ。波間に散る紅葉と牡丹の花が彫られた肌を中指でなぞると、ハルちゃんは俺の目をまっすぐに見つめた。
 うるんだ瞳を少女マンガのお姫様みたいにキラッキラさせてた。ヒーローを見る目だ。

 何年かぶりの白星だった。 

27.Happy NEVER After


 それからたまに出社するたびハルちゃんはハイテンションで声をかけてきた。嬉しかったけど、毎度続くとなんだか疲れてるようにも見えた。
 LINEで何度も飯に誘われた。カネを貯めなきゃならないからだいたい断った。使い道は新しいバイクに決めてた。スポークホイールの250バブだ。
 女の子の分を出せないなら家で一人で飯を食う。鳶をやって自然と身についた習慣だ。
 そんなことを重ねるうち、ハルちゃんはサイアクになってった。他に何かあったのかもしれないけど俺は関係ないって言い逃れはしづらかった。
 オフィスでこっちから声をかけると、挨拶もそこそこに近くにいる誰かと話し始める。今までずっと喋ってたのに俺が邪魔したみたいな感じを出してくる。子どもっぽいけど子どもじゃないから、そうやって気持ちを伝えようとしてた。
 嬉しい時は嬉しい分だけ喜び、ムクれた時はムクれた分だけムクれる、それは俺にとってすごく楽で、心地よかった。

 俺は一度だけ自分からハルちゃんを飯に誘った。
 夏の盛りだったから七分袖の黒Tに青いスキニー、首元にレイバンをひっかけてピアスをつけ、エゴイストプラチナムを暑苦しいくらいかけてった。頭はサイドを刈り上げた金髪だった。
 道すがら、ハルちゃんが俺に期待してることと、ハルちゃんが自分についてるいくつかのウソについて思った。
 期待されることに今さら怯えはしないけど、全く違うかたちであの子を裏切ってしまう気がした。俺がイヤなのはハルちゃんが本音に気づかないまま歳をとってくことだった。
 これが映画の主人公なら、棲む世界の差を見せるつける危ない事件に巻きこまれ、身体を張って助けたあと、俺にちょっかい出すと危険だぜって言って、可愛い子は潔く身を引く。でも令和の東京に俺といても危険は特にない。鳶のころから安全第一だ。おまけにあの子の棲む世界は俺の隣近所で、なんか宮沢さんが無性にムカついてきた。
 でも宮沢さんはいつも俺の三倍くらい働いてる。あの歳で管理職になったんだから当たり前だ。学校を出てからずっと同じ会社でひとつことに汗を流してきたんだろう。相変わらずイヤミだけど、少し眩しくも見える。
 電車の窓の外に鮮やかな夕焼け空が広がってた。腫れた傷跡みたいに生々しかった。こんなもん見せられたら誰だって堪えるに決まってる。神様ってのも意外とコソクだよな。

「シンちゃん、背中はどんなのが入ってんの?」
 せまい割烹料理屋で魚をつつきながらハルちゃんは俺の肩をさすった。ムードもへったくれもない、昔親父が連れてってくれた老舗だ。
「教えない」
 俺はキュウリの酢の物をかじった。
「うわサイアクー」
「こういうのは見せびらかさないからカッコいいんだよ」
 刺青とテスト勉強は同じモノだと俺は思う。昔の人は"ガマン"なんて言ってたらしい。
「なんかシンちゃんって、いちいち古臭い」
 ハルちゃんは思いきりムクれたけど、上機嫌を隠せてない。考えてみればこういうのはホテルに連れこみたい男の駆け引きだ。
 でも何よりビックリしたのは、この子が髪をバッサリ切って黒く染め、ゆるいジーパン白Tにマリナーズのベースボールキャップで現れたことだった。
 今度こそ言い逃れできなかった。俺は確かに言った。好みのタイプをやけに細かく聞かれ、そんな感じだよって。
 その時たまたま部屋でアンクルクラッカーの「ドリフトアウェイ」って曲をかけてて、窓の外は晴れ渡ってた。むさい田舎のオッサンがガレージでアメ車をいじるPVが浮かんでいい気分だったからテキトーに返信した。まさかそのまんまで来るとは思わなかった。
 小柄なハルちゃんにはもっと大人っぽい服が似合いそうだけど、ふと落ち着いた笑顔を見せる時は冗談みたいにキレイだった。

 なあ、誰かを驚かすのってこんなカンタンなことなんだな。俺はいつのまにか厄介者にしてたこの子から、すごく大事なことを教わったよ。

28.居場所


 今のカッコなら宮沢さんの隣にいても違和感なさそうだった。それに今日のハルちゃんは、笑い方から驚き方からすごく自然だ。

 でも当の本人はあからさまに終電を逃そうとしてた。いい時間に店を出て、のれんのわきで夜空を見上げると
「お腹いっぱいだからしばらく歩かない?」
 なんて言ってきた。
 俺はハッキリ断った。
「もう帰んな。一人の家じゃないんだからさ」
 そう言った途端、ハルちゃんの瞳から色が消え、それから激しい感情の火が灯った。
「なんで!?」
 思いきり胸をどつかれた。この子の怒りは何も間違ってない。でも俺は、今度はふらつかなかった。
「なぁハルちゃん、聞いて」
 うつむいた瞳に涙がふくらみすぐにでも落ちてきそうで、俺はちゃんと伝わるよう気持ちをこめた。
「...何?」
「オレ、よく宮沢さんとタバコ吸うんだけどさ、」
 その名を出した瞬間、首筋に緊張が走るのが見えた。
「あの人、ハルちゃんの話しかしないんだよ。いつも帰りが遅いから可哀想なことしてんなぁとか、休みの日ぐらい二人でゆっくりしてぇとか、そんなんばっかなんだよ」
 こんな時間だってのにセミが騒いでる。ハルちゃんの沈黙の間は、見たことのない動揺をあらわにしてた。
「...カンケー、ないし…」
 声が震えてる。
「いちおーオレも所帯持ってたし、同じ男だからさ。疲れて帰ってきて、嫁さんがニコニコしてたら、きっと疲れたコトも嬉しくなるんだろなって、分かんだよ」
「...それで?」
「ホントだよ。ハルちゃん今日すげぇ可愛いし」
 かがんで目を合わせたら、ひどいカオをしてた。でもこの子は隠そうともしなかった。なあ宮沢さん、シゴトってのは会社の事だけなのか?
「あたしなん、て、」
 それからハルちゃんはただただ戸惑い、粒の大きい涙をアスファルトにボタボタと落とし、鼻水が口に入るのも気に留めなかった。
「別に、なんか、とりえが、あるわけじゃ、ないし、アタマも、そんな良くない、し、思い、やりより、自分の、こと、しか、考えないし、何で、好きなの、かも、言って、くんないし...」
 思えば俺は服の下に彫り物を隠し、8コ歳の離れた女の子を泣かせてる。誰か店から出てきたらメンツ丸潰れだ。
「あの人、別にあたし、じゃ、なくても、いいかもだし...、あたし、なんか、好きに、なるなんて、ぜったい、」
「うるせぇ!!」
 俺は声を荒げた。ハルちゃんの肩がビクッと震え、おそるおそるこっちを見た。
「聞け。ヤローなんて、どいつも大して変わんねぇんだよ」
 俺はハルちゃんの目を見据え、溜まりに溜まった鬱憤をぶちまけた。
「どんだけ遅かろうが、疲れてようが、ハルちゃんがエロい下着でもつけてスタンバってりゃ、それがハッピーサイコー!で、全部丸く納まんの!一人の例外もねぇの!」
 唾を飛ばしながらカクカク腰を振って、俺はとうとう理解した。
「地球のみんな!」
 俺がどうあがいてもカッコつかないのは俺以外の何のせいでもない。
「オラ、イッちまうぞー!」
 俺は力の限り吠えた。
「何、ソレ...」
 ハルちゃんがすごい量の涙と鼻水を垂らしてしゃくりあげた瞬間、俺はかぶせた。
「イッちまうぞーー!!」
 息を止め、目をそらす事もできず、まるで痛みをこらえるように顔中を震わせたあと、ハルちゃんは一気に決壊した。
「あは!は、は、ははははははははは!!」
 あんなにでかい笑い声を聴いたのは小学校以来だ。俺は今日一日でこの子に二回も驚かされた。
「腹抱えてる場合じゃねぇだろ。もうすぐ、電車、なくなるっつの」
 もう10分も残されてなかった。恥も外聞もなく、俺はハルちゃんの二の腕を引っ張ってムリヤリ肩に担ぎ上げ、地下鉄の駅まで走った。
「アキさん、やろうと思えば、いけるんすね...」
 タッパからして多分50キロちょい、アンチ4枚分だ。腰がいっちまいそうだ。痛みを紛らそうと俺は天に向かって叫んだ。
「チッキショー!!あん時よぉ!もっと根性、見してやりゃ俺は、」
 溜めこんだ思いのたけも何もかもが夜空に吸いこまれてく。汗が次つぎとこめかみを伝い、心臓はもう飼い慣らせない別の生き物になってる。世界中が嵐のような呼吸音にみたされ、吸ってるのか吐いてるのかも分からなかった。
「俺はこんなもんじゃねぇぞ!」
「はははははははははは!」
 肩の上でハルちゃんは笑い続けた。
 足をバタつかせる材料を担ぐのなんて初だし、一度ツボに入るとしばらく駄目になるとこが似てるのはかなりイヤだった。
 改札をくぐり電車に押しこみ、地下鉄のドアが閉まる瞬間まで俺は見届けた。
 プルプルと手を振るハルちゃんの涙の出所はもう、俺にもハルちゃんにも分からなかった。
 頼むからどっかで顔を洗って家に入ってくれって思う。でも最寄りの駅はこっから一本らしいし、あの子がこれ以上遠回りしないよう俺は願った。

 そうやって俺だけ終電を逃し、ちょっとだけ、いやすげぇもったいないコトしたと悔やみながら、くたびれたサラリーマンみたいに駅の階段を上った。トシのせいじゃない。運動不足がたたっただけだ。
 腕の筋肉は今度こそ限界だけど、明日になればあの子は何もかも忘れケロリとしてるかもしれない。
 汗みずくのまま地上に出ると、俺は何度も肺に酸素を送りこみ、屈んだ姿勢で息を整えた。
 地べたから見上げた夜の空はたくさんの建物に囲まれ、線で切りとられてる。数えるほどしかない星を探しながら俺は楢崎さんに勝利のテレパシーを送った。

 "どうすか?自分の必殺、口先八丁す...。"

Outlaw?


 こないだ久びさに洋二さんから着信があったよ。
 一呼吸おいて折り返したけど、洋二さんははじめ俺が誰だか分からない様子だった。
「オレっすよ、シンです。どうしたんすか?」
 洋二さんはどうも他の誰かと間違えてかけたみたいで、一瞬間が開いたあと、
「おぉクソシン!お前今何やってんだよ。たまにはこっち飲みに来いよ。純さんも会いたがってっぞ」
 そう言って懐かしがってくれた。俺たちは次の土曜の夜に約束をした。

 自分が何者かなんて、答えが出たためしなんてなかったよ。若いころの自分探しなんかも記憶にない。
 俺ってエリート?オタク?チンピラ?
 マジメな常識人か?大人になれない大人か?
 本物のワルに見られた事は一度もないけど、小悪党と呼ばれるのはよくあるね。
 確かなのは、ときおりわけも分からず体が動いて、アタマじゃ思いつかないようなコトをしでかした時は、笑って話せる記憶がひとつ増えて、それだけだ。

 なあ、俺は自分のライフルを磨くよ。パチンコ玉でも構わない。 

 "答えはいつも目の前にあって、立ち止まってるときはそれを見て見ぬふりしてるだけだ。"

 殊勝だろ?いつかのお前のコトバ、見習ったんだよ。

 背中の墨は、妖怪のぬえが彫られてる。
 サルの顔して、トラの手脚を生やし、タヌキの胴とヘビの尻尾を持つ地獄の王様だ。古い友達からアイデアをもらったんだ。相も変わらず俺の周りには逆立ちしても敵わなそうなやつしかいないな。

 俺が何かなんてヒトが勝手に決めてくれりゃそれでいいよ。

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