資本主義と教育
今日はかなり壮大でチャレンジングなテーマでブログを更新しています。最初に伝えておきますが私自身がまだまだ「資本主義」についても「教育」についても勉強中の身でありますのでその辺りはご容赦ください。
本テーマを取り上げた理由
まずは、なぜ本テーマを取り上げたのか、について。
教育は私の人生において追いかけるべきテーマなのでここでは理由について書きませんが、「資本主義」についてはここで共有したいと思います。
最近、私の中でも「資本主義」は大きなテーマになっています。
上に紹介した著書や、動画、Podcastをベースとした内容なのでまだまだ深く掘り下げきれていないですが、端的に資本主義をあらわすならば、こんな感じかと思います。
本当に大まかなざっくりした内容であるので、誤解して解釈する方もいるかもしれません。私の理解も浅いところもあります。ですので正しく理解しようとする方にはぜひ上に紹介した内容を確認、また他の文献もご確認いただければと思います。
この中でも、私が本テーマを取り上げようと思った背景が4と5の部分をぼんやりと感じていたからです。
お金を稼ぐこと、数字を追い求めることは一定正しいが、その先には必ずしも幸福があるわけではない。
そもそも人は何のために生きるのか。それは幸せになるためであって、数字を追い求めること、仕事をすること、は幸せになるための手段であるべき。
こんなことを最近思うようになっています。
だからこそ資本主義を理解しようとしたいと思っています。
資本主義と教育の関係性
また、本テーマである資本主義と教育を並列に並べた理由について述べていきます。
基本的に教育の存在意義としてあるのは、社会で活躍できる人材になるための訓練過程であり、言い換えると社会で求められること、求められるであろうことを学ぶ期間になります。
つまり、教育課程に何を提供するかを考えるには、現在の社会が何で構成され、未来の社会はどうなるのかを解釈した上で、明日の学びをデザインする必要があります。
そう考えると、今抱いている資本主義への違和感を整理して、これからの教育に落とし込んでいくことが必須です。
実際にOECDが提示している21世紀型スキルやグローバルコンピテンス、それから日本でも文部科学省が出している学習指導要領の全ての根本は社会定義にあります。
資本主義がもたらしたもの
資本主義は私たちにたくさんのものをもたらしました。最近ではよくポスト資本主義なんて言葉が出てきて、資本主義は悪だ!脱成長だ!なんて言われることもありますが、6でも書いたように、資本主義は私たちの生活を大きく発展させました。
具体的には世界的に資本主義社会下において物質的な豊かさを手に入れています。衣食住が十分に確保できない層にあたる絶対的貧困率 (Extreme Poverty)は年々低下しています。
確かに1990年代に比べて私たちの社会では、物質的に、金銭的に全体的に豊かになっています。(もちろんそれに伴い物価の上昇もありますが)
こちらはOECDが出した主要国のGDPの推移になります。コロナ禍で2020年は大半の国々は低迷をしていますが、全体として右肩上がりではあります。これら国々の中で例外といえば日本ぐらいでしょうか。。(2012年にピークアウトし、横ばいが続いています。)
他方で最近よく語られる幸福度について
とはいえ、よく経済と並んで日本のニュースで取り上げられている幸福度です。なんのために経済活動をしているのかというと、やはり社会として経済的に満たされた状況を作り、国民一人一人が豊かな生活を送るためです。
しかし、国内の幸福度からいうと以下のようになります。
実はここ15年、女性の幸福度は上昇傾向にあります。一方で2005年を境に男性は下がっています。これには女性活躍の機会創出が進んだりなど様々な要因が考えられますが、今回着目すべきなのは男性の幸福度の低下だと考えます。
男性は元々は「男子は一家を支える大黒柱」と言われていたように1900年代から家庭を支えるために労働という役割を担ってきたのは周知の事実です。これは男性が偉いとかではなく、社会システム的にそのような役割として認識されていました。
依然として男性は仕事に行くというのは一般的概念として根強く残っていますので、当時から変わらず労働しているであろう男性の幸福度をデータの参考として見ると良いと思います。
そう考えると、2005年を境に幸福度は低下傾向にあります。
おそらく女性についても、今後さらに女性地位の向上やジェンダーへの理解が進み、男女関係ない状況になれば、同じようにどこかでピークアウトし、男性同様の挙動をする可能性があります。(このあたりはもう少しリサーチ、考察が必要ですが)
GDPの成長の鈍化と幸福度の相関はこれだけではわからないですが、実際にどれだけ働いても経済的な発展を感じられない→その割に時間は取られるし、家族との時間も十分ではない、精神的にもしんどい→幸せな生活ではない、というロジックは容易に想像できます。簡単に言うと「コスパ」が悪いと感じているのではないかと思います。
厳密に上のデータのみでは判断できないですが、少なくとも一定そのような傾向としての確認はできますし、何より多くの方々も肌感覚として抱いているのではないでしょうか。
一方で、こうした疑問を抱いてはいるもののすぐにはドラスティックに状況を変えられないジレンマもあります。
私たちは資本主義がもたらす社会システムへの依存度は相当高いものがあります。
4であげたように、現在の経済活動では株主(ステークホルダー)が存在し、彼らのために資本を増やす活動をします。そのためには、四半期ごとに売り上げ目標が存在し、その数値から逆算して各チームにはKPIが存在しています。
そして、株主は投資行動により多額の富を獲得し、労働でしか富を得られない人は相対的にいつまでも裕福になれない構造が生じています。
これが有名な経済学者トマ・ピケティが提唱する『r>g』の不等式の関係性であります。
私たちは数字に踊らされ、数字を追い求めるがゆえに自己の幸福を犠牲にします。
株式市場で市場価値を高めるために、多額のマーケティングコストをかけて、消費者から狂ったようにお金を巻き上げていきます。
もちろん全員がそうとは限らないのですが、マジョリティがそうした状況にあるからこそ4の行き過ぎた資本主義状況が生まれていると考えられます。
資本主義とサステナビリティと教育
サステナビリティという言葉は近年非常に注目されているキーワードです。
どこもかしこもSDGs、Sustainability、Ecology、などの言葉が転がっています。
これらの言葉に注目が集まっているのはやはり3や4の行き過ぎた資本主義や数字、株主だけでなく、三方良しの経営が求められていると徐々に認識されてきているからです。
著書のサステナブル資本主義でも以下のような記述があります。
上にあげた内容が全てではないなですが、大事なのはサステナビリティとは何かの本質を理解する必要があり、実は多くの企業や組織は本質を理解しないまま、”バズワード”を巧みに利用し、顧客のアテンションを獲得し、また行き過ぎた資本主義の中で市場経済を回そうとする動きも多く見られます。(これらの活動はグリーンウォッシュやSDGsウォッシュと言われたりします。)
しかし、たくさんの資本を獲得したとしても、人やクライアントを騙すような形であったり、地球環境に悪影響を及ぼしたり、自分の時間を犠牲にしたり、などがあると純粋な幸福感は得られず、どこか後ろめたさは残ってしまいます。
いき過ぎた経済活動も非人道的な取り組みも、もちろんその活動をする人に責任はありますが、資本主義社会の被害者であったりするのです。
ただ繰り返し言いますが、資本主義が私たちにもたらしたものはたくさんあります。そこは勘違いしてはいけません。
大事なのは、行き過ぎた状況を作らないことであり、ステークホルダーとして「地球」を入れることが重要です。
資本主義社会において、経済を回しながら、サステナビリティを担保する循環型システムでなくてはなりません。最近では「サーキュラーエコノミー」という言葉も浸透しつつありますよね。
そのためには、現在の経済活動を担う全員の意識変革をしていくこと、また教育過程においてサステナビリティを念頭においた学びのあり方の追求をしていくことで構造的なアプローチが可能になると考えています。
私たちは国民は幸せに生きたい。ただそれだけ。
振り返ってみると私たちはこれまで「できるだけ長く生きたい」「物質的な豊かさが欲しい」「衣食住に困らないような生活がしたい」と思い毎日を必死に生きてきました。
特に日本という国は、多くの人々が上に示した要件を満たしつつあります。
もちろん社会課題は依然として多く残っていますが、1900年代に比べれば相対的に減少傾向にあります。
しかしながら、上にあげたような条件を満たしても、なお幸福に飢えている人は一定数存在しています。
では、幸せになる条件とは何でしょうか。
それが私たちの今、考えるべきテーマであり、そのために社会がどう変容すべきか、そしてその社会において教育がどうあるべきなのかを考える必要があります。
おそらくそれはお金を稼ぐことでもあるでしょうし、自己実現をすることでもあるでしょうし、サステナビリティへの貢献であったりします。
ユニセフが2020年9月に出した、イノチェンティレポートカード16では、「子どもの幸福度」を出しています。
これを見ると、日本は「身体的幸福度」が38ヵ国中1位であるにもかかわらず、「精神的幸福度」はワースト2位の37位です。
つまり、物質的には満たされていても精神的には満たされていないことがわかります。(詳細については以下のURLをご確認ください)
私たちは、富の生産のために自らを、自らの家族を犠牲にするのでしょうか。
もしくは、富の生産を一定諦めて、自らの幸福を優先する世の中を実現するために動くでしょうか。
教育課程は、成人する前にどのような社会人としての人格形成に対して貢献できるか、を「大人」が本気で考えなければいけません。
さて、私たちは明日から何をするか
少し取り留めもない、また1つのブログでは詳細に書ききることができないところはありますが、私たちが今目の前にある選択肢は以下の3点かと思っています。
アメリカや中国に肩を並べるためにイノベーションを起こし、経済的に爆発的な成長を促すための経済政策を施し、個々人のウェルネスは二の次にまわす
グローバル競争的な経済成長を一定諦めて、個々人の幸福やサステナビリティを優先する
両方を追いかける (経済成長を実現し、競争力を保ちつつ、個々人の幸福やサステナビリティも実現する)
もちろん理想を言うと、3かもしれませんが、最も難易度が高いのも3です。
IT、ソフトウェアの領域で遅れをとった日本が今、世界をリードするような産業を新たに生み出し、経済成長を推進しつつ、富の分配により国民全体に経済的なバックアップをしながら、サステナビリティ推進を同時に行い、身体的にも精神的にも幸福な状態を実現する、ということです。岸田政権は「成長と分配の好循環」を掲げています。これは3を実現しようとする動きには感じます。
とはいえ、国民の実感レベルとしては、言動と実行が乖離しており、国としてどのベクトルを向いているのか不明なため、社会的不安が生じているのも事実だと思います。
私たちはどんな一歩を踏み出すべきだろうか。
教育従事者として、何をすべきだろうか。
一つ言えるのは、3を実現するための教育を目指すことは少なくとも間違いではないと言えるでしょう。
そのように考えると「イノベーションを創出できる人材輩出」と「個々人の幸福度が高まるような人格形成」の2点が必要です。
これらの観点を踏まえて、明日からどのような学びをデザインするか、また学習指導要領に記載されていることをどう解釈するのか、が求められるのだろうと思います。
まだまだ答えは出ませんし、考えとして引き続き深める必要はありますが、日々悶々と社会について、教育について考えながら、皆と対話し、仮説を立てながら一歩ずつ前に進むしかありません。
より良い1日を目指して手を取り合いながら進んでいきましょう!
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