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「生活的概念」と「科学的概念」、そして「先生」と「生徒」、「ICT」の役割

先日『ヴィゴツキー入門』柴田義松 著を読み終え、衝撃を受けたのでブログにしています。ずっと気になっていたヴィゴツキーですが、やっとこさ勇気を振り絞って足を踏み入れました。もしヴィゴツキーを初めて知る、初めて聞いたなどがあれば以下を参照ください。

レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキー(ロシア語: Лев Семёнович Выготский, ラテン文字転写: Lev Semenovich Vygotsky、(生誕時は、ロシア語: Лев Симхович Выгодский , ラテン文字転写: Lev Simkhovich Vygodskiy)、(1896年11月17日(ユリウス暦11月5日) - 1934年6月11日))は、ベラルーシ出身のソビエト連邦の心理学者。

唯物弁証法を土台として全く新しい心理学体系を構築し、当時支配的であった既存の心理学(ジークムント・フロイトの精神分析学・ゲシュタルト心理学・行動主義心理学・人格主義心理学など)を鋭く批判した。
(Wikipediaより)
10年ほどの短い研究活動の中で、発達心理学をはじめとする幅広い分野について数多くの実験的・理論的研究を行い、37歳の若さで世を去った。彼のあくなき研究意欲と旺盛な活動は、アレクサンドル・ルリヤやアレクセイ・レオンチェフなど多数の優秀な青年学生を集め、組織された研究集団を作りだした。彼の指導のもとに様々の具体的な心理学問題の実験的研究が実現し、青年学生らはのちのソビエト心理学界の重要な担い手となっている。「心理学のモーツァルト[注釈 1]」とも称され、その思想は21世紀の今日も影響力を持ち続けている。また、20世紀のソビエト障害学の基礎をつくった。

自分自身が国内外の教育に身を置き始めてから6年くらいが経過していますが、これまでの経験から感じたこと、ぼんやりと「こうあるべきではないか」と思い描いていたことを見事に言語化されており、それに対する研究もされているという衝撃の事実でした。
(Wikipediaより)

教育従事者である方々はみなこの本を手にとってみるべきではないかなというくらいの内容でした。

とはいえ、私にとって本著は難解で、正直全てを理解したとは言い難く、今は2周目から3周目くらいな感じで、飛ばし読みをしたり、戻ったりして理解を深めていっている感じです。

また、本著はあくまで「入門」に過ぎなく入り口に立ったに過ぎません。なので、ヴィゴツキーの全てを知ったわけではもちろんなく、むしろここから更なる深い沼にハマっていくのだろうなという感覚を持っています。

『思考と言語』や『「発達の最近接領域」の理論』などの著書も読む必要性、また同じくこの領域で有名なピアジェの著書、『ピアジェの教育学』等を読んだ上で概念を多面的に確認し、相対化した上で自分の見解を述べるべきだとは思いますが、あえて今のタイミングでブログにしています。理由は現時点での理解を確認し、そこから考えたこと、共感したポイントを明らかにするためですので、もしかしたら偏りがあるかもしれません。正しく理解をできていない部分があるかもしれません。本ブログは、ひとまず今時点での私自身が感じたことをまとめていきたいと思います。

今回は、ヴィゴツキーの背景や生い立ちなどにはあえて触れず、またヴィゴツキーの研究の中でも一番有名な「発達の最近接領域」や障害児に関する教育観など、ど真ん中に触れることはせず(もちろん関連はしています)に、少し手前の「生活的概念」と「科学的概念」、それから「先生」と「生徒」について注目して展開していきます。

この2つの概念とその関係性についてはまさに私が漠然と教育に対するアプローチとして考えていたことでした。約100年前には体系化されていたなんて、、

「生活的概念」と「科学的概念」を二つに分けた上で、それぞれが重要であり、教師と生徒の観点を整理して論じられており、それらの点が私にとっては非常に面白かったです。

まさに私もこれまでの教育活動の中から湧き出てきた疑問や考えはある意味「生活的概念」として認識してきましたが、ヴィゴツキーに触れ、それらが言語化されたものとしてインストールされています。「科学的概念」を理解することで、「こういうことか!」と興奮をして今こうしてブログを書いているわけです笑

それぞれの説明をせずに書いているので何のことか全くわからないと思いますが、これからどういうことか説明しますね。笑

「生活的概念」と「科学的概念」とは

「生活的概念」と「科学的概念」とは、本著から部分的に抜粋し、以下のような意味と捉えています。

生活的概念:対象についての概念をもってはいても、その概念そのものを、あるいはその対象を思い浮かべるときの自分の思考活動を自覚していないもの ≒ 「自然発生的概念」と呼ぶこともある
(p.94 参考)

これは、子どもが生活のなかで自然と身につけていく概念(経験主義的なもの)を意味します。つまり、日常において経験をしながら自然と理解していく概念のことです。

本著では、「兄弟」を例にあげています。

子どもは、誰からも的確に「兄弟」について概念を教えてもらったわけではないですが、子どもは「兄弟」とは何かを理解しています。なぜなら大人が「兄弟」という対象に対して、よく使う言葉ですし、それを子どもは見ながら自然と直接的に概念を理解していきます。

しかしながら、いざ子どもに

「英男には、守、俊也、正利という三人の兄弟がいます。守には何人の兄弟がいますか?」
(p.94)

を子どもに質問すると”まごついて”しまう子がいる、ということです。つまり、その対象についての概念は理解していても、それが何かと問われると正しく説明することができないのです。

ヴィゴツキーは、子どもの概念や思考の最も大きな特徴の一つが、このように自分が自然には正しく利用できる概念を自覚できない点(P.95)、だと述べています。

一方で、「科学的概念」はその事物に対して”直接的”ではなく、”間接的”な関係から始まります。

科学的概念:対象に対する間接的な関係から始まるもの、概念間の論理的な関係を打ち立てたものから習得する概念
(P.102参考)

簡単にいえば、「AはBであり、BはCである。それはつまり、A=Cである。」といったようなそれぞれの関係性を論理的に分解し、理解する概念です。もっとシンプルにいうと、普段の学校の授業で座学的に学ぶあれこれ、を「科学的概念」と想像した方がよりわかりやすいかもしれません。最近ではグループワークなどで体験をしながら学ぶこと(これは一部生活的概念に当てはまる)はあるかもしれませんが、大半は先生から黒板やホワイトボードを使って様々な説明を受けています。

化学の授業でO+H+O=H2Oと習ったとしても、実験中でない限り、目の前でその現象自体をみているわけではないと思います。これが「科学的概念」になります。

実際にはその場で経験はしていないけれども、事物と事物に対しての関係性やつながりは理解する、という状況でも言い換えることができます。

そして、「生活的概念」と「科学的概念」がお互いに行き来をすることによってその対象についての概念の正しい理解が進んでいくと述べられています。以下の図を参照ください。

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(参考:https://land.toss-online.com/lesson/HiuLAXzy6o4YXJeptWEF)

少々理解が難しいと思うので、先ほどの「兄弟」を例にあげると、生活をする中で「兄弟」というものに対しては、ぼんやりとそれはどんなものかイメージすることができ、子どもは兄弟についての認識を持つが、それ自体がどのような定義か、は正しく自覚していません。(生活的概念)

それを学校などで、兄弟とは、「 片親または両親を同じくする男の子供たち。兄と弟。また、その間柄。けいてい。... (goo辞書参照)」と先生から教わることで、を間接的にその対象同士の関係性を理解することができるのです。(科学的概念)

これを学んだ後に今まで経験の中で「ぼんやりとそれはどんなものかイメージ」していたものが、鮮明なものに変わります。(生活的概念と科学的概念の行き来成立)

行き来が必要な理由としては、「科学的概念」を理解する前は、これまで「生活的概念」の中で認識してきた「兄弟」の意味自体が間違って認識していた可能性もあります。実際に様々な状況において間違った思い込みやそもそも考えたことはなかったことなどが存在しています。「生活的概念」は非自覚的なものであるからです。

ですので、「科学的概念」と「生活的概念」の双方を理解することにより、その対象について初めて正しく理解することができます

これは、反対方向のパターンもあり、未だ日常で経験したことのないものでも、先に「科学的概念」としてそれぞれの概念を理解してから、実社会に出て「あ、なるほどな」と理解することがあります。

まさに「当事者意識を持つ」というのはこのことか!ということですね。

理論と経験がお互いにつながって初めて、これは必要だ、と感じるわけです。学校の授業で学ぶことの多くは「科学的概念」であり、それが実社会でどうつながっているのかよくわからないから生徒は退屈に感じるかもしれません。

そして大人になって初めてより多様な生活様式となり、そこで経験することによって、初めて学校で学んでいた「科学的概念」に対する重要性を理解する、ということです。

「話しことば」と「書きことば」について

上の関係性を理解するために、もう少し本の内容を紹介していきます。本著では、『思考と言語』内に登場する記述が多く紹介されており、言語に注目する部分があります。

私自身も過去のブログで、学びと言語習得の例にあげたものを書いています。『学びとは何か?』今井むつみ著でも紹介されています。

言いたいのは、言語学習のプロセスは、あらゆる他分野の学習の根源的なものを体現しているものであります。言語を知ることで、あらゆる知識システムが構築されていくわけです。反対に言語がわからなければ、記事を読んだって、話を聞いたって、何もわからないわけです。それ故に言語は他の知識や経験を積み重ねていく上で極めて重要な役割を担っています。

少し脱線しましたが、ここから「話しことば」と「書きことば」について記述していきます。

突然ですが、みなさんは自分の母語を話すことはどのように学んだでしょうか?

子どもは、就学前から既に母語の実践的文法を習得していますが、それを自覚していません。たとえば、「絵をかく」「絵をかこう」「絵をかいた」「絵をかけば」のような語形変化を日常会話のなかでは正しく使い分けることができます。(p.107)
しかし、そのような状況を離れて、例えば「かく」という動詞を特別に取り出して、語形変化をさせようとすると、子どもは困ってしまいます。(p.107)

確かに日本語を母語とする私はなぜ日本語が話せるようになったのか覚えていません。それは、日々の生活のなかで「生活的概念(自然発生的概念)」として言語を捉えて、いつの間にかできるようになりました。

そして小学生にとって「読書感想文」や「作文」が大変な思い出として残っているのは、これまで「自然発生的概念」に使っていた言語(話しことば)を「科学的概念」を理解しないと表現することのできない(書きことば)ものにしていかなければならなく、これらの接続部分がとても大変なこと、だからです。

そもそも小学生にとって言葉の意味や言葉と言葉のつながりについて考えたことはなく、それぞれを考えることが大変だからです。

よくテレビのインタビューなどで、小学生だと「今日は楽しかった」などで感想が終わりますが、年齢が上がると、「今日は〇〇なので、楽しかった」などと意味と意味を並べて複雑に自分の思考を言葉として発しています。それは、言葉と言葉のつながりを「科学的概念」の習得により、可能にしているからです。

しかし、同時に「書く」という行為は極めて重要な意義があることがわかりました。

子どもは、学校で読み書き、文法を学習するなかで、初めて自分自身のこのような言語能力を自覚し、それを次第に随意に操作できるようになるのです。(p.107)

そして、上にあるように学校でそれぞれの言葉についての概念や単語と単語の関係性を理解することで、話しても読んでも書いても、その対象を自分のコントロール可能な状況へ持っていくことができるようになります。

一方で、英語などの第二言語習得については、全くの逆ですよね。

まずは「単語」や「文法」を叩き込みます。つまり「科学的概念」を先に学んでいくわけです。まさに上にある「かく」という動詞を特別に取り出して、語形を変化させようとする練習をひたすらにやってますよね笑

そしてアウトプットの機会を増やす、ということはある意味「生活的概念」の一環として、直接的に経験として概念を理解するためにあるようなイメージとして捉えられることが多いかもしれません。昨今のオンライン英会話や国際交流は、経験として「生活的概念」の部分を担保するような流れのように受け取ることができます。

まさに言語に関しても「生活的概念」と「科学的概念」を行ったり来たりしながら、言語能力を高めていくのです。

「先生」と「生徒」、「ICT」の役割

さて、ここまで「生活的概念」と「科学的概念」についての説明を進めていきましたが、ここからは「先生」と「生徒」に注目していきたいと思います。

上に述べてきた2つの概念はどちらも重要だ、ということがなんとなくわかってきたところだと思います。また、ヴィゴツキーは、子どもは経験の中で直接的に概念を理解(生活的概念)し、先生は事実や関係性などの間接的な概念(科学的概念)を教えることで、その対象を随意的に扱うことができるようになる、ので先生は一定の役割を担うべきだ、と述べています。

しかし、「科学的概念」に関しては現代社会において議論の余地があります。

なぜなら100年前のヴィゴツキーの時代にあって、今にないものがあるからです。それはICTです。ちょっとググれば「科学的概念」の理解を進めることができるからです。

過去のブログでも先生の役割について述べています。

先のブログでは、以下のようにICTと先生の棲み分けをしています。

・先生にしかできないこと:モチベーションのフォローと道しるべ
・ICTにしかできないこと:圧倒的な学習量や演習量の提供

この記事は1年半前に書いたものではありますが、『ヴィゴツキー入門』を読んでもなお、記載した内容については概ね同意しています。

ヴィゴツキーは、以下のようなことも述べています。

しかし、他方、書きことばの発達を生活のなりゆきにまかせ、子どもにおける精神機能の成熟や欲求の自然的発露を待ってはじめるような「児童中心主義」の誤りに陥ることも避ける必要があります。(p.110)

これまで幾度となく登場しているPBL(Project Based Learning)は一歩間違えると、上にヴィゴツキーが述べた状況に陥る可能性を秘めています。

児童の主体的な学びを推進するが故に、完全なる放任主義的な教育アプローチを用いることが正義だと思ってしまう可能性があります。

もうお分かりかとは思いますが、そのようなことをしてしまうと「生活的概念」の枠組みから飛び出すことは難しいのです。なぜなら、「生活的概念」は非自覚的であるため、当たり前であって気がつかないものです。

例えば、調べ活動をしていても「どんな単語で検索をかければ、真意に到達できるのか」の仮説をいくつもを持ち合わせていなければ、必要な「科学的概念」を習得することができず、また「どんな単語か」というのは、その人の自覚の範囲内でしか考えることができず、非自覚なものはそもそも「そんな単語がテーマと関連しているのか!」なんてことは知るよしもないです。

ここから言えることとして、先生が生徒に対し、ある意味恣意的に非自覚を自覚させなければならないのです。

本著でも、

非自然発生的な概念や動機を自然的にーこのパラドックスのなかに教育技術の核心があります。(p.111)

と記述しています。これこそが先生の求められる役割であり、意義だと考えます。

読み書きが子どもにとって自然的要求であるように学習を組織するということは、それを必要とするような具体的状況を生活のなかにつくり出すことを意味します。(p.111)

「当事者意識を持つ」ことがなぜ重要なのか、ということは、子どもが自ら自然要求するような状況を作り出すことが、「科学的概念」への意識を高めることにつながるわけです。

探究活動のPBLなどもテーマに対して、先生は生徒にどのようなスタンスを取るのか、はある意味上にあるように、生徒が能動的に「科学的概念」の獲得を誘発するような仕掛けが必要ということが言えます。

まとめ

ここまで「生活的概念」と「科学的概念」、そして「先生」と「生徒」の関係性について述べてきましたが、これはヴィゴツキーの主張のほんの一部に過ぎません。とはいえ、この部分だけでもかなり現代の教育に参考になる部分は多く存在すると思います。

そして、本著を熟読した結果、これまでの教育観であったり、考えてきたことに関してはおそらく何らかの形で先行研究が残っていること、そして自分自身が「科学的概念」を自ら獲得し、さらに思考をドライブさせることが必要であることがわかりました。

私はヴィゴツキーをほんの一部しかまだ知りません。これから他の著書も読み進んでいき、また対抗馬としてよく比較されるピアジェに関しても情報を仕入れていくことで、この主張自体を相対化した上で議論を展開しなければ本当の意味でこれらの概念を理解した、とは言い難いです。

教育や人の成長についてももっと惹かれるきっかけとなる一冊です。ぜひご興味のある方は読んでみてください。

それでは皆さん良い1日を。

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