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vol.13 こどもの「芸術」は、ヒトに何をもたらすのか?

「これからは、アートの時代」
「芸術教育に力を入れたい」
「創造力を育もう」

 この手の話題が、教育の界隈でよく聞かれるようになった。もしくは随分と前から、注目はされていたのかもしれない。
 何はともあれ、美術教育の変革が戦後から恐ろしいほどゆっくりしていることを思えば、こうして自分の専門領域に注目していただけていることを、ひとまず素直に喜ぼう。
 …と、私は自分に言い聞かせる。こどもを集団で育てるような現場にいると「いやいや、言葉ばかり、重要性ばかりが一人歩きしていないか」と思うことがよくあるからだ。

 ”アートの活動”(あえてダブルコーテーションをつける。その理由は次項に関わっている。)をすると、こどもたちの目は生き生きする。少なくとも、側で立ち会う大人たちはその目を知っている。
 なぜ、こども達は生き生きして見えるのか。
 非日常感を味わっているからだろうか?いつもであればストップをかけられる衝動を「今日はアートの日だから」「アートの先生がいるから」という理由で解放・・され、開放・・感を味わっているからだろうか?
 もしそうなのであれば、こどもたちにとって「アート」は、社会性を一旦脇に置いて衝動性を発揮できる、危険行為の免罪符になってしまう。爆発するばかりが芸術なのではないのだ。
 不慣れな保育者は安全性の責任が持てないと不安に駆られ、責任感の強い人ほど現場を離れてしまう。そして”アートの活動”はシフトに余裕のある時にしかできない特別なものになり、なかなか生活には根付かない。実際、そんな現場をいくつか見てきた。

 なぜ、これからのこどもたちは、創造性が必要なのか。
 社会は、企業は、本当に創造力のある人材を求めているのか。
 創造力を伸ばすには、芸術教育が最適なのだろうか。
 そもそも、創造力とは何を指し示すのか。

 多くの教育者たちも芸術の力を予感しているようだが、具体的な教育論や方法に、説得力のあるものは出てこない。それもそのはず、方法論である「芸術」という言葉はあまりに曖昧すぎるし、「こどもの創造力が伸びた」なんて、何を基準にどうやって測ればいいのか、誰もまだ決めてくれていないのだから。


ARTと、artと、芸術と、アート

”広い教育”(専門教育や英才教育を”狭い教育”として対義したい意図)について考えるとき、「芸術教育」という言葉を用いるのは止めてしまってもいいのではないかとさえ、私は思っている。それは言葉の持つ意味の曖昧さに由来する。

「アート」のルーツ

 そもそも「芸術」という言葉を、どれほどの人が正確に把握・理解しているだろうか。そのルーツは、明治初期に西欧から輸入された概念「liberal arts(リベラル・アーツ)」を翻訳するときに考案された。発案者は西周(にし・あまね)。彼は他にも「哲学」「知識」「概念」「心理学」…など、あらゆる日本語を新たに作った。これらの概念(なんて便利な言葉だろう!西氏に感謝する)に該当する日本語を、それまでの日本は持ち合わせていなかったのだ。すなわちそれは、このような価値や思考・思想を、明治以前の日本人は考えもしない暮らしをしていたことを意味する。

「art」の語源は、ギリシャ語「τέχνη (テクネー)」をラテン語に訳した「art(アルト)」から始まっている。「τέχνη 」は現在の英語「technique」やドイツ語「technik」の語源でもある。そのため、「art(アルト)」は「学習や練習の結果としての技術」「自然にないものを作り出す技術」 という意味が中心にあった。そのため「art(アルト)」が示す技術は幅広く、絵画や彫刻、建築のみならず、医学も含まれていた。
 さらに「liberal」は現代語訳に「自由主義」という意味を当てがわれているが、当時の「liberal arts」の直訳は「人が生きるために必要な技芸」「自由になるための学問」という意味があり、7つの学問で構成されていた。

  • 文法学

  • 修辞学(弁論・演説・説得に関する学問)

  • 論理学(論理が成り立っているのか明らかにするための学問)

  • 算術

  • 幾何

  • 天文学

  • 音楽

The Seven Liberal Arts

 なんとヴィジュアル・アーツ的な要素は一切含まれていなかった。したがって西が翻訳考案した当時の「芸術」は、今の私たちがイメージする意味とは異なるものだったのではないかと想像される。現在の私たちが使う「芸術」は、辞書を引くと以下のように書いてある。

げいじゅつ【芸術】
鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術およびその作品。空間芸術(建築、工芸、絵画)、時間芸術(音楽、文芸)、総合芸術(オペラ、舞踏、映画)など。

現代国語例解辞典  [第五版]、小学館

文芸(言語芸術)、美術(視覚芸術・造形芸術)、音楽(音響芸術、聴覚芸術)、総合芸術-舞台芸術・映像芸術、デザイン、その他

上記分類は、表現者が一定の枠内に収まった表現方法を用いた場合に分類可能となるというだけであって、表現者がこれらの枠に収まらない表現を用いる場合や、複数の表現を組み合わせたりする場合なども多い。より包括的な分類方法として「空間芸術」・「時間芸術」・「総合芸術」・「大衆芸術」などもある。

Wikipedia (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%A1%93)

 このように、現在の「芸術」は分類を示すことに使われている側面も強い。様々な表現の総称として「芸術」がある、という構造だ。領域横断的な表現についても、それを一単語で表そうとして「芸術」を用いることがある。各種表現技法の上位層にあたる。

 ちなみに「美術」という言葉は、同時期に入ってきた「fine art(ファイン・アート)」から翻訳・考案された。考案者は諸説見受けられるのだが、大鳥圭介(おおとり・けいすけ)という軍人であり蘭学者が有力のようだ。まぁ状況を想像するに、たった1人で考えて「今日からこういうのを美術と言う」と決めるというよりかは、複数人の議論と実装経験を経て固まってくるようなことではないだろうか。ともかくその初出は、明治6年(1873)に開催されたウィーン万博への、国民への出品勧誘の官令用で、国民にも慣れ親しんだ言葉で「fine art」を説明する必要があった。その時の説明が以下である。

「美術(西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ)」

(明治五年 1872, 官令)

「美術(西洋では音楽、画や像を作る技術、詩作すること等を、美術という)」

 音楽や詩学も美術に含もうとしていたことは、現代の私たちともかけ離れた感覚に思える。しかしそれは当時の日本人も感じていたようで。見た目の美観を取り扱うヴィジュアル・アーツの意味合いを持ち始めるのはこの5年後と、さほど時間はかかかっていない。

「美術と詩、図画彫刻模型家屋の装飾等の工芸を云うなり、英語にて之をファインアートと称す、凡そ(およそ)美飾美観ありて人目を娯ましむる物を作る術なり…….美術の字穏当ならずと雖も (いえども) 今姑く (いましばらく) 之を襲用す

( 大鳥圭介「日本美術」 、『工業』 第10号、1877年 )

「美術と詩、図画、彫刻、模型家屋の装飾等の工芸を、英語ではファイン・アートと呼ぶ。おおよそ、それは、美しい装飾や美観をもち人の目を楽しませるものを作る技術のことである。….「美術」という字が穏当とは言えないだろうが、今しばらくはこの字を受け継ぎ、用いることにする。」

 fine。今で言うなら「いい感じ」である。いい感じな、私たちを心地よくする技術全般が「美術」だった。(現在では、fine artは純粋芸術とも翻訳される。)新語を作ったはいいものの、当時の日本には「liberal arts」同様、「fine art」も、該当するような文化価値観を持ち合わせてはいなかった。発案に関わった大鳥も悩んだらしい。
 日本人は暮らしを整えるための美意識は強く持つ民族だったが、鑑賞という観点のみで何かを作るような文化体験をあまりしてこなかった。強いていうならば茶道にまつわる道具がそれに近いかとも思うが、やはりそれらは道具であり、茶道は道教の思想から派生したものである。西洋の学問として体系立てて扱う「liberal art」「fine art」とは、根本からかけ離れた考え方だった。

ウィーン万博 日本列品所
(https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=145)

 さらに日本は、カタカナという特殊文字の文化を持っている。西洋文化を日本独自の文脈に落とし込み、生活に取り入れることに素早く成功したのも、このカタカナの役割は案外大きかったのではと個人的に推測する。当然、本来持ち合わせていた意味を独自に解釈するので、意味が変わったり、取りこぼしてしまったりしたものも多い。「アート」もその一例だ。特にこの言葉からは「現代アート」のイメージを私たちは強く持つのではないだろうか。今では「芸術」というより「アート」という方がカジュアルに、より身近に感じているかもしれない。

 「芸術」の登場に始まり「アート」が定着するまでに、さまざまな意味を含有し、手放し、紆余曲折し、決着の付かぬまま、今日日何気なく私たちは「ART」「芸術」「アート」を使っている。そして今現在も「アート」の意味は多様化し続けている。
 「ART」はいまや世界中の国々で使われる言葉となった。「アート」の誕生も、何も日本だけのことではない。それぞれの国が持つ文化、暮らし、社会情勢によって、文化的にだけでなく社会的、経済的にも、様々な捉えられ方、扱われ方をしており、独自に育まれている。
 しかし、その幅の広さが「現代の芸術」を豊かにしていることも事実だ。私たちには私たちの「アート」がある、くらいに思っていても何も悪いことはないが、どう育んでいくかはまた別の問題として、私たちは考えなくてはならない。それは芸術やアートに従事する人たちだけでなく、自分たちの文化の営みのひとつとして、広く共に考えてもらえると嬉しい。これは私の、いちアーティストとしての願いである。

こどもの「芸術」に、おとなが夢見るもの

 さて、そもそもの問いに戻ろう。
 幼児教育に携わる人たちの間で使われる「芸術教育」とは、一体何のことを指し、どのような能力や効果を期待しているのだろうか?
 かなり本気で、私も分からなくなってきている。話す人によって「芸術教育」に望むことが若干違う気がするからだ。「芸術」という言葉自体が私たち日本人の間で最初からふわふわとしたまま使われてきたのだから、致し方あるまい。

 おそらく、なのだが、これまで出会ってきた「芸術教育」は、たぶんこんな感じだ。
 ある人にとっての「芸術教育」は、しっかり対象物をよくよく見て描く訓練を経ることで、観察力や洞察力、構造の理解、物質についての理解、集中力等が身に付くことを期待している。
 ある人にとっての「芸術教育」は、自由に発想することや、多角的な視点を習得することで、総合的な創造力が、いつの日か、あるいは中短期の教育を経て、発揮されることを期待している。
 ある人にとっての「芸術教育」は、五感を刺激する活動によって、情緒の安定や人格形成に何かしら影響を及ぼし、役立つものという期待をしている。

 もっと出てくる気もするが、このくらいにしておこう。

 どの「芸術教育」も、多角的な視点からよくよく検討すべきだが、一定の効果が期待できるプランだと思う。問題は、私たちの間で話し合われるとき、どの「芸術教育」についての話をしているのかを明らかにしないまま、事を進めがちなことにある。何を育みたいのか、なぜ育みたいのか、その能力は必要なのか。このような話し合いが、どのくらいされているだろうか。

 そして同時に、こうも思ってしまう。 

 写実的な絵を描く力が、全ての人に必要なわけではないだろう。
 工作が得意な人に、みんながなる必要はない。
 アイデアマンに、みんながなる必要はない。
 神童にも、天才にも、誰もなる必要はない。

 全ての人にとって必要な「芸術教育」とは、どのようなものなのだろうか?そもそも、そんなものは存在するのだろうか?

 その答えを得るには、育みたい能力を明確に設定するしかない。しかし、「芸術」そして「アート」という言葉の共通理解を曖昧にしたまま濫用していることにも起因するが、芸術を通して得られる能力というのは、あまりに種類が多すぎる。いや、種類などど分類できるようなものではなく、享受する人によって効能はさまざまで、かつ横断的な能力なのだと私は考えている。どんな能力を身につけて欲しいかによって、どのような芸術活動を実践するのかは変わってくる。しかもそれは、プロジェクト的な大掛かりな取り組みとは限らない。日常的なささやかな営みの中にも「芸術教育」は存在するのかもしれない。本来の幼児教育中にあるべき姿は、後者だと私は思っている。

 「芸術」を通して、私たちは何を得ているのか。これについて掘り下げることは、こどもの教育を考える上でもとても重要なことだが、膨大で複雑な作業になることも明らかだ。私1人で考えてみるだけでは、とても追いつかないが、少しずつでも議論されなくてはならない課題だと思う。

「造形活動」と呼称するメリット

 このような現状から、私のこども達との活動について「芸術教育」あるいは「芸術活動」という呼称は情報過多になってしまい、何かが歪んだ会話になることに、割と早くから気が付いていた。私自身、「アーティストです」と名乗ると、浮世人みたいな扱いを受けることがあるからだ。まぁ…地に足をつけてお金を稼いではいるつもりだけれど、堅気な仕事ではないし、否定はしない。私についてどう思われようが好きにしてもらっていい。要するに歪みのニュアンスはこんな具合で、理由も同じようなところから起こっている。
 そういうわけで、私は保育関係の人たちに「芸術教育」という言葉を使うことについて、やや慎重になっている。冒頭に書いた「『芸術教育』という言葉をやめても良いのではないか」という提案も、それが理由だ。この言葉の真意を、私はよく理解しているつもりだ。だからこそ、混乱を招く言葉の汎用に危険を感じているのだ。

 私は随分と前から「造形活動」という言葉を用いて、自己の活動を紹介していた。ここで、自身の経歴にも少し触れながら、近年の私の活動と考え方について、改めて簡単に説明しておきたい。

 私は「美術」を専攻して芸術大学大学院を修了しており、アートワークは絵画や立体にとどまらず、立体装置、音響装置、パフォーマンス、写真、映像、文章表現と、幅広く扱っている。そのため、メディアの特性をよく知っているし、さまざまな素材の特性もよく知っている自負がある。どういう素材が素手でも加工でき、こどもに渡しやすいのか、こども自身で工夫しやすいのか、どのような加工を施すと何ができるのか、何と何を掛け合わせるとどういう現象が起こり、それを応用すると何ができるのか….など。また、私自身が興味を惹きつけられることは、こども達の興味も惹きつけるだろうという、(側から見たら謎の)自信がある。私の制作動機は、自身が子供だった時の興味の延長上にあることが多いからだ。この自信はきちんと成果を出しているので、きっとご納得いただけると思う。

 こういった経験から、保育室の工作コーナーや工作室の充実、保育士さんが普段の遊びで扱う素材への、さまざまなアドバイスをさせていただいている。提供の仕方、片付けの段取り、環境設定、年齢と育ちに合わせたアプローチの方法…と、こども達にとってより満足度の高い経験にするにはと思えば、考えるべきことは尽きない。私にとって、真のクライアントはこども達なのだ。また教職の経験から、こども達にどのような体験を与えたいのか、大人達の願いは何なのか、ということも丁寧に保育者と共に明らかにする。

 初めは、3歳以上のこどもたちの遊び方を観察して、そこに適した素材、工夫のきっかけになる素材や、こども達にとって発見の多い素材を用意することから始まった。そこで気がついたことは、こども達は大人が全てを用意しなくても、環境を整えてやり、道具の使い方を教え、必要に応じて適切な補助をするだけで、自ら発見し、考え、工夫し、その連続が遊びになっている、ということだった。
 3歳児がこの一連の活動に主体的に強く関心を持ち、自ら遊び込めるようにするには、さまざまな力がこの時点までに育っていなくてはならない。知力のみならず、体力も大切だ。脳の指示が身体に適切に伝わって、自分の身体を自らが思うように扱える練習をしておきたい。精神面での育ちも忘れてはいけない。そのためには2歳の育ちが大事になってくる。同様にして、1歳の育ちが大事になる。同様にして、0歳の育ちが大事になる。何歳までにハサミを使えるようになっておこう、という目標は表層的なことで、道具の使い方を知ることよりも、道具を使えるだけの身体能力や知力、その他総合的な能力を問題にしている。

 この気づきを得たからといって、いざ実践に取り入れるのは試行錯誤の連続だ。こどもの性格、発達度合いによってもアプローチは変わる。一人一人個性のあるこども達に合わせることを考えると、絶対の正解はない。相手は人間なのだから、常に変化する。

 10年間、こども達の活動を側で見ていてはっきりとしたことは、芸術性などというものは、大人が勝手に見出すに過ぎない、ということだった。こども達は自らの探究心と好奇心の赴くままに、説明のつくものを作ることもあれば、説明のつかないものを作ることもある。そういうものだ。鑑賞してもらおうと思って、作ってもいない。(先述参照として提示した、現代国語例解辞典  [第五版] の「芸術」を、ぜひ遡ってみて欲しい。)いずれ大きくなったときに、その素晴らしさ、面白さに気がついてもらえたら、人生が少し豊かに感じてもらえるかもしれないのであって、人生を豊かにする方法はこれに限らず無数にあるはずだから、どうか安心してほしい。

絵具の色や艶の美しさに、筆の持ち主が囚われているかは、本当のところは誰にもわからない。
とにかく筆を手に持つ人は、この視界と感触に熱中していることは事実で
私はこれらを美しいと思って、見惚れた。

 「造形活動」と呼称する良い点は、こどもたちの日々の営みに馴染むことにあると思っている。心の赴くままに絵を描くことも、大人から見れば「造形活動」の一部と見做せるし、ごっこ遊びをするときに小道具を作ることも「造形活動」と言って、違和感が少ない。両者の活動は、制作目的の有無にあるため、厳密には質の違うものになるのだが、多くの大人からみて区別がつけ難い。またこども達のほうも、目的の有無が制作の途中で変わることもある。その余白を残すためにも「造形活動」という呼称は、総合的に見て都合が良いと感じる。

 「芸術活動」は、何度も繰り返しになってしまうが、あまりに幅が広い。私の得意とする造形活動以外、音楽、身体表現、工藝、文学…etc.それらの活動が、こども達にとって大きな影響を与えることは確かだ。ぜひ専門家達がこども達との営みに関わってもらえるならばありがたいが、ここで考えている保育・教育は、決して芸術のエキスパートを育てたいのではなく、そのエッセンスを理解し、こども達に届けたいと考えているはずだ。


育みたい「創造力」とは

生きるを創れ

 「芸術教育によって、創造する力が育まれる」というような話がしばしば聞こえるが、それは確かな理論なのだろうか。私の結論から述べると、創造力は芸術教育以外のところでも育むめる力だし、創造力とはあらゆる能力の総合力でもある。

 芸術から得られる能力は、先述の通り、多様且つ複雑ゆえ一旦脇に置くことにしたけれど、「創造力」もこれだけでは大雑把な言葉である。この言葉をコピーに用いることで耳目を集めようとする風潮には賛同しかねるが、ただ、これからの社会を生き抜くために必要な力であることは私も同意する。
 なぜ「創造する力」が、いまの時代に求められ、それがどのような質のものであるのか。「芸術教育」に比べれば、まだ明確にしやすい。小学校教育指導要領には、以下のようにある。

…人工知能がどれだけ進化し思考できるようになったとしても,その思考の目的を与えたり,目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大きな強みであるということの再認識につながっている。

「小学校学習指導要領(平成29年告示)解説」第1章 総説、1改訂の経緯及び基本方針
(1) 改訂の経緯(全科目共通)

中央教育審議会答申においては,予測困難な社会の変化に主体的に関わり, 感性を豊かに働かせながら,どのような未来を創っていくのか,どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え,自らの可能性を発揮し,よりよい社会と幸福な人生の創り手となる力を身に付けられるようにすることが重要であること,こうした力は全く新しい力ということではなく学校教育が長年その育成を目指してきた「生きる力」であることを改めて捉え直し,学校教育がしっかりとその強みを発揮できるようにしていくことが必要とされた。また,汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流を踏まえつつ,知識及び技能と思考力,判断力,表現力等をバランスよく育成してきた我が国の学校教育の蓄積を生かしていくことが重要とされた。

「小学校学習指導要領(平成29年告示)解説」第1章 総説、1改訂の経緯及び基本方針
(2) 改訂の基本方針、 ②育成を目指す資質・能力の明確化(全科目共通)

 何を創造するのか、という判断はAIではなく、最終的に人間が行う。したがって「目的のよさ・正しさ・美しさ」を判断できる人間でなくてはならない。そのためには、この時代に合った倫理観と、それを鵜呑みにするだけはでない個人の美学・美意識の確立も必要になってくるだろう。
 そして、「よりよい社会」を創ることもさることながら「幸福な人生の創り手となる力を身に付けられる」ようにするための総合的な能力、つまり自らにとっての「幸福な人生」を自らの手で創る力、が求められている。これは小学生に限った話ではなく、大人にも求められている力ではないだろうか。どのような人生を幸福とするのかも、個人の美学・美意識がなくてはイメージが難しい。この二つは両輪なのだ。
 未就学児は、そのための素地を育むと考えるのが妥当だろう。保育所保育指針も、参照しておこう。

保育所は、子どもが生涯にわたる人間形成にとって極めて重要な時期に、その生活時間の大半を過ごす場である。このため、保育所の保育は、子どもが現在を最も良く生き、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培うために、次の目標を目指して行わなければならない。

「保育所保育指針」第1章 総則 1 保育所保育に関する基本原則 (2)保育の目標 より

ここでもやはり「つくり出す」という言葉が出ている。

 幼児にとって「現在を最もよく生きる」とは、どういうことか。健康で文化的な生活と人権が守られていることは大前提だ。そこに加えて、彼らの毎日の「遊び」の質の充実ではないかと、私は考える。

 自分にとってよりよい遊びは、人によって違う。今日の自分を満たす遊びが、保育園やこども園、幼稚園で、毎日見つけられることが大事なのではないだろうか。たくさんの玩具が必要なのではなく、自分に合った興味を見つけ出せること。その興味をなんとかして、時に大人の手も借りながら、しかし最後には自らの力で実行できるようにすること。つまり「遊びを創る力」こそが、こども達に育まれてほしい「創造力」ではないだろうか。この能力は大人になっても必ず応用が効く。まさに「生きるための力」そのものだ。

 熱中して遊ぶこども達の背中を見ていて、ふと分かった。よく遊べ。あなた達の仕事は、遊ぶことだ。

水を無駄遣いしていると捉えるか、水の浮力や重力を経験していると捉えるか。

あそびの台所

 私の勤める千葉県流山市にある小さな保育園では、保育室における工作室の位置付けにおいて、ある程度の「解」を出すことができたと思っている。

 私は最初から工作室を「作ることを遊ぶ」場所とは捉えていなかった。工作室を「遊びの解像度を上げる」ための場所にしたかった。そのビジョンを、園長先生をはじめ保育士の皆さんが理解を示してくれ、保育室全体の導線設計の際、参考にしてくださった。
 ひとつのビジョンを私が示したと言っても、普段運用していかねばならないのは保育士さん達だ。彼ら彼女らが、こども達と一緒に安心して使えるレイアウト、常設素材の選択、提示方法を採る必要があり、週一日しか行かない私には見えていないトラブルもたくさんあったことと思う。毎週行くたびに先生達が、嬉しいことも、思うように行かなかったことも、教えてくれるようになった。

 「新しい素材にみんな興奮してしまって、うまく場を納められなくて、クローゼットに一旦納めてしまいました…。また機会を見て挑戦してみます。」
 「食いつきがすごく良くて、すぐに無くなっちゃいました。また買っておいてもらえませんか。特に〇〇ちゃんが面白い使い方をしていて、後で見てください!」
 「あの道具箱、先生がサインを作ってくれたんですか?すごく伝えやすかったです。」

 みんなで試行錯誤してくれ、こども達と一緒にそのプロセスを楽しんでくれた。
 最終的には、常設の工作室には常に誰かが出入りして何かが作られながらも、同時に小さな臨時工作スペースが至る所で作られるようになった。これによって、あそびの隅々に「創る」が入り込むようになった。
 この空間の使い方を全員が理解し、一番使いこなしてほしいこども達にまで届いているなと思えるまでには時間はかかったし、まだまだ変えていけると思う箇所もあるけれど、生活とあそびと工作室をつなげて運用するバランスは、今、とても心地よい状態になっていると思う。

 そして最近、自宅にて、保育室のこども達の姿を思い返していたとき、
 「工作室は『あそびの台所』なんだ」
という言葉が降りてきた。我ながら、なんてぴったりな例えだろう、と思った。
 毎日食べたいものをつくるために台所は絶対お家の一角にあるように、毎日遊びたいものをつくるために、工作室は必ずいつも存在する。お台所を空間の中心に据えるのか、はたまた導線を重視するのか、住まいの間取りを作るのと同じように考えると、わかりやすいかもしれない。そして、この空間を絶やさず保持することは、こども達がアイデアを生み出す権利をいつも絶対的に守るよ、というメッセージでもあるのだ。

 「あそびの台所」で、どんなストーリーが生まれているかについては、またいつかnoteにて紹介したいと思っている。 

「芸術」への原点回帰

 言葉は、便利な道具だが絶対的なものではない。時代によって、人によって、言葉は揺らいで行く。「芸術教育」という言葉を、まだまだ私たちは使いこなせていないが、「芸術」=「liberal arts(リベラル・アーツ)」の原点は、人間にとって大切なことを思い出させてくれる。こちらの意味の方が、もっと広まった方がいいのではないか。

Liberal arts
=  自由になるための学問

 私はこども達との「アート」をそういうものに位置付けられるなら、これ以上に幸せな仕事はない。



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参考文献
エティモンライン - 英語語源辞典  art(n.)
語源英和辞典  art
https://gogen-ejd.info/art/

Masaki Hagino、「アート」と「ART」と「芸術」と「美術」の違いとは?現代美術家が解説(2023)
https://irohani.art/study/11999/

石井 拓洋、「美術」 の語史 〜 「美術」という日本語はいつ誕生したか? 当初のそれは何を意味していたか?(2019)http://www.iiitak.com/topic/word_history_of_bijyutsu.pdf

Wikipedia 芸術
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%A1%93

「現代国語例解辞典  [第五版]」小学館
「小学校学習指導要領」(平成29年告示)解説
「保育所保育指針」(2017年告示)


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